第二章 4


 医者が呼ばれ、脈を測り、囚人の死亡が確認されると、死体が運ばれた。死んでいた罪人は何人もいたので、ついでにと運ばれた死体は何体もあった。ちょうど交代の時間であったので、酒樽が運び込まれ、それと同時に空の酒樽も王城のなかから運び込まれた。

 怪しいことは、なにも起こらなかった。

「旦那、旦那」

 酒樽を積んだ馬車を操りながら、農夫は前を向いたまま囁いた。

「もういいですぜ」

 すると、後ろの空の酒樽がごそごそと動き出し、蓋が開き、ぽん、という音がしたかと思うと、

「ふわあっ。苦しかった。死ぬかと思ったぞ。狭いな」

「イェータ様は、どんな具合で」

「あ、そうだった」

 レヴィルは慌てて狭い酒樽からうんしょ、うんしょと言って出てくると、隣の酒樽から半死半生のイェータを引きずり出した。そして紫色の顔色をした彼女の鼻の下を探ると、

「よし、辛うじてまだ息はしているぞ」

 と呟くと、

「ゆっくり急いで戻ってくれ。医者に診せなきゃならん」

「難しいことを言いなさる旦那だ」

 農夫はぶつくさ言いながら馬に鞭をくれると、馬車を急がせた。

 街に戻ると、イェータの帰還は秘密に附された。捕まった魔導師が戻ったなどという噂が流れたら罰されてしまうし、またイェータが捕まってしまったら元も子もない。治療も、秘密裡に行われた。

 部屋から出てきた医師は、重い顔でため息混じりでやってきた。

「先生……」

 レヴィルは立ち上がって、案じ顔で尋ねた。

「どうなんでしょう具合は」

「内科的には、なんの心配もありません。ですが、外傷がひどい。むごい拷問をいくつも受けて、あれでよく生きていられたものです。どうしてあんな目に遭われたのかまでは、私にはわかりませんが」

 真の名を言わせるためだ。

 レヴィルは唇を噛みしめた。

 魔導師の真の名を言わせるためだ。

「とにかく、意識が戻っても、しばらくは絶対安静です。翠縹の月までには回復しないでしょう」

 レヴィルは頭を下げて医師を見送った。そして部屋のなかに入ると、眠るイェータの寝顔を見つめた。およそ、安らかに眠るのはどれくらいぶりかというほどに昏々と眠っている。

 よほどに地下牢での生活が堪えたとみえる。細かった身体は、今ではやせ細ってごぼうのようになってしまっている。そっとその額に触れると、ぞっとするほど冷たかった。  よく耐えたな。

 苦し気に息をする、青い顔。それでも彼女は美しかった。

 翌日から、レヴィルは目を覚まさないイェータの周りをそれはそれはまめまめしく看病した。熱が出たら額に濡らしたタオルを置き、熱を測り、薬湯を飲ませ、腋下を冷やしてやり、受けた拷問の傷を一つ一つを見ては消毒して膏薬を塗ってやり、また包帯を巻いてやった。

 一週間もするとイェータの意識は戻り、そこから二週間して彼女はようやく起き上がれるようになった。地下牢ではろくな食事も出なかったので、彼女はまだお粥くらいしか食べられない。

 爪をすべて剥がされてしまったので、自分では食べられないゆえに、レヴィルが食べさせなくてはならなかった。

「ほら、あーん」

「……」

 口を開け、お粥を食べるイェータに、レヴィルは献身的だ。往診に来た医師にも彼のことを聞いたのだろう、なぜそんなによくしてくれるのだろうという疑問が、イェータにはある。特別よくしてやったつもりはないし、出会いに至っては最悪だった。

「あーん」

 咀嚼するのをやめ、イェータはレヴィルをじっと見つめた。

「ん? 舌でも噛んだか」

「なんで……」

「うん?」

「なんでこんなによくしてくれるのさ」

「え?」

「私ゃあんたになにかしてやった記憶なんてないよ。なのに命の危険を侵して王城にまで忍び込んで、なんで助けたりするのさ。赤の他人だよ」

「うーん」

 レヴィルはお粥の入った器を置いて、頭の後ろで腕を組んだ。そうすると、彼はひどく子供っぽく見えた。

「なんでだろうな。なんか、ほっておけなくて。だってあんた、あの女のために自分を投げ出しただろ。魔導師の務めだからとかなんとか言ってさ。なんか、感動しちゃってさ。 それって、魔導師だからっていう理由で自動的にできることなのかなって考えても、できる人間とできない人間がいると思うんだ。俺は自分で、できない人間だと思う。だからできる人間が、すごいと思う」

「……」

「だから助けた……かな」

 イェータはうつむき、ぽつりと言った。

「……わかんない男ね」

 傷の治りは遅く、四番目の月、花紺青の月になっても傷はなかなか塞がらなかった。しかしベッドから起き上がれるようにはなって、立ち歩きはできるようにはなったので、自分のことは自分でできるようにはなり、衣食のことは一人でできるようになった。

 もうすっかり春である。

 ある暖かい日、イェータは人目を忍んで裏庭に出て、ぽかぽかと暖かい春の陽気を楽しんでいた。建物の日陰でそこだけ日が差し込んで、さながら天国のように暖かかった。

 イェータはまだ疼く傷に微かにうめき声を上げながらそこに座り込み、建物によりかかって小さな名もなき花を見ていた。

『神々の目には花と炎は似たようなもの。花は触れる炎、炎は触れない花。萌える、燃える』

 師の元で学んだ一文が、頭のなかをよぎる。あれは、なんという本であったか。

「なんだ、こんなところにいたのか」

 顔を上げると、レヴィルがいた。

「だめだよ、外にいたら」

「外の空気を吸いたかったのよ」

「誰かに顔を見られたらまずいよ」

「今行くったら」

 やがて五番目の月、翠縹の月となった。医師の言葉通り、イェータの身体はすっかり元通りになり、身体が傷だらけなこと以外は、なにも異常は残らなかった。

 二人は街から出ることになった。またこの街は、しばらくは魔導師は募らないという。 不便なこと極まりないが、同じことが起こって無辜の魔導師が捕まってしまっては申し訳がない、それでは立つ瀬がないというので、話し合いの末そういうことになったというのである。

「帝国の息がかかってない国というと、離れた国になるな。ラウリア大陸だと、確実な場所でいえばサフサーフ辺りまで行けば大丈夫だろう」

「そうだろうね。遠いし、異郷だ。そこに行こう」

 そこまで行けば、この女も魔導師としてもやっていけるだろう――あれ? 俺の目的はそれだっけか? レヴィルは首を傾げた。

 サフサーフに行くまでには、途中いくつも山を越えなければならない。山は険しく、雪が深く残っていた。

 レヴィルはイェータと出会った最初の雪深い山を思い出していた。今思えば、散々な目に遭ったな。思わず苦笑していると、

「なににやにやしているんだい」

 と口撃が飛んでくる。

「いえ、なんでもないです」

 背を伸ばし、薪を火にくべて、レヴィルはてきぱきと動く。イェータに怒鳴られないためには、こうするしかない。

 ふん、と鼻を鳴らして、イェータは焚火を見つめる。まだ夕方だが、山の夜は早い。日が落ちる前に火を焚くことにしたのである。

 暗くなると、イェータの銀の髪が火に照らされてゆらゆらと妖しくきらめいた。それがまぶしくて、レヴィルは思わず目を細めた。そして、王城の地下牢で起こったことを思い出して、少し気まずくなって、やるせなくなってうつむいた。

 イェータがそれに気が付いて、顔を上げた。

「なんだい。どうしたんだい」

「あ、いや、あの……」

「なんだよ」

「あ、あの……」

「言いなよ。男らしくないね」

「そのう……」

 指と指を突き合わせて、レヴィルは言いにくそうにする。なんとかして言い逃れをしたいが、イェータは逃がしてくれそうにもない。追及を続けるおおきな青い目は厳しく自分を見つめているし、これは、言わないと彼女は一晩中でも責め続けるだろう。

「あの……その……」

「なんだい。言っちまいなよ」

「だから……その」

「吐けってば」

「えと……あの……」

「くどいねえ」

「あの……あんたの……」

「私の?」

「その……操、を」

「……なんだってえ?」

「奪われちまって、その、気の毒、だと、思う」

「……」

 イェータはしばらく沈思しているように固まっていたが、やがてふっと口元を歪めて笑って見せた。

「それはそれはお気遣いどうも。処女だと、思ったのかい。それはそれは」

「そっ、それは」

「お生憎様。経験済みだよ」

「でも!」

「でも?」

「よ、よってたかっては、ないだろう」

「……ないよ」

 パチ、と焚火が爆ぜた。

 気まずい沈黙が辺りを支配した。

「ないけど、平気さ」

 イェータがなんでもないことのように言ったので、レヴィルは顔を上げた。

「私はね、十三の時に男を知った。無理矢理だった。それ以来、体を売って生きてきた。 だから、犯されるなんてへっちゃらさ。よってたかって男三人になんて、だからなんだっていうのさ。目瞑ってりゃその内終わる。平気なんだよ」

「いや、平気なはずはない」

 しかし、レヴィルは真剣な顔で言った。

「そうやって自分を誤魔化すな。そんな目に遭って、平気な女なんているはずないんだ。 自分を騙しちゃだめだ」

 パチ、とまた火が爆ぜた。

「……」

 しばらく、二人は黙っていた。レヴィルはそれ以上なにも言わず、イェータもなにも言わなかった。ひとしきりして、イェータは呟くように言った。

「……あんたみたいな男、初めてだよ」

 それから、レヴィルは気が付いた。

「……待てよ」

 その声に、イェータも顔を上げた。

「十三って言ったな。十三?」

「……」

「それまでなにをしてたんだ。魔導師の修業は、もっと小さいころから始まる。あんた、いくつから修業を始めたんだ?」

「――」

「教えてくれ。いくつだ。いくつから修業を始めたんだ」

「……」

「いくつだ!」

 レヴィルの必死な様子に、イェータが先に折れた。

「……十五」

 レヴィルは驚愕で、しばらく言葉が出なかった。

「十五? 十五だと? 十五で修業を始めて今十八で、もうあんな高位の魔法が使えるっていうのか。そんな! そんなことって」

「あるのさ。時々ね」

 動揺を隠しきれないレヴィルと裏腹に、イェータは到って冷静である。

 彼女は膝を抱えて火を見つめ、どうすればいいかわからなくて立ち上がってうろうろしているレヴィルを放っておいて、ただただじっとしているのみだ。

「そんな……」

「師匠はそれを天才って呼んでた。私はそうは思わない。時々いるんだって。そういう、稀有な才能の持ち主が。私はね、リングヴィ王国の隅っこの、街の掃き溜めみたいなとこに生まれた。父親はよく私を殴って、母親はそんな父親を罵ってた。口の悪いひとでね。 私の口の悪いのは母親似さ」

 ある朝、父親と母親が大喧嘩して、父親が母親を殴り殺した。それで父親が逃げ出して、孤児となったイェータは裏路地で一人で生きた。盗みや物乞いをして食べ、娼館の台所の裏口で残飯をもらって食いつないだ。

 どんなに薄汚れても見た目の美しさは隠しきれず、それは裏路地では呪いとなった。十三で犯され、自分の体が金になるとわかってからは、積極的に体を売って暮らした。十四の終わり、街角に立っていたら歩いていた老人に名前を聞かれた。

 なんだい、そんなおいぼれでも勃つのかい、とからかうと、名前はなんなのかと聞いておる、と強く聞かれた。そこで仕方なく名前を言うと、ついてこいと言われた。金になるかもしれないとついていくと、薄汚い家に連れて行かれ、

「今日から修業じゃ」

 といきなり言われた。それが師との出会いだった。

「じゃあ師匠はあんたの才能を見抜いたっていうのか」

「そういうことになるね」

「すごいひとだったんだな」

「そうだね」

 炎を見つめて尚青いそのおおきな瞳は、今はない昔を見つめているのであろうか。

「そのひとは今はなにして……っと」

 死んだんだったな、俺が殺したようなもんだ、レヴィルはそう思い直して言葉を飲み込んだ。イェータはそれ以上はなにも言わず、レヴィルを罵ったりもせず、膝を抱いたまま、黙って炎を見つめていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る