第二章 5

 山を降りると、小さな王国が見えてきた。二人はそこで宿を取って、しばらく滞在することにした。帝国からは大分離れているので、密告の恐れはないといってよかった。

 魔導師はこの国にもいて、その恵みは滞りなく経めぐっているようであった。この国ではまだ雪が残っていて、春が遠いようだった。山をいくつも越えて来たから、春も遅いのだった。

「ははあ、季節が遅れてくるんだな」

「そうね」

 見ると、春は今しもやって来るようである。今から咲くような春の花がほころびそうで、この間迎えた季節をもう一度迎えられるような、なんだか得をしたような気持ちになって、華やいだ気分になった。

 エイナをここに呼んだら喜ぶかな、とちらりと思ったが、それもすぐに忘れた。彼女のことを好きだったことなんて、とっくの昔に失念していた。

 酒場の隅に、すみれの花が咲いている。イェータはそれを見て、その紫を愛しげにうっとりと見つめた。

『春を迎えて様々な花が咲き乱れるけれどすみれは違う。』『私はすみれ、私だけが春にうつむく。夢の国と死者たちのことを忘れられないから』。という詩を思い出し、イェータはまた前を向いた。あの頃は、こんな逃亡の生活がやってくるとは思いもしなかった。「腹がへったな」

「そうね」

「なにを飲む」

「赤ワインかな」

「好きだな」

 イェータはいつも、赤ワインを飲む。こっくりと濃くて、のどごしがなめらかで、重たい味をイェータは好む。

 レヴィルは逆にさっぱりとした酒ならなんでもいいので、こだわらない。食事を終えて酒場の二階に宿を取り、それぞれ休んだ。しかし、レヴィルはなかなか眠ることができなかった。

 明らかになったイェータの過去、魔導師としての彼女の覚悟、その潔さ、瀕死となっても変わらないその美しさ、そのどれをもが、彼を魅了してやまなかった。

 王国に逗留して七日目、とうとう我慢ができなくなったレヴィルは、夜中に突然イェータを訪ねた。ノックの音に訝しげに扉を開けた彼女は、やってきたのが彼だとわかると、

「なんだ、あんたかい。どうしたんだい一体」

「あんたが天才だとか、育ちが複雑だとか、そんなことはどうでもいい」

「あん?」

「ただわかってほしいんだ。俺は、魔導師としてのあんたが好きなんだ」

「――」

 呆気に取られるイェータに、彼は尚も言った。

「ひとの暮らしを守る覚悟のあるあんたが好きだ。潔さのあるあんたが好きだ。天才でなくてもいい、処女でなくてもいい、あんたじゃなくちゃだめなんだ」

 そう言うと、レヴィルはいきなりイェータを強く抱きしめた。

「ちょ、ちょっ……」

 そしてそのうすい唇を奪った。

 イェータの青い青い瞳が静かに伏せられ、ぱたん、と静かに扉が閉じられた。



 想いは、堰を切ったように溢れた。

 会うたび抱かれるたび、レヴィルの情熱的な振る舞いは日に日に濃くなっていった。まるで、イェータの好むワインのように。

 この王国に来るまで、すっかり路銀は尽きていたから、しばらくここに滞在して稼いでから発たねばならなかった。

 この街には当然のように魔導師がいるから、イェータは表立って魔法を使って稼ぐことはできない。せいぜい、医者に毛が生えたくらいの民間療法程度のことで日銭を勝ち得るくらいが関の山である。よって、レヴィルが日雇いで出稼ぎに行くのが主な役割となっていた。

「咳が出るのかい。梨をすりおろして、金柑となつめとお湯で飲ませてあげよう。すぐに止まるはずだよ。さあ飲んでごらん」

 イェータがその日の患者の子供に咳止めを飲ませていると、レヴィルが帰ってきた。

「ああ、お帰り」

 山には色々な魔物が出る。呪い、妖怪、怪し、化け物、人の怨念から動物の類まで、

実に様々だ。いたずらから深刻なものまで、その依頼は多様である。

 患者を帰して、イェータが今日の首尾を聞こうと顔を上げると、レヴィルの機嫌は悪いようである。

「どうしたの」

「どうもこうもないよ。行ってみたらひどい目に遭った」

 行方不明の娘がいるから探し出してほしい、と言われて行ってみれば、いなくなったはずの娘は駆け落ちだった、娘は恋しい男といなくなっていて、このまま行方不明ということにしてほしい、内緒にしてほしいと頼み込まれ頭を下げられ、金まで払われて追い払われ、仕方がないから帰ってきてみれば、娘の親には役立たずと罵られる始末というわけである。

「まあ、若い恋人たちの役には立ったんだからいいじゃないか」

「それはそうなんだが、なんだか腹が立ってなあ」

「金にはなったろ」

「それはそうだが」

 納得いっていないレヴィルの肩をぽんぽんと叩いて労い、イェータは彼の上着を受け取る。二人はこうして暮らすようになってひと月になるが、財布は分けているし、なんなら時々部屋だって分けて暮らしている。イェータは馴れ合いになることをひどく嫌ったし、そんな彼女をレヴィルは尊重した。

 イェータに踏み込む、ということを、レヴィルはしようとしなかった。複雑な人生を送ってきた彼女のことを精一杯思ってのことであったのだろう。

 そんなある日、一件の依頼が持ち込まれた。それは、既に二人の請け合い人が犠牲になっているものであった。

「なんでも、一人は全身に噛み跡が、一人は溺死の様子が見られたそうだ」

 話を持ち込まれたレヴィルは、慎重にイェータとその案件を話し合った。

「……死に方が同じじゃないんだね」

「ああ。なんでも、調べたところ、一人は小さい頃犬に噛まれたことがあって、もう一人は海で溺れたことがあったそうなんだ」

「どっちも恐怖に直結してるね」

「そうなんだ」

 レヴィルは考えた。俺の恐怖は、なんだろう。幼い頃からの経験がいくつも考えられた。

「……行くの?」

「行こうと思う。依頼料、いいんだ。この国にいつまでもいるわけにはいかないし、この依頼料をもらったら出発できる。そろそろ発たないと、まずいし」

「……そう」

 イェータの青い、おおきな目が心配そうに伏せられた。

「気をつけて」

「ああ」

 送り出されて、レヴィルは出かけて行った。

 山の洞窟は、じめじめとして光苔があちこちに生えていて、薄暗い場所であった。松明で照らして言われた場所に行くと、その祭壇は確かにそこにあった。

 パチ、パチ、と松明の火が爆ぜる音だけが不気味に響き、レヴィルは緊張で松明を握る手を強めた。祭壇の上に、誰かいる。その誰かが、むくりと音もなく起き上がった。

「――」

 その誰かは、知った顔だった。

『レヴィルぅ……』

 イェータの顔。

 しかし、その声はイェータの声ではない。彼女の声は、こんな金切り声ではない。これは、彼女ではない。

 レヴィルは奥歯を噛みしめた。そして剣を強く握ると、なにも考えずに一気にイェータの首を斬り落とした。聞くに堪えない悲鳴を上げて、それは倒れた。

 見る見る霧消していくそれを見て、レヴィルはほっとため息をついた。全身には、不快なほど汗をかいていた。急いで洞窟を出ると、逃げるように街へ戻って行った。

 そして一目散に宿へ戻り、彼女の待つ部屋へ走って行った。

「あ、お帰り。はやかっ……」

 イェータが言い終えるより先に、彼女を抱き締める。

「……どうかしたの?」

 腕のなかで、イェータが自分を見上げている。よかった。俺がさっき殺したのは、彼女ではない。

「……なんでもない」

 まさか、君の首を落としてきたとは言えない。愛しい愛しい、俺の恐怖。

 レヴィルは腕のなかのイェータの温かい感触にほっとしながら、なかなか彼女を手放せないでいた。


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