第一章 5

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 目にも鮮やかな緑を映じ、また五番目の月、翠縹の月がやってきた。その月の終わり、港町アィウィに到着したその客船は、殊の外大きいことでは有名な『緑の鯨』号といった。 三本マストも高々と聳え、客室はおよそ百と少し、図書室に鍛錬所に食堂に小さいものではあるけれど神殿まであって、ちょっとした小さな街といった具合だった。

 一等から三等までの客室には、老若男女様々な人間が乗船した。金持ちで占められる一等客室には貴婦人から紳士の類、果ては旅の傭兵まで、懐のあたたかい者たちが多く乗り、そうでない三等客室には、冒険者や旅の芸人一座など、その面々もまた同じように豊かであった。

 『緑の鯨』号が寄港した大陸はヴェイ大陸、緑と山と湖と海の大陸と呼ばれ、豊富な資源でもってあちこちの大陸のあらゆる国々と商売をしているであろうことは頓に有名だ。 そのヴェイ大陸の港町シンナといったら、誰でも知っている有名な巨大な街である。交易の中心といっても過言ではないこの街にはありとあらゆる人間が出入りし、そしてまた、様々な人々が別の大陸へ渡って行った。

 そのシンナに停泊した『緑の鯨』号は、これから旅程二か月と少しの日取りではるかヤリス大陸まで行くという。ヤリスといえば世界で一番広い大陸だ。その広大な土地はある場所は肥沃で、またある場所はやせているという、まったくもって不思議な構造のもので、各国の王たちは日夜その豊かな土地の取り合いに勤しんでいるといった具合である。

 その日、『緑の鯨』号に乗船許可が降りたというので、乗客たちは列をなして桟橋に集った。初めは勿論一等客室の乗客で、港はその客たちが船に乗る有り様を一目見ようと見物に来た野次馬たちでごった返した。

 ほら、あの荷物の多いこと、あれはあの貴婦人の持ち物だよ。あんなに積んでどうするんだろうね。おや、あっちはあの紳士が乗るようだよ。こちらは随分と荷物が少ないね。 こっちは、あれは傭兵さんだね。あんなに大きな剣を背負っているし、顔に傷もある。 へえ、一等客室なんて、随分腕のいい傭兵さんなんだね。

 あれやこれやと見物たちが囁き合うなか、一等の客たちがすべて乗船してしまい、お次は一番数の多い二等客室の乗客だと誰かが声に出した時、あちらでざわ、とひときわ大きなざわめきが聞こえてきた。人々がそちらへ目をやると、そこには目にもあざやかな美しい女が立っていた。

 すらりと背が高く、柳のように細くしなやかな身体に、薄絹の衣をまとっている。その袖の裾の長さからいって、未婚の女とみえる。腰にからむのではないかと思えるほど長い銀の髪は、さながら秘め滝のしぶきのようにも、月の光の青さを照らし返してぞわりと光る湖のようにも見えた。切れ長の瞳は淡い青色をしていて、水色というほどでもなく、かといって青い、というにはうすい、不思議な色だ。抜ける様に色が白く、生まれてこの方太陽の光を浴びたことなどないのではないかと危惧するほどにその肌は青白かった。

 コツ、コツと静かに歩きながら、女は息を飲んで自分を見守る野次馬たちには目もくれず、桟橋を渡り切ると静かに甲板へ消えて行った。

「おい見ろよ」

 女の持つ、切るような不思議な冷たい空気がまだそこに残るなか、ふとあちらへ目をやった誰かが隣の男をつついた。

「すげえ大男だ」

「ほんとだ」

 次にやってきたのは身長が二メートルはあろうかと思われる男で、髪をつるりと剃り上げ、赤銅色の肌は太陽の光を受けてつやつやと輝いている。丸太のような腕、逞しい胸板、大樹を思わせる太い足は、この男の生業が戦士であるということを容易に指している。

 それを裏付けるかのように、背中には大きな斧が背負われていた。つぶらな瞳は黒く、これからの旅への興奮を押さえきれないかのように光っている。

 人々が口をぽかんと開けて見つめるなか、男もまた桟橋を渡り甲板へと入っていった。 『緑の鯨』号は明日出発するとのことである。



 初めは物珍しく興奮に満ちた船旅も、一週間もすればじき飽きる。窓から表を見ても海しか見えないし、食事も料理人が同じだとだいたい味がわかってくる。するのは読書か、身体を動かすこと以外にはなにもやることがない。

 『緑の鯨』号の乗客は貧富を問わず色色な人間がいるから、一等客室の客たちは客室や喫茶室でお茶を楽しみ、そうでない者たちは図書室に行ったり、または持ってきた本を読んだり、或いは鍛錬所で身体を鍛えたりと実に様々な時間の過ごし方をしていた。

 船尾の片隅に、気を付けなければわからないほど小さな部屋がある。

 なかは広くもなく狭くもなく、ゆったりとしたソファがあって、それ以外は小さな丸テーブルくらいしかない。白い、薄いカーテンがあるのみの大きな窓からは大海原を望めるが、いかんせん誰かと過ごすにはくつろげないし、それに部屋が小さすぎる。

 乗客たちはこの部屋の小さいがゆえに、その存在に気づいていないか或いは気が付いていてもつまらない、なにもすることができない部屋と敬遠しているかのどちらかで、この部屋を使っている者はいないと言ってよかった。

 いや、一人いた。

 その女は初めは自分の持っていた本をこの部屋で読み、それが終わってしまうと図書室から適当な本を持ち込んで読書し、疲れるとソファに横になって眠り、腹が減ったら食堂へ行き、そしてまた戻ってきて読書し、眠っては起きて、そうして自分の客室へ戻って行くという生活を倦むことなく続けていた。

 なるほどこの大振りなソファであれば、横になって昼寝くらいならば充分にできるというものであろう。

 その日も、女は読書に疲れひとり眠っていた。

 そよ、と開け放した窓から風がそよいで、銀の髪がさらりと落ちた。それにも気づかないように、女はすやすやと気持ちのいい寝息をたてている。薄いカーテンが風が吹いた拍子にサラ、と流れて、その透き通りそうに白い肌の上を通った。

「……」

 その薄絹の触り心地と、誰かに足を触れられたような感覚で、女は目を覚ました。長い睫毛に縁どられたうす青い瞳を開けても、そこには誰もいない。半身を起こして部屋を見渡したが、やはり無人である。

 気のせいか、と思い、また横になった。

 毎日毎日、彼女はこの部屋にやってきてはこうして時間を過ごしていた。他の乗客たちのように互いに親密になってお茶や食事を共にしようとは思わないし、一人が気楽だ。

 一人でいればなにを話せばいいかなどとやきもきしなくていいし、相手の話に耳を傾けるのも億劫だ。それに、一日中誰かといて、他の客たちは疲れないのだろうか。家族といたって疲れるのに、ましてや他人とだなんて。女はそう思っていた。

 この日、女はいつものようにソファに座って本を読んでいたが、やがてそれも疲れてしまって寝ることにした。あとふた月も旅は続くし、この船の冒険者たちと違って鍛錬するほどの肉体も持ち合わせていない。だから、やることといえば飲み食い以外は本を読むことくらいしかなかった。そんな一見退屈な時間すらも、彼女は楽しんでいるようだった。

 さわ、と風が吹いて、またカーテンがその頬を撫でた。誰かの体温を足に感じて、そこで触れられたと気づいた女は目を覚ました。

「――」

 見上げんばかりに大きな男が、そこに立っていた。女は上半身を起こし、切れ長の瞳で男を睨んだ。

「……なにしてんのよ」

 男は悪びれもせず、にかっと人好きのする笑みを返して言った。

「なに、きれいな足だと思ってな。それに細っこくて、折れちまうんじゃないかと思って心配になったのさ」

 そのひとなつこい笑顔に、女は毒気を抜かれた。足を引っめて隙間を作ると、男はそれを誘われたと見てそこに座った。

「俺ぁルウェインってんだ。あんたは?」

 女はルウェインと名乗った男の筋骨逞しい身体つきをじっと見ていたが、問われてしばらく考えたのち、

「……ヴラリア」

 と低く言った。

「俺は傭兵だから、ひと戦ありそうだと思ってヤリスに行く。あんたは?」

 ヴラリアはなんの感慨もないといったようにこたえた。

「体を売りに」

 ルウェインの眉がへえ、と言いたげに吊り上がった。

「そんなに若いのに思い切ったもんだな」

「……他に取り柄がないのよ」

「そうか」

 風がまたさわ、と吹いた。日差しが入り込んできて、まぶしい。

 ルウェインはそれに目を細めると、また尋ねた。

「いくつだ」

「十八」

「思ってたよかずっと若いな。そんなに若いのに娼婦になろうなんて思い切ったもんだ」「言ったでしょ。他に取り柄がないのよ」

 ヴラリアはそれ以上こたえようとはせず、持ち込んでいた本を抱えて立ち上がった。

「もう行くのか」

「そうよ」

「明日も来るか」

「多分」

 短いやり取りを交わして、ヴラリアは出て行った。誰かと話すのなんて、数週間ぶりだった。

 次の日も、その言葉通りにヴラリアはこの小部屋に来て読書し、しばらくして眠った。 ルウェインは、昼寝から覚めた頃にやってきた。そして一言二言彼女と話すと、まだ話し足りないと言いたげな顔で帰って行った。この珍客をヴラリアは初め訝しんでいたようだが、彼に害意はないということ、傭兵という荒っぽい職業のわりに彼が本を読むということに意外性と驚きを感じて、自分でも不思議と彼が来るのを待つようになっていた。

 ルウェインはいつも大抵決まった時間にやってきて、色々なことをヴラリアと話した。 それは自分が戦った戦の話であったり、頼まれて引き受けた王様の護衛の話であったり、はたまた兄弟間の醜い争いごとから依頼主を守るための嫌々引き受けた仕事の話であったりした。ヴラリアは彼のどんな話にも特に関心を持ったりせず、眉すら動かさずにそれらを聞いて、いくつか質問をして、自分の感想を述べるに留まった。自分のことは尋ねられなければ話さず、たまにされたくない質問をされると、石のように黙った。しかし素性以外のことは、彼女は意外にも素直にルウェインの質問に答えていった。

「生国はどこだい」

「ヴェルタよ」

「へえ、寒い国から来たんだな。俺はアルグンドだ。娼館の生まれでな。やっては来る客たちが俺に剣を教えてくれて、十五になる頃には戦に出てた。それから十年になる」

「……早いのね」

「そうか? 傭兵なんて早かれ遅かれそんなもんさ。十三で剣を握ったってやつもいる。 要するに、そういうさだめなのさ。命名月はいつだ」

「残月の月の、初日よ」

「寒い国の、寒い時期に生まれたんだな。そんな見かけだしな」

 ヴラリアはそれにはこたえなかった。

 出会った初めは距離をおいてソファの隅と隅に座っていた二人であったが、今では隣り合って腰掛けるほどまでになっていた。

 ある日、ルウェインはごく自然に彼女に訊ねた。

「親御さんは元気にしてるのかい」

「……」

 ヴラリアの端正な横顔に、スッと翳が差した。彼女は目をそらし、窓へ視線をやって何事かを考え、しばらくして絞り出すように言った。

「……いないわ」

「そうか。そりゃ悪いこと聞いちまったな」

 十八で体を売りに遥か彼方の大陸まで行く、というのだから、複雑な身の上なのだろう。

 ルウェインはそんなことを思いながら、娼婦であった自分の母親のことを話し、あんたも娼婦になるんだったな、だったら話半分に聞いとけよと彼女たちの生活ぶりを語り始めた。ヴラリアにとっては未知の、それでいてこれから迎える生活の話であったし、親のことを聞かれたということも忘れ、彼の面白おかしいいつもの語り口に、いつの間にか彼女はそれに聞き入っていた。

 ふ、と風が吹いて、薄絹のカーテンがそよいだ。

 どこからか花の香りがして、ルウェインはなんだろうと鼻をひくつかせた。それが、隣にいる女の放つものだと気が付くのに、そう時間はかからなかった。

 さわ……とまた風が吹いた。

 ルウェインはヴラリアの肩にかかった銀の髪に触れ、それから耳に触れて、その水晶の彫刻のような顔に指をすべらせると、そっと彼女の唇を奪った。そしてそのまま身体をもたせかかると、細いヴラリアを自分の巨体で潰してしまわないよう注意しながら押し倒した。

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