第一章 7
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今までの道行では自らを旅の娼婦と名乗っていた彼女であったが、
「お針子って書いとけ」
とルウェインに言われて素直にそれに従った。途中、旅の行商に出会い、道を共にした。「針を失くしてしまってねえ、困っているの」
と一行のなかの中年の女に言われ、なにかを思ってヴラリアは、そっと手を差し出した。「? なんだい」
女がその掌を見ると、数本の真新しい針が握られていた。
「おやまあ。どうしたんだいこれ」
「あげるわ」
「いいのかい? いくらだい」
「お金はいらないわ」
「そうはいかないよ。それじゃ物もらいになっちまう。払わせておくれ」
ヴラリアは困って、ルウェインを振り返った。彼はにやにやとして、もらっとけよ、と短く言った。それで、ヴラリアは仕方なしに銅貨三枚を受け取ることにした。
そうして近くの王国に到着すると、まずは住み家を探すことから始めた。宿を適当に決め、そこを拠点に、貸し家を見て回った。ルウェインは傭兵だから、専ら家にいるのはヴラリアということになる。
だから、家を探すのにも彼女の住み心地がいかにいいかを優先して、家探しは進められた。しきりに首を振って遠慮するヴラリアに、ルウェインは言った。
「あんた、家で一日過ごすのにあんたが居心地悪くってどうすんだ。お針子したり、鍼したりするのに適当な大きさがあった方がいいだろ」
そう言われてしまっては、他に言い様がなかった。
街のはずれの石造りの一軒家に、二人は住み始めた。初めの数週間は、平和に過ぎていった。
傭兵の雇い口はまだなく、ルウェインは一日中家の前の小さな庭で上半身裸になって稽古をした。彼の振り回す大きな大きな斧は刃こぼれひとつしていなくて、彼がその手入れにどれだけ心を砕いているかがよくわかった。
「旦那さん、今日も鍛錬かい」
誰かの声に、ルウェインは手を止めて振り返った。
「やあ婆さんか。ヴラリアならなかにいるぜ」
「ご精が出るねえ」
近所に住むこの老婆は、時々やってきてヴラリアに縫い物を頼む。すっかり目が悪くなってしまって、針に糸すら通せず、細かい縫い目も見えないというので、ちょっとしたものから細々とした日常のものまで、ヴラリアはよく頼まれて色々なものを縫った。
老婆はルウェインのことを旦那さんと呼んで憚らず、何度違うと言っても聞かないので、彼の方が先に折れた。
また老婆は腰が悪く、寒くなると節々が痛み、最近では夏でも冷たいものを飲み食いしただけでも節々が痛くなるというので、ヴラリアは鍼で治療してやったこともある。老婆は大喜びしてこの家に通い、近所の人々や友達や親類にどれだけ自分が助かっているかを吹聴して回った。
するとその噂を聞きつけて、誰かがやってきてヴラリアに縫い物や鍼治療を頼んでくるのだ。
季節は九番目の月、青藍の月である。
「あんたの仕事も軌道に乗ってきたな」
食卓で、ルウェインは嬉しそうにそう言った。そんなことを言っても、自分の正体が知られた日にはあの人たちだってどうなることかわかったことじゃない。ヴラリアはまだ固くそう信じているので、それに対して返事はしなかった。
「仕事の口、ありそうなの」
「ああ。近隣で用心棒の依頼があるそうだ。ちょっと行ってくるよ」
二日後ルウェインは朝早くに出かけて言って、二週間帰ってこなかった。ヴラリアはお針子と鍼治療の生活に明け暮れながら、彼の帰りを今か今かと待ちわびていた。危険な目に遭ったりしていないか、誰かの護衛だと言っていたが、それで依頼主を守って怪我したりしていないか、やきもきする毎日が続いた。
その日の夕方、くたびれ果てた顔をしてルウェインが帰ってきたとき、ヴラリアは頼まれた縫い物の仕事を一人黙々とこなしている最中であった。灯かりをいくつもつけて部屋を明るくして、そうして細かい縫い目を見ていくのだ。
「おーい帰ったぜ」
何事もなかったかのように、それでいて帰宅の嬉しさを隠しきれない様子で帰ってきたルウェインの姿を見て、ヴラリアは立ち上がって彼に抱きついた。
「おいおいどうしたんだよ」
二人の身長の差は三十センチ以上もあったから、ルウェインは驚いて自分の胸に抱きついてきたヴラリアを見下ろした。
「……知らせがないから、なにかあったのかと思った」
低く、恥ずかしそうに言うその言葉からは、心配していた様子がはっきりと伺える。ルウェインは面食らって彼女を見ていたが、やがてその頭に手を置くと、
「そりゃ悪かった。忙しくて、そんな暇もなくて」
あんたはどうしてた? 元気だったか? と聞かれて、ヴラリアは顔を上げた。それから二言三言彼の言葉にこたえると、
「……お風呂入ったら」
と呟くように言った。
「あんたは入ったのか」
「あなたが入ったら行くわ」
「一緒に入るか」
「入らないわよ」
ヴラリアは身体を離して恥ずかしそうに言う。ルウェインはにやにやして彼女を覗き込こみ、
「なんだよ今更」
「知らないわ」
ヴラリアは食事の支度をしに台所へ行ってしまった。それを見送って、ルウェインはがはははと笑いながら浴室へ向かう。
食卓で、ルウェインは二週間の仕事の内容を詳しくヴラリアに話して聞かせた。その話の中身に、ヴラリアは知らせがなかったのも当然だと目を見張る。それは、兄弟の血で血を洗う肉を食み骨を絶つ凄絶な争いであった。
「……大変な仕事だったのね」
「まったく金というのは恐ろしいもんだぜ」
「疲れたでしょう」
「まあな」
「今日はゆっくり休んで」
ああ、とこたえる彼の顔をじっくりとよくよく見れば、目の下には隈が浮かんでいる。 よほどこの依頼が堪えたと見える。皿を片づけながら、ヴラリアはあとで鍼でも打ってやるか、と考え、そうして風呂に入って行った。
その夜久しぶりに共にベッドに入ると、疲れているはずなのにルウェインはヴラリアに手を伸ばしてきた。
「だめよ」
「いいじゃねえか」
「だって」
「だって、なんだ」
「だって……」
「嫌なのか」
「いやじゃないけど」
「じゃいいだろ」
「でも」
「でも、なんだ」
「……疲れてるでしょ」
「疲れてる」
「じゃあ」
「疲れてるけど、いいんだ」
「なによそれ」
「いいんだよ」
「あっ……」
強引に唇を奪われて、ヴラリアはされるがままになった。時に命を張って現場で最前線で戦う、その緊張感はヴラリアには決してわからない。貪るように、まるで探し物を求めるようにヴラリアを抱くその激しさは、応じる彼女からすればめまいがするほどであった。 息をもつかせぬ営みが終わり、ヴラリアが細い身体をルウェインの厚い胸に預けていると、彼はその分厚い手で銀の髪を丁寧に撫で始めた。疲れているはずなのに、激しい動きの後でその動きは少しも疲労を感じさせなかった。
「こういうの久しぶりだな」
彼はぽつりと言った。
ヴラリアはこたえない。
「俺は母親の顔を知らねえ。娼館の生まれだからな。どれが母親かわかんなかった」
「……だれが母親か聞かなかったの」
「みんながみんな母ちゃんだったのさ」
ふふ、ヴラリアが笑う。
「いいわねそういうの」
「そうか?」
「そうよ。お母さんがたくさんいるなんて、いいじゃない。一人いなくなったって、また一人いるんだもの。いいじゃないそういうの」
「そうか」
「そうよ。私はいなくなっちゃったから」
「そうか。そうだな」
「うん」
ルウェインはそう言って、また髪を梳く。
時間だけがゆっくりと流れていく。
ある日ルウェインが戦に出て行ってしばらくいない日、またあの老婆がやってきて、
「ヴラちゃん、気を付けた方がいいよ。最近狼の群れが出るんだってさ。旦那さんが留守なんだろ。戸締りしっかりね。夜は出歩いちゃだめだよ」
「狼……ですか」
「そうだよ。たちの悪いのがいてさ、家畜が襲われて、人間の女まで襲うんだってさ。気を付けてね」
ヴラリアの出したはちみつ茶を飲みながら鍼を打ってもらい、ついでに縫い物の仕事まで彼女に頼んで、老婆は帰って行った。
狼か。自分のいた村にも狼は出たことはあったが、その時は事なきを得ていた。当時は針師とはばれていなかったから、そのことすらもやり過ごしていた。いつもびくびくと生活していて、気が休まることなどなかった。
それが、今はどうだろう。
心配なのはルウェインが怪我をするか彼の命の心配をするかのどちらかで、今のところそのどちらも大丈夫だ。身体が二メートル近くある彼のことだし、戦士としての腕も確かだ。
だから、今のところ彼の身を案じるほどのことはない。怪我だけが不安の材料だが、かすり傷など鍛錬をしていればしょっちゅうのことだし、ヴラリアは女で、血は見慣れている。だから、ルウェインの心配はしていない。
問題は、自分のことだ。
針師だと、いつばれるか。
そのことだけが恐ろしい。
この平穏な生活に、いつ終止符が打たれるか。それだけが不安だ。それは、ルウェインとの生活との別れでもある。
ヴラリアは嘘寒くなって、我が身をそっと抱いた。初めての、幸せな生活。温かい食卓、笑いのある家。それがなくなる。
ため息が出る。
自分は針師だ。呪われた存在。所詮、そういう運命なのだ。それがふさわしいのだ。
十番目の月、深月縹になった。
その夜は満月で、風が強く、雲が早く流れる不吉な天気だった。どこかで獣がしきりに鳴く声がして、ヴラリアは嫌な予感がして灯かりをもっと灯そうと暖炉から火を持ってきた。ふと顔を上げると、窓の外に不穏な影を見た。
「――」
誰かいる。
そっと伺うと、見知った人影だった。扉を開けると、それは近在の住人だった。
「どうしたの」
「助けて……狼が。追われて」
「入って」
どこかで、また獣が鳴く声がした。
ヴラリアは倒れた女を慌てて助け起こし、辺りを見回して急いで家のなかに入った。
女は、腕を噛まれていた。足も折れている。ヴラリアは酒を出してきて、女の腕にかけた。そして包帯を巻くと、
「添え木をするわ」
と足にも包帯を巻いた。窓の外を見ると、狼の群れはもう家を取り巻いていた。
「囲まれているわ」
「どうしよう。追ってきたんだわ」
「……」
ルウェインは今夜帰ると言っていた。いつ帰るのかまでは、わからない。ヴラリアは短い間で考えた。
助けはない。やったら、今の生活がなくなる。しかし、しなければ死ぬだろう。ならば自分がやるしかないのだ。ヴラリアは決断した。
顔を上げ、奥歯を噛みしめた。
「ここにいて。絶対に動いちゃだめよ」
「えっ……」
そしてショールを羽織り、長い袖の裾をひらめかせてそっと出て行った。
狼たちは、群れで家を取り囲んで住人をどう襲ってやろうかと画策している真っ最中であった。彼らはなかにいる人間たちが諦めて出てくるのを今か今かと待ち構えていた。
そこへ、見るも美しい女がひとりいかにも旨そうな身体を携えて出てきたのだからたまらないといった具合だろう。狼たちは舌なめずりして襲い掛かろうと戦闘態勢に入った。
その時である。
突然、するどい針が一匹の狼の首に突き刺さった。
キャン、という哀れな鳴き声を上げて一頭が倒れると、仲間意識の強い獣は警戒してじりじりと後退した。シャッ、という音がして、もう一頭がそれと同時に倒れると、また鋭い音がしてまた一頭が倒れた。
もう一頭、そしてまた一頭。一頭、もう一頭と倒れていくうちに狼たちは怯え、そして逃げ惑い、そうして群れはいなくなっていった。ようやく松明を持った男たちがやってきて、おーいおーいという声と共にルウェインが先頭に立ってやってきた。
「ヴラリア!」
彼女はその声にほっとして、駆け寄ってきた巨体に抱きついてその胸に顔を埋めた。ルウェインは松明に薄明りに照らされた狼たちの数体の死体を見ると、
「お前……これ……」
「……ごめんなさい」
ルウェインはすべてを察して、
「なんで謝るんだよ」
とその肩に手を置いた。
「お、おい」
「なんだこれ?」
街の人間も、異変に気が付いた。ヴラリアはびくりとして、顔を上げる。
「誰がやったんだ?」
「まあまあ、みんな。今日のところはこれで引き上げてくれ。明日事情を説明するから」
ルウェインが両手を上げて街人と怪我人を帰してしまうと、家にはヴラリアとルウェインだけになった。ヴラリアはじっとうつむいて、涙をこらえている。
「……」
ぽたり、と床に涙が落ちた。
「泣くなよ」
ルウェインが言うのと同時に、ヴラリアは両手で顔を覆った。
「ここから出ていかなくちゃならないわ」
「そんなことないって」
「そんなことあるわ。みんな石を投げて、出ていけって言うに決まってる。針師は嫌われ者。針師は不幸の呼び手。針師はどこに行ってもそこに住めない。一緒にいるあなたも、そこにはいられなくなる」
「ヴラリア」
ルウェインは側に歩み寄って、震える肩を抱き締めた。
「泣くなって。お前が泣くと、俺ぁどうすりゃいいのかわからなくなる」
声なく小刻みに震えるその身体は、黙ってルウェインに抱かれている。
あなただって、今は優しいけれどその内逃げ回る生活に嫌気が差してどこかにいなくなっちゃうのよ。そうしてまた一人になる。一人になっちゃうのよ。
我慢ができなくなって、声が漏れた。たまらなくなってきて、嗚咽が聞こえてきた。
「ヴラリア」
ルウェインは困り果てて、その肩を抱くしかない。そしてよいしょと声を出してその身体を抱き上げると、黙って二階に連れて行った。そして泣き続けるヴラリアをベッドに横たえると、自分も隣に横たわって静かに眠り始めた。この街にいる最後の夜かもしれないと思いながら、彼は今後どうするかを考えていた。
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