第一章 6

 事が終わっても、ヴラリアは変わらず無表情だった。ルウェインと寝たことなど、なんとも思っていないようだった。

「怒ってねえのか」

「……別に」

 ルウェインはどんな女でも簡単に抱く男ではない。戦に出れば娼婦の需要はいくらでもあったが、よほど我慢がきかない限りは女たちを寄せつけようともしなかったし、たまに抱く女は見知った、互いの素性を知っている馴染みの素人であることが多かった。甲板でヴラリアを見た時からその容姿に惹かれ、言葉を交わして人柄を知ってからこの女のことをもっと知りたいと思った。だから、気まぐれで抱いたわけではなかった。

 自分のことを知ってもらおうと思っておのれのことを話して聞かせ、彼女の心がほぐれるのを待った。触れた時、彼女は嫌がる素振りも見せなかったし、抱かれている間ヴラリアは無表情ななかにも時折感応の顔をのぞかせた。

 それなのに、彼女のこの反応はどうだ。まるで手を差し出されたから握手をしましたとでも言いたげな素っ気なさには、少なからず傷つく。俺は違うけど、もしかして誰とでも寝るのかな。十八にしては手慣れた感じだったし、遊ぶつもりだったんだろうか。ルウェインはそんなことを思った。

 黙って服を着るヴラリアの背中に、そっと話しかけた。

「明日もここに来るか」

「そうね」

「また来てもいいか」

「いいわ」

 もし嫌なら、断っているはずだ――知り合ってから短い間ではあったけれど、ヴラリアは嫌なものは嫌という女であるということくらいはわかっている。ルウェインは彼女の返答に心なしかほっとして、自分も服を着た。

 逢瀬は、専ら小部屋で行われた。

 ヴラリアはなぜか自分の客室にルウェインを呼ぼうとはしなかったし、ルウェインもまたそれを特別不思議に思ったりせず、一日の日課である鍛錬が終わって汗を流した後には必ず小部屋にやってきてヴラリアと寝る、という生活をしていた。小部屋に鍵はかからなかったが、どのみちあまり知られていない場所であるし、誰かが来るのではという危惧は抱くだけ馬鹿馬鹿しいというものだった。

 そうしてひと月が経とうとしていた。

 その日も本を読み、昼寝して起きる頃ルウェインはやってきて、水浴びしたさっぱりした顔でヴラリアと語り合い、しばらくして彼女を抱いた。どんなに肌を重ねても、ヴラリアはある一定の場所からルウェインの方へ心を許そうとはしなかった。それに寂しさを感じながら、ルウェインは服を着る彼女に言った。

「なあ、なんで娼婦なんかになるんだ」

「……」

 背を向けているヴラリアは、こたえない。

「いいもんじゃないぜ。忙しいと一日に何度も客と寝なくちゃいけないし、嫌な奴だってごまんといる。髪の毛掴む輩だって、酒瓶で殴ってくる男だっている。若いから最初はいいだろうけど、年を取っていくと身体はきついし、客も近寄らなくなる」

「……」

「俺は小さい頃から娼婦ってものを見てるから、彼女たちがどんな生活をしてるか知ってる。悪いことは言わない。やめとけ」

「他に取り柄がないのよ」

「じゃあ俺と来いよ」

 ヴラリアの手が、はたと止まった。

「あんた一人くらい、養える程度には俺は腕はある。娼婦なんてやめちまえよ」

 ヴラリアは振り向かない。なにか考えているな、と思ったのも束の間、彼女が深々とため息をつくのがわかった。

「やめといた方がいいわ」

 なんでだ。

 そう聞きそうになった。しかしヴラリアの、えもいわれぬ迫力を持った背中、なにか名状しがたい悲しみのようなものを放つその背中を見ていると、なぜかと聞くのもなんだか憚れる気がして、ルウェインは開きかけた口を閉じた。

 その時である。

 いきなり、船ががたんと大きく揺れた。ヴラリアとルウェインはソファから転げ落ち、床に身体を叩きつけられた。

「なんだ!?」

 ごおおお、と恐ろしいほどの大きな音が表から聞こえてきた。そして、獣のような雄叫びもそれに続いた。

「なにか来たな……あんたはここにいろ。出てきちゃならねえ」

 ルウェインはそう言うと、ヴラリアの返事も聞かずに甲板に出た。

 甲板は、水浸しになっていた。船は右に左に大きく傾げて揺れ、その度に海水がまるで生き物のように流れ込んできた。

「なんだ! なにがあった」

 ルウェインは舳先で額に手をやって彼方を見つめている男を見つけ、走り寄った。

「何事だ」

「大鯨か、クラーケンの類だろう」

 その顔に傷のある男とは、鍛錬所でよく手合わせをした。一等客室の乗客である。

「襲ってくるぞ」

 越えてきた修羅場の数が多いのだろう、男は少しも動揺を見せず、しきりに大海原に目をやっている。

「見えたぞ」

 そのするどい目がなにかを捉え、それと同時に大きな背びれが海面を打つようにうねった。

「鯨だ。大きいぞ」

「誰か! 銛を持ってこい」

 ルウェインが後ろに向かって叫ぶと、それを聞き取って船員たちが倉から大銛を次々と運んできた。一等客室の男とルウェインはそれを受け取ると、目を細めて大鯨が海面から姿を現わすのを待った。

 ザン!

 水しぶきが柱のように立ち、おおきなおおきな黒い姿が波間から顔を出した。ルウェインは片目を閉じて目標を定め、後ろ手に引いた腕を大きく振りかぶって銛を投げつけた。

 一等客室の男は、それより数秒遅れて銛を放った。しかし、どちらも手応えはなかった。 客室から腕に覚えのある男たちが次々と出て来て、船員から銛を受け取っている。ルウェインが叫ぶと、二本目の銛が彼に渡された。

 気合いの叫び声と共に、大銛は弓から放たれた矢のように宙を舞った。いくつかが大鯨に突き刺さったが、その巨体はそんなことなど気にもかけないように船尾を叩いた。

「だめだ……敵がでかすぎる」

「このままじゃ沈められちまうぞ」

 一等客室の男とルウェインが縁の陰に屈んでそんなことを囁き合い、ざぶんざぶんと流れ来る海水に揺られてどうしようかと考えているときに、それは起こった。

 シュッ

 ――ザン!

 なにか、空気を切るような鋭い音がしたな、と思ったら、大鯨の背びれが大きくうねり、続いてその巨大な尾が甲板を叩いた。その尾ひれには、長い長いなにかが突き刺さっていた。

「なんだあれは……」

「銛か?」

 シュッ

 ざざっ

 大鯨の巨体が、また大きく揺れた。

 苦痛だ。

 ルウェインの鍛えられた勘が、それを告げた。あの鯨、痛がってやがる。なにが起きてるんだ。

「見ろ」

 一等客室の男が、鋭い光を目に宿して海面を指差した。

「針だ」

「――」

 ルウェインは目を細めてそれを見た。

 大鯨の巨大な背に、長い長い、柱のように太い針が刺さっていた。

「針……? なんだってそんなものが」

 シュッ

 また空気を切るような音がして、それが後ろから聞こえてきたとわかった一等客室の男が後ろを振り向き、そして驚きで目を見開いた。

「――あれだ」

 ルウェインもそれを見た。

 三本マストの見張り台、はるか頭上のその台の上に、ヴラリアが立っていた。

 裾の長い袖をひらめかせ、後ろに引いていた腕を彼女が伸ばした途端、

 シュッ

 とまた鋭い音がして、次の瞬間一層大きく大鯨が暴れた。

「あの女だ……!」

 一等客室の男が叫んだ。

「あの女が針を出してるんだ」

「あいつ……」

 ルウェインは顔に水しぶきを嫌というほど浴びながら、茫然としてマストの上方を見上げていた。ヴラリアがサッ! と袖を振った。と思った瞬間、また鋭い音が響いて、大鯨の腹に長い大きな針が突き刺さった。

「あの女……どうやって」

「あの女がやっているのか」

 他の男たちも次々とそれに気づいて、上を見上げては唖然として呟きを漏らしている。

 バシャン、と水面を叩きつける音が鼓膜に響いて、ルウェインがハッとしてそちらを見ると、大きな大きな顔を出して大鯨が船を飲み込もうとしているところであった。

「――」

 シュッ、また鋭い音がしたと思ったら、一層大きな針が大鯨の片目を貫いた。

 鯨が苦痛で尾びれをばたんばたんと船尾に叩きつけ、船が左右に大きく傾いだ。揺れは収まらず、その黒い大きな腹が甲板からも見えた。

 どれくらいの間そうしていたのか、気がついたら大鯨は姿を消し、波は静まり、水浸しの甲板には、同じくらい水に濡れた屈強の男たちが茫然と立ち尽くしているのみであった。 ルウェインは呆気に取られてマストのてっぺんを見つめている。

 ヴラリアは波が静かになったのを見ると、スッとマストから滑り落ちるように降りて行った。そして唖然としている船員たちの間を縫うようにして歩いて行くと、自分の客室へ帰って行った。

「針師……」

「ありゃあ針師だ」

 しばらくして、静まり返った甲板のどこかからそんな囁きが漏れ聞こえてきた。

「針師だと?」

 ルウェインの側にいた一等客室の男も、その囁きを聞き取った。

「まさか。そんなはずは」

「あんた知ってるのか」

 男たちの驚愕の呟きの正体の知れなさに置いて行かれたルウェインは、彼にそれを尋ねた。

「なんでい針師ってのは」

「生まれつき針という針に好かれるという特異体質の持ち主の総称だ」

「……なんだって?」

「好かれるんだよ。針に」

「おかしな話じゃねえか。だって針ってのは、無生物だろう。そんなものに好きだのなんだのって感情があるもんかよ」

「好かれているとしか思えないほど、針を集めてしまうのだそうだ。意図しなくても自在に針を操れるため、危険視する人間も多くいたという」

「よくわかんねえな」

「百年に一度、現れればいいとされている希少な存在だ。しかしその特異体質を嫌う人間が多数いたため、忌避されていつしか忘れられる存在となった。私も話にしか聞いたことがない」

「……あの女、その針師だってのか」

「針師と共にいると、とにかく災厄が多いそうだ。それはそうだろう。意図しなくても針がやってくる人間の側なんかにいたら、どんな目に遭うかわかったもんじゃない。針師の男と寝ると男の一物の先に針が潜んで女体を貫くというし、針師の女と寝るとその秘所に入っている針がやはり男の一物を刺すというので針師は嫌われているんだ」

「……」

「あの女、針師なんだな。恐ろしいものに出遭ったものだが、命を助けられたのも事実だ。 今度食堂で会ったら一杯奢りたいところだよ」

 まだヴラリアが消えていった場所を茫然と見つめているルウェインを置いて、一等客室の男はずぶ濡れになってしまったなと呟きながら自分の客室に帰って行った。

 秘所に針だと?

 一等客室の男の言葉が、頭から離れない。そんなことはなかった。あの時だってあの時だって、針なんて出てこなかったぞ。一体どういうこった。

 次の日、ルウェインは鍛錬もそこそこに、あの小部屋へ行った。しかし、ヴラリアはいなかった。仕方ないので船室を訪ねようと思ったが、二等客室だとわかっているくらいでどの部屋かまではわからない。

 あんなに一緒にいたのに、あの小部屋に行けば会えると思っていたからどの部屋にいるのか聞かなかった。それを今更ながらに後悔して、仕方なしに船長に会いに行った。

「いやあ、あのお客様には驚きました。我々の命の恩人ですから、ぜひ一席設けたいと思ってご招待しているのですが、頑なに断っておしまいになるのです。しかも、食堂には行きたくないと言って、お部屋に閉じこもっているので仕方なしにお食事を運ばせているのですよ」

「……」

「お知り合いでしたらぜひ、出て来てお礼なりとさせて頂きたいとお伝え下さいますか」「あ、ああ」

 背中を押されて、戸惑いつつも仕方なしに、ルウェインはヴラリアの客室を教えられてそこへ向かった。そっと扉をノックしても、いらえはない。名を呼び、もう一度ノックした。

「俺だ。ルウェインだ」

 しつこくノックすると、微かに気配がした。どうやら、こちらの声は聞こえているようである。

「開けてくれ。話がしたい」

 ノックをやめて、拳で扉を叩いた。

「開けてくれねえなら、叩き壊すぞ」

 ドンドンドン、と扉を揺らすと、またなかで気配がした。

「開けろってば」

 扉を叩いていると、たまりかねたようにそれが開いた。

「静かにして。ほんとに壊れたらどうするのよ」

「やっと出て来たな」

 なかからヴラリアが出て来て、ルウェインはほっとして拳を下げた。

「入って」

「おう」

 ヴラリアは辺りを気にするように目を配っていたが、ルウェインが部屋に入るとすぐに扉を閉め、カチリと鍵をかけた。

「随分警戒してるんだな。俺達の恩人だってのに」

「恩人?」

 ヴラリアは振り返って、ベッドの隅に腰かけたルウェインを見た。

「ああ。みんな言ってるぜ。あんたは命の恩人だ。英雄だって言ってる奴もいるぜ」

「そんなもの」

 ヴラリアが吐き捨てるように言ったので、ルウェインは驚いて眉を上げた。知り合ってひと月と少ししか経っていないが、ヴラリアはこのような口の利き方をする女ではない。「私は英雄なんかじゃない。恩人でもないわ」

「まあそう言うなよ」

 ヴラリアはなぜか、ルウェインの近くには寄ろうともせず、そう広くはない船室の隅にいたが、彼にこう言われて窓辺に歩み寄った。

「あんた、針師なんだってな」

「……」

 ヴラリアはこたえない。その背中が、返事をすることを拒んでいる。

「すげえな。ずっと見てたけど、あんなにでっかい針を自由自在に操ってよ。一等客室の傭兵、何度か手合わせしたことあるけど、あの男が褒めてたんだから、あんたすげえよ」「そんなことない」

 切りつけるような言い方だった。なにもかもをも否定するようなその口調に、ルウェインは訝しく思った。ヴラリアは海から目を離し、彼を振り返った。

「針師はなんて言われてるか、知ってる?」

 その、切れ長の瞳が爛々と光っている。異常なまでのその輝きに、ルウェインはこたえることを忘れてヴラリアをぽかんと見つめ返した。

「災厄の担い手。死の使い。近くに寄るだけで命を落とす、危険な存在」

「おいおい」

 ルウェインは立ち上がってヴラリアに近寄ろうとした。しかし、それから逃げるようにヴラリアはベッドの側へと歩み寄った。

「近くに来ないで」

「なんだよ。なんでだよ今更」

「近くに来たら、針に刺される」

「んなわけあるかよ」

 ルウェインは声を荒げた。ヴラリアはびくりとなった。

「このひと月、あんたと毎日一緒にいたけどそんなこと一度でもあったか? ないだろ。 針師の噂なら俺も聞いた。どれもこれも、嘘ばっかじゃねえか。あんたと何度も寝たけど、俺が一度でも刺されたことがあったか? ないだろうが」

 ルウェインはつかつかと彼女に近づいた。ヴラリアが慄いた表情になり、素早く左右を見て逃げ場所を探す前に、ルウェインは彼女の近くまで来ていた。

「来ないで」

「だめだ」

 ヴラリアが逃げようとしたその腕を掴んで、ルウェインは低く言った。

「ほら、あんたに触れてる。俺が今、刺されてるように見えるか? そんなことないだろ。 あんたがそれを一番よく知ってる。なのに、なんでそんなこと怖がってるんだ」

「……時と場所を選べないのよ」

 両手首を掴まれ、逃げ場所を失って、ヴラリアはそれでも逃げようともがいている。自分を覗き込む男から必死に目をそらし、この期に及んで彼女は身を離そうとしていた。

「なんだと?」

「刺されない時もあるわ。でも、刺される時もあるの。私が選んでやってるわけじゃない。 針が出てきて、側にいる人間を刺しちゃうのよ」

 だから側に寄らないってか。ルウェインはやっと納得がいって、掴んでいた手の力を緩めた。それを待っていたかのように、ヴラリアは脱兎のごとくそこから逃げ出した。

「でも俺はひと月平気だったぜ」

「刺さないように細心の注意を払っていたからよ。命じれば、すぐにでも刺せる」

「ぞっとしねえ話だな」

 ルウェインは首を巡らせてヴラリアの方を見て、それからまたベッドに腰かけた。

「だから素性を話さなかったんだな。いいからこっち来い」

 手招きすると、ヴラリアは空間に貼りついたように硬直した。

「平気だから」

 含んで言い聞かせるように言うと、彼女はおずおずとやって来た。ベッドを叩いてそこに座らせ、ルウェインは尋ねた。

「針師のあんたが、なんだってヤリス大陸なんかまで行って娼婦になろうとしたんだ」

「……地元じゃ素性を知られてるから、同じ大陸でいたらその内いつか身元がばれるわ。 そうしたらひどい目に遭わされるから、そうなる前に誰も知らない場所に行ってやり直そうとしたのよ」

「娼婦にならんでもいいだろう」

「だめなのよ。なにをしていても、油断すると針が現れる。ちょっとでも気を緩めると針は出て来て、そうやって周りの人間を驚かせるの。それで針師だってことがばれて、石を投げられたり村八分にされるのよ」

「んじゃ俺と寝てる時も気を張ってたってことか」

「……それはないけど……」

「じゃ気のせいじゃねえか。たまたまだよ。たまたま針が出て来た時に周りの奴らに見られて、それが噂通りの針師だってんで勘違いされて仲間外れか。可哀想だが、俺はそいつらとは違うぜ」

「そんなこと言ってられるのも最初の内だけよ。一緒にいればいるほど私の正体がわかってきて、その内怖くなって逃げ出すのがおちよ」

「違うったら」

 ルウェインは根気よく言った。

「あのな。好きになった女が怖い存在でした、恐ろしいからはい逃げますって訳にはいかねえんだよ。その辺の男ならそうかもしれねえ。だけど俺は違う」

「……」

「あんたがそう考えるようになったのにはそれなりの事情があるんだろ。聞いてやるから、話せよ」

「……」

 ヴラリアはうつむいて、黙っている。ルウェインは急かすことなく、彼女が話す気になるのをじっと待った。彼はヴラリアから目を離し、窓の外に目をやった。青い海原が一面に広がっていて、目に沁みるようだった。

 海から目を離さずに、ルウェインは静かに言った。

「自分が針を呼ぶ体質だってわかったのは、いくつの時だ」

「……四つの時よ」

 ぼそり、ヴラリアが観念したように呟いた。

「早いな」

「みんなそんなもんなのよ。あちこちの本を読んで調べたけど、針師って呼ばれる人間の特異体質の理由はわかってないの。ただ、小さい頃から気がつくと掌のなかに針があって、自分で針が欲しい、って念じるといつの間にか針が握られているのは共通しているの」

 ぽつりぽつりと、言葉を選ぶようにゆっくりと、ヴラリアは話し始めた。

「小さい時から、気がついたら針で遊んでた。針で地面を削ってお絵かきして、針で藁を縫ってお人形にしてたわ」

「それが四つの時か」

 ヴラリアは首を振った。

「それは周りに知られた歳。私を突き飛ばした男の子に仕返ししようとして、針があったら、針さえあればって強く思った途端に手のなかに針があって、それでその子を刺して。 それが大人にばれて」

「親はどうしたい」

「針師の親だって知られて、村八分にされて、村にいられなくなってあちこちを彷徨ったわ。でもどこにいても針は気がつくと私の側にあって、そうすると素性が知られてそこに居られなくなるの。母さんはそれに疲れてある日いなくなってた」

「親父はどうしたんだ」

「早い内から女とどこかに消えてたわ」

 そうか、ルウェインは深々とため息をついた。

「それで一人で生きてきたのかい」

「遊牧民に針を売ったり、お針子したりして日銭を稼いだわ。鍼灸もやった」

「なんだ、取り柄ならあるじゃねえか」

「でもそうやって街に馴染んだと思った矢先に正体がばれて、忌まわしい噂が一人歩きして、そこに居られなくなるのよ」

 うつむいたままのその顔から、ぽたりと滴が落ちた。

「針師だってばれて、本当に秘所に針を仕込んでるのか調べてみようって言われて、犯されて」

「いくつの時だ」

「十三よ」

「まだ子供じゃねえか。ひでえことしやがる」

「それから、山に逃げて死のうとしてたら、猟師のおじいちゃんに拾われて、そこで一緒に暮らしたの。おじいちゃんは私が針師だってわかっても、顔色も変えないで側にいてくれたわ。それどころか、私が縫い物をしたら助かるよって言ってくれて、鍼で身体を治したらすごいもんだって褒めてくれた」

「そのじいさんはどうしたんだ」

「ある日ベッドのなかで冷たくなってて、それきりよ」

「そうか……」

 ルウェインはため息まじりで呟いた。起こることはすべて、ヴラリアのせいではないのに、彼女のせいだと人々は責め、追いやった。彼女が船の上でどうしていつも一人でいるのか、大鯨の事件の後誰とも会おうともしないのはなぜなのか、それが少しだけわかった気がして、ルウェインの胸が痛んだ。

「針は、呼ばなければ来ないってことがわかってからは、人里に出て暮らすようになった。 でもだめなの」

 ヴラリアが両手で顔を覆った。

「ここなら平気、ここなら静かに暮らせる、そう思った途端に針は現れて、それでみんな怖がってどこかに行っちゃうの。そうやって居られなくなるのよ」

 ヴラリアがしくしくと泣き出したので、ルウェインはそこに居づらくなった。こほん、と咳払いをし、その細い肩に手を回そうとして少し考えてやめ、ぽんぽんと代わりに肩を叩いた。

「まあ、その、泣くな」

 しかし、ヴラリアはそれが聞こえないかのように泣いている。堰を切ったように涙が溢れてきて、彼女は自分でもどうすればそれが止まるのかわからない。

「泣くなってば」

 たまりかねたかのように、ヴラリアはルウェインに身体を寄せた。そして彼の厚い胸板に顔を埋めると、声を殺して泣いた。ルウェインはそれをどうすればいいのかわからなくて、肩を抱くか、いやそれはしない方がいいか、と散々迷って、結局そっとその肩に手を置いた。

「……やっぱりあんた、俺と来いよ」

 その肩の震えが、ぴたりと止まった。

「俺は針なんか怖くねえぜ。それであんたはお針子でも鍼灸でも、好きなことしたらいい。 俺は俺で外で戦って帰ってくる。あんたはそれを待つ。それでいいじゃねえか」

 止まっていた嗚咽が、また続いた。

 ルウェインは困ったようにそれを見ながら、静かにその肩を抱いていた。



 船の上では、誰もヴラリアを問題視しなかった。どころか、彼女を命の恩人と祀り上げ、英雄と讃える者すらいた。あの大鯨、こんなにも大きい『緑の鯨』号すらも飲みこもうとしたあの巨大な鯨を、屈強の男たちですら追い払えなかったのに、彼女はそれを一人で成し遂げてしまったのだ。

 ヴラリアがルウェインに促されておずおずと食堂に行くと、誰もが彼女の手を握りたがり、賞賛の声を浴びせ、礼の言葉を述べた。船長はその言葉通り、船長室にヴラリアとルウェインを招いて、共に食事をした。ヴラリアは終始うつむいて黙っていたが、船長はそんなことは気にもせずに自分の船乗りになってからの話を面白おかしく聞かせてくれた。 船長室を辞して、ルウェインはヴラリアを彼女の船室まで送っていった。彼の部屋はそこから少し歩いたところにあった。

「ちゃんと鍵かけろよ。どんな奴があんたのこと狙ってるかわかんないからな」

「うん」

「窓も閉めろよ。夏でも風邪ひくからな」

「うん」

 ヴラリアの言葉は短い。じゃあな、と言ってそこから歩き出そうとしたルウェインを、ヴラリアは顔を上げて見つめた。

「……なんで」

「ん?」

「なんでこんなによくしてくれるの」

 いきなりな質問に、ルウェインはぐっと詰まった。そしてヴラリアの方は見ようともせずに、困ったように明後日の方向を見ると、剃り上げた頭に手を置いた。

「なんで……ってそりゃあ、その」

「あなたにはなんの得もないじゃない」

「損とか得とかじゃねえ。好きな女が困るのを見たい男なんざいねえってこった」

 じゃあな、と照れるのを隠すように、ルウェインはヴラリアの返事を待たずに行ってしまった。ヴラリアはその背中を茫然と見つめ、そしてしばらくして船室に入って行った。 言われた通りに扉に鍵をかけるのも、忘れなかった。

 あの大鯨に襲われた一件から数日して、ヴラリアはまたあの小部屋に来るようになった。 船の上の人々は、食堂での彼女の立ち居振る舞いと、ルウェインのさりげないあいつは一人が好きなんですよという言葉を真に受けて、彼女の領域に侵入してこようとはしなかった。

 その日、久しぶりに小部屋に入ったヴラリアは、室内に人影があるのを見とめ、ちょっと驚いて立ち止まった。

「よう」

 ルウェインだった。ソファのいつもの場所に座り、片手を上げて彼女に挨拶すると、なにかを持っているのか手元に目を落とした。ヴラリアは近くまで歩み寄り、

「……なにしてるの」

「読書さ。あんたが来ないから暇でしょうがなくて、図書室から借りてきた。今読んでるのはグリンダの伝記ものだ」

「それなら読んだわ」

「そうか。おっと、話の筋を言うなよ。今いいとこなんだ」

 ヴラリアは本に再び目を落としたルウェインを横目に見ながらソファの端に座った。そして夢中で読書するルウェインの横顔をじっと見ていたが、やがて自分も持ってきた本を開いてそれを読み始めた。

 疲れると昼寝した。彼女がうつらうつらするとルウェインはそっと立ち上がって棚から掛け物を出し、彼女にかけてやってまた自分は本を読むに留まった。ヴラリアの目が覚めると、彼はいつもそこにいた。

 その日も目が覚めるとルウェインは変わらずいつもの場所にいて、自分も読書に疲れたのか酒を持ち込んで一杯やっているところであった。

「よう、起きたか」

「……」

 十三で無体な男たちに犯されてからむこう、ヴラリアは男という生き物にいつもひどい目に遭わされてきた。異性で彼女に危害を加えなかったのは、山で出会った年老いた猟師だけだった。男たちは自分を見ると犯そうとするか、石を投げようとするかのどちらかで、どちらにしてもヴラリアにとっては災難だった。

 だから、ルウェインのような若い男が、どうして針師の自分にここまでしてくれるのか理解できなかった。

「飲むか? なかなかいけるぜ」

 ヴラリアは起き上がって、隣で杯を傾けるルウェインに静かに言い放った。

「抱かないの?」

 ぶっ、と酒を吹き出して、ルウェインが言葉に詰まった。

「抱かないの? なんで?」

「なんでってそりゃ……」

 ルウェインは自分で吐き出した酒にまみれた顔を手で拭きながら、なんと言い繕っていいのかを考えている。

「もう寝た女なら簡単でしょ。なんで抱かないの」

「それは……」

 酒をしまって、ルウェインは杯の縁を見ながら言った。

「あんたが、なんかそうしてほしくないみたいだったからだよ。嫌がる女は抱かない主義なんだ」

「嫌がってなんかいない」

「でも俺がなんにも知らないであんたを抱いた時と今とは違うって思ってんだろ。言わなくても顔に出てるよ」

「……」

「無理強いはしないのが俺流さ」

 理解できなかった。男に騙され、利用され、そうして生きてきたヴラリアにとって、ルウェインの言葉は未知のそれと同意義であった。

「好きなのに抱かないの」

「好きだから抱かないのさ」

 よくわからなかった。ヴラリアは伏せてあった読みかけの本を拾い上げて、その緑色の革の装丁を見つめた。どんな本を読んでも、ルウェインのような男はいなかった。いるのは現実に彼女にひどいことを言い、またひどいことをする男ばかりだった。

「あんたがその気になるまで待つよ」

 それより、とルウェインは顔を上げた。

「あと二週間もすればヤリスに到着だ。あんたはどうすんだ」

「……」

 そうだった。この船旅は永遠のものではなかった。

「体、売りに行くのか」

 その声は、諦めを孕んでいた。ヴラリアを案じ、気にかけ、また好いていると言って憚らないこの男の声が、行くなと言っているように聞こえた。

「……取り柄がないから」

「お針子できるじゃねえか。鍼灸の腕だってある」

「針師だってばれたら殺されるか、またひどい目に遭うのがおちよ」

「俺がそんなことはさせねえ。それに、ヤリス大陸は色んな人間がごたまぜになってる場所だ。針師だってわかったって、あんたが遭ってきたひどい目にまた遭うとは限らねえ」

「そんなのわからない。あなただって、何十人て人間が松明持って石投げながら叫んで自分を殺そうとしたら逃げ出したくなるに決まってる」

「俺は傭兵だ。人の生き死にを見てきてる。そんなものは怖くねえ」

「そんなのその時にならないとわからないわ」

「あんたは俺が守る」

「――」

 強い言葉に、ヴラリアは胸を衝かれた。

「だから、娼婦なんかになるな。それは最後の手段だ。今はその時じゃねえ。あんたには、俺がいる」

「……」

「約束する。もうひどい目にも遭わせないし怖い思いもさせねえ。あんたが行くところに俺はついて行って、俺があんたを守る」

 動揺のあまり、ヴラリアは彼から目を反らした。こんな言葉を言われるのは、初めてだった。立ち上がって逃げるように窓辺に立ち、大海原に目をやった。

 青い青い海を見ていると、憂い事など嘘のように消えてしまいそうだった。

「俺と来いよ」

 強い、しかし優しい声。鼓膜を震わせる、その響き。ヴラリアはそっと目を閉じた。  彼女は長いこと黙っていた。そよ、と風が吹いて、カーテンがその銀の髪に降りた。

 それを感じながら、ヴラリアは目を開けて言った。

「……一緒に行く」

 ルウェインの安堵のため息が聞こえた。


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