第二章 8
ひと月が経ち、七番目の月、淡宵葵の月になろうとしていた。
ルウェインとヴラリアのいる陣営はテニサ・アニサクス・ラキサス・メヨホ・ヴェルエと帝国を取り囲む各王国の五連盟で、いずれも魔導師たちの人権を保護し、人々の生活を守らんと立ち上がった王たちである。
他の大陸からも続々と同じような志の者たちがやってきて戦いに参じているが、そのような者たちがいるにも関わらず帝国の態度は変わらずふてぶてしい。なんといっても広大な領土に守られ、秘密めいた古代科学技術が味方しているというのであれば、どれだけの数の魔導師たちがいようとものの数ではないといったところであろうか。
それを物語っているかのように、ある日の戦いの夜、帝国のある方向から煙幕が上がったかと思うと、魔導師たちの陣営のテントに次々と火炎弾が打ち込まれ、魔導師たちは間断なく燃え続けるあれこれに容赦なく追われ続けその大多数が死に絶えたという。
五連盟はこれで手痛い深手を負った。
しかし、五連盟には針師がいた。
二メートル近くにも及ぶ大男の肩に乗った針師の娘が次々に繰り出す針の大小は、帝国の兵士たちを駆逐した。それは、古代のあらゆる武器をも撃退した。
銀の髪の針師が、五連盟にいる。その女が帝国の兵士を大量に殺しているらしい。その知らせは戦場にもたらされ、一気に駆け巡り、兵の士気を高揚させた。
魔導師たちを大量に失い、意気消沈していた兵士たちの団結心が、ここにきて揚々と上がっていった。テントでは皆が歌い、飲み、陽気にはしゃいで今を楽しんでいた。
ヴラリアはそっとそこを抜け出て、外の空気を吸いに出た。
いつも一人でいた彼女にとって、人に囲まれるのはどうも苦手であった。ここでは、彼女は人気者で、英雄で、座の中心であった。しかし、彼女の人生は、そうではなかった。 ヴラリアはいつも、つまはじき者であった。だからこういう時、どうすればいいかわからなかった。
そっとなかを伺うと、ルウェインが娼婦の一人とご機嫌で話しているのが見えた。なんとなく気になって見ていると、娼婦は赤毛で、得意げにルウェインとなにかを話し、彼も満更ではないようである。そして赤毛は人差し指でルウェインの顎をつつつつつ、と撫でると、思わせぶりに袖を振ってあちらへ行ってしまった。
ヴラリアはなかへ入った。ルウェインはなにかをしきりに笑っている。ヴラリアが側へ寄ると、彼は顔を上げた。
「よう」
「なにを話していたの?」
「ん?」
「彼女と。なにを話していたの?」
「彼女って?」
「あの赤毛の彼女と、なにを話していたの?」
「あ? ああ、なんでもないことさ」
「嘘。なにを話していたのよ」
「おいおいなんだよどうしたんだよ」
「私のいないとこでなにを話していたのよ」
「ちょっと待てよ」
「離してよ」
ヴラリアの腕を掴み、離れたところへ行こうとするルウェインに、ヴラリアは抵抗する。「ちょっと見て、痴話喧嘩よ」
「針女と旦那の喧嘩みたい」
「面白いわねえ」
周囲の娼婦たちが囁き合う。
「ルウェインようかみさんの機嫌悪いのか?」
「ほっとけ」
周りの傭兵仲間が囃し立てるのも聞かず、ルウェインは逃げるヴラリアを追いかける。「ヴラリア」
「触らないで」
「待てってば」
「いや」
「待てよ」
テントから遠く離れて、星空の下で二人はようやく二人きりになった。
「なに怒ってんだ」
「怒ってなんかない」
「じゃなんなんだよ」
「……」
ヴラリアは顔を背けた。
沈黙が辺りを支配した。
夏の草原が、辺りに広がっている。虫の声が、時折聞こえる。紺青の空の元、二人の影だけが切り取られたように息吹となっている。
ルウェインは少し離れたところにいるヴラリアをじっと見つめていた。自分を突き放す、その背中。
「どうしたんだよ」
「……あなたが」
うん? 彼は聞き返した。
「あなたが誰か女の人と話すの、見慣れていないの」
「――」
「こわいの」
その肩が、微かに震えている。
「こわいの」
「ヴラリア……」
草を踏みしめて、ルウェインはそっと近寄った。近寄って、その震える肩を抱き締めた。
「悪かった」
そして泣き顔を見ないように、その顔も包んだ。
「俺にとって娼婦ってのは母親と同義だ。寝る対象じゃねえ。母ちゃんなんだよ」
そしてそっと囁いた、
「俺にはお前だけだ」
それからニ、三日したある昼下がり、野営地をなにげなく歩いていた女が、後ろからやってきた男にぶつかられたかと思うと、
「あっ……」
と叫び声を上げ、
「誰か!」
と倒れてしまった。傭兵たちが駆け寄り、どうしたと声をかけると、どうやら金を取られたようである。彼らが顔を上げると、金をすり取った男は一目散に駆け抜け、目にも止まらぬ速さで行ってしまって、もうどこにも姿が見えない。
「あーあー」
「ありゃもう追いつけないな」
「姉ちゃん諦めな」
「ちくしょう今日の稼ぎが台無しだよっ」
女はどうやら、娼婦のようだ。彼女が傭兵たちに手を貸してもらいながらどうにか立ち上がり、ぶつぶつと口汚くスリを罵っていたその時、
ズトッ
という音がして、皆が何事かと顔を上げた瞬間、ヴラリアが向こうから歩いてきた。そして手になにかを持って、
「はいこれ」
と女に手渡した。
「あ……」
それは、女がスリにすられた革の袋であった。
「これでしょ」
女はヴラリアを見上げて唖然としている。
「おい、そうか」
「そうなのか」
周りの傭兵が、女に聞いてやっている。
「え、う、うん」
「そうだってよ」
「ありがとよ」
「ほら、礼を言いなよ」
「え、あ、ありがと」
「ありがとな針の姉ちゃん」
「じゃあな針の姉ちゃん」
ヴラリアは微笑んで、傭兵たちと女から離れて歩き出した。
それを黙って見ていた女がいた。
あの日ルウェインと話していた、赤毛の娼婦であった。
赤毛はヴラリアがテントに入っていくのを見ていたが、彼女が用事を済ませてからしばらくしてまた外に出て行くのを見て、ちょっと考えて追いかけて行った。
「ねえあんた」
赤毛は風に吹かれているヴラリアの背中に呼び掛けた。ヴラリアは気がついて、振り返る。
「殺したの? さっきのスリ」
銀髪を押さえながら、ヴラリアは微笑む。
「誰も困らないと思って」
いけなかった? その微笑に、悪気はない。赤毛は口元を歪めた。
「参ったね。虫も殺さないお嬢さんかと思ったら」
「あら、戦場ではもっと殺してるわ。知ってるでしょ。帝国を駆逐する針師。五連盟の奥の手」
「知ってる。旦那の肩に乗って、手をひらひら振って、針を自在に出すって噂」
「噂じゃないわ。ほんとよ」
風がそよ、と吹いた。
「その割にもろいって話」
うすい青の瞳が、わずかに揺れた。
「それもほんとよ」
「……」
「好きなひとの一挙手一投足に振り回されてるわ。あのひとがいなくちゃ、なにもできない。恋に振り回されてる。恋の虜」
「一世一代の恋ってか。噂の針師がかい」
「確かに恋は素晴らしいもの。エメラルドより貴重でオパールより高価。真珠でも、柘榴石でも買えないし、市場にも並ばない。商人からも買えないし金貨と秤にかけることも無理」
「あんた、そこまで言うのかい。そりゃもう恋じゃない。そりゃ愛だよ」
「――」
サラ……
銀の髪がなびいた。
しばらく、赤毛もヴラリアもなにも話さなかった。
「じゃ、あたしは戻るよ」
赤毛が行ってしまっても、ヴラリアはそこに留まっていた。なにを言われたのか、それがよくわからなくて、ずっとそれを考えていた。
「おう、そこにいたか」
彼女をさがしていたのか、ルウェインがやってきた。
「あ」
ヴラリアは顔を上げて、彼を見た。
「軍議が始まるってよ」
「うん」
ヴラリアは立ち上がって、ルウェインと共にテントのある方向へ歩き出した。
薄闇が草原に広がり、夜が訪れようとしている。
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