第一章 4

 一方女は早々と山小屋を出て、すたすたと雪にも足を取られることなく歩き出し、後ろを振り向きもせずに山を越えようとしていた。日が暮れ、倒木の陰が雪が積もっていないので、そこで火を焚くことにした。

 薪を集め、慣れた様子でほくち箱から火をつけてしまうと、真っ暗な森にさあっとオレンジ色の灯かりが灯った。女は背負い袋から食糧を出すと、それを火で炙って黙々と食べた。ガサ、という不審な物音にぎくりとして振り返ると、通りかかったのであろうか、獣がこちらをじっと見つめていた。

「――」

 女は獣の黄色く光る目をじっと見つめた。

 怯えている。が、同時に好奇心が捨てられなくて去ることができないでいる。女は心のなかでこう呼びかけた。

 お帰り。私はお前たちの場所を荒らすことはしない。ただ、通りかかって火を借りているだけ。朝になったらいなくなるから。

 獣はじっと女の青い瞳を見つめていたが、やがてふっと気配が消えたと思うのと同時に、その姿はなくなっていた。

 女はため息をついて、パチ、と燃える焚火に目を戻した。

「……」

 さて、どこへ行こうか。ここはまだ帝国の領地だ。やはり隣国へ落ちるか。寝袋を出して、横になった。あの山小屋はなかなか気に入っていたが、素性がばれたのなら仕方がない。それに、麓の人間に自分の存在を知られるのもまずかった。引き時であったのだ。ため息をついて目を閉じると、眠気が来るのを待った。

 パキ、と地に落ちた枝を踏む音がして、また獣かと首を巡らした途端、その首根っこを掴まれた。

「……くっ」

「見つけたぞ。この性悪魔導師めっ」

 顔を煤だらけにしたレヴィルが、女の首を押さえていた。女は息が出来なくて、切れ切れのそれからなんとか言葉を漏らした。

「……どうやって……」

「逃げ出したか、ってか? 俺を縛ってた柱が焼け落ちたんだよ。部屋中火が回ってて、俺も焼け死ぬかと思ったぜ。ああ、あの毒にやられた男は死んだよ。可哀想に生きたまま焼かれてな」

 身体のあちこちの火傷が生々しい。レヴィルは懐から縄を取り出して、女の首に巻き付けた。

「もう逃がさないぞ」

 そしてその首から伸びた縄で女を後ろ手に縛ってしまうと、火の側に座った。

「お前は俺の虜囚だ。おとなしくしろ」

「……」

「お前がどれだけの魔導師かは知らんが、手を縛られてはなにもできんだろう。観念するんだ」

 女はつん、とそっぽを向いた。可愛げがないな、と心中で毒づきながら、レヴィルは辺りを見回した。

「腹が減ったな。なにか食べるものはないのか」

「ないよ」

 レヴィルは縄を持ったまま立ち上がり、用心して女の荷物を改めた。

「あるじゃないか」

 そして食糧を見つけ出すと、干し肉を取り出して火で炙り始めた。しばらくして肉が焼けるにおいがして、レヴィルは木の枝に刺したそれを食べた。

「水はあるか」

「ないよ」

「嘘つけ」

 彼は苦笑しながら女のマントの辺りを見た。旅をするのに、吸い飲みがないとは考え難い。案の定、革袋が置いてあった。レヴィルはその中身を慎重に飲んだ。

「言っておくが寝ている間に逃げようなんて思うなよ。俺は隣国に逃げる。そして幼馴染と一緒になるんだ」

「そりゃおめでたいこった」

 女はぶっきらぼうに言い放つと、パチパチと燃え盛る焚火にじっと視線を移した。

「……」

 その瞳の光の静謐さに、レヴィルは息を飲んだ。とてもではないがさっき自分を殺しかけたとは思えないほど、その目は澄んでいた。

「あんた、名前はなんていうんだ」

 女が顔を上げた。その目の大きさに、レヴィルは怯む。昼間も思ったが、この女は美形だ。透明感のある白い肌、流れるような銀の髪、海の青を容易に想像させる青い瞳、女は美しかった。

「……言わないよ」

「なに、魔導師の本当の名前を教えろって言ってるんじゃない。親からもらった名前があるだろ。なんていうんだ」

 警戒する女の敵意を解こうと、レヴィルは笑って見せた。そうすると、まるで春の光がはじけたような温かさが彼の顔に浮かんだ。

「これから隣国まで、長旅だ。連れの名前があんたじゃやりにくい。名はなんだ」

 女がむこうを向いた。その強情さにレヴィルは苦笑して、

「俺はレヴィルだ。レヴィル・メルガン」

 女はため息をついた。

「あんたは?」

「……イェータ」

「珍しい響きだな。綴りはなんだ」

「Gotalvよ」

「聞かない名前だ。生国はどこなんだ」

「言わないよ」

 イェータはつんとむこうを向いている。これ以上は口などきかないとでも言いたげなその横顔に、レヴィルはまた苦笑した。まあいいか。名前がわかっただけでもよしとしよう。 肉を食ってしまうと、途端に眠気がやってきた。レヴィルはあくびをして、それから縄を二重に手に絡ませて横になった。

「逃げようなんておかしなこと考えるなよ。俺は疲れた。もう寝る」

 そしてイェータの背負い袋から毛布を取り出すと、それにくるまって横になってしまった。レヴィルの図太さに呆れつつも、イェータはそこから動こうとしなかった。油断してはならない。自分はこの男の捕虜だ。なにをされても、おかしくないのだ。イェータは座ったまま寝袋の掛け物を手繰り寄せて下半身を覆ってしまうと、座ったまま火を見つめ続けた。そして朝まで、じっとそうしていた。

 レヴィルが目覚めた時、焚火の火はすっかり消え、日は高く昇っていた。イェータはそこに、ただ座って彼が目を覚ますのを待っていたようだった。

「やっと起きたのかい。帝国の兵士なんてお気楽なもんだよ」

 縛られたまま、イェータは辛辣に言った。もう昼間に近いだろう。山を降りるには、まだまだ歩かねばならない。旅の心得などなにも知らないかのようなレヴィルの振る舞いに、呆れ返っていた。

 レヴィルは真冬の雪山の地面で眠ったことによる身体のだるさと痛みにちょっと顔を顰めて、それから大きく伸びをして起き上がった。

「よし、支度をして、行こう。隣国はどっちだ?」

 イェータはまた呆れた。この男、捕虜の私に道を聞くつもりか。嘘を言われたらどうするんだ。

「あっち」

 彼女は北の方向を顔で指し示すと、すっと立ち上がった。

「寝袋、しまって。背負い袋はあんたが持て」

「あ、ああ」

 妙に堂々とした虜囚だな。イェータの振る舞いにちょっと呆気に取られながらも、レヴィルはそれに従った。帝国の兵士をやっていると、旅には慣れるがその支度までは慣れない。補給部隊がみなそれらのことをやってくれるからだ。よって、旅に関してはレヴィルは素人といってもよかった。

 後ろ手に縛られたイェータを先に歩かせて、レヴィルは山を歩いた。火傷の痛みは治まっていたが、火ぶくれにはなっている。まったくひどい目に遭ったものだ。雪に足を取られのろのろと歩くレヴィルを、イェータは鼻で嗤った。

「ふん、帝国の兵士ともあろうものが、だらしがないね。ちゃっちゃと歩きなよ」

 息が上がってそこに立ち尽くすレヴィルを振り返って、イェータが毒づく。彼女の足ならば、今頃はとうに山を二つ越え、明日には隣国へ入ろうというまでになっていたであろうに、この思わぬ道連れのおかげでそれもいつになるか甚だあやしいものだ。

「そんな足遣いでえっちらおっちら歩いてたら、着くものも着かない。早く歩いとくれ」 イェータがそんなことを呟くと、レヴィルは気を取り直したように歩き始めた。どちらが虜囚なのか、今ではわからなかった。

「……あんた、隣国まで行って、それでどうするつもりだったんだ」

「さあね。帝国から逃れられりゃどこだっていいさ。命をとられるよりかはましだろうよ」

「どこの街の魔導師だったんだ」

「言わないよ」

「なんでだよ」

 イェータはするどく舌打ちした。この男のなにもかもが、癪に障った。

「なんでかって?」

 彼女は振り向いて、縛られたままレヴィルにつかつかと歩み寄った。

「どこの魔導師だったかなんて知られた日にゃ、素性がわかっちまうじゃないか。魔導師の素性なんてものは、なにがあっても明かしちゃいけないものなんだ。それがわかんないで、よく魔導師狩りなんてできたもんだね。この唐変木が」

「と、唐変木とはなんだ」

 あまりの言葉に、レヴィルは傷心の面持ちとなった。

「お、俺だって少しくらい知ってるぞ。魔導師は親にもらった名前とは違う、魔導師の名前というものを持っていて、それは誰にも明かせない、絶対の秘密だって。それは名をつけてくれた師匠と魔導師の本人だけのもので、その名前を知られてしまうと、魔導師は死んでしまうって」

「そんなことは三つの子供だって知ってることだ。威張るんじゃない」

 イェータは銀の髪をひらめかせて、また先を歩き出した。

「まったくとんだ男に捕まったもんだよ」

 前でぶつぶつ言うイェータの悪口ぶりに、レヴィルは驚きが隠せない。この女、見た目はいいが、ひどく口が悪いと見た。あまり刺激しない方がいいな。

 二人はしばらくなにも言わず、ただ山道を黙々と歩いていた。しかし、レヴィルはふだんは饒舌な男である。たちまち沈黙に耐えられなくなって、イェータにこう聞いていた。

「あんた、いくつだ」

「そんなこと聞いてどうすんのさ」

「好奇心だよ。俺は次の藤二藍の月で二十一になる」

「若造が」

「そういうあんたはいくつなんだ」

「……十八」

「若いな。そんなに若くて魔導師になったのか。へえ」

「うるさいね。いちいち感心するんじゃないよ」

「俺の幼馴染は五つの時に南の魔導師に弟子入りして、親元を離れて、可惜夜あたらよの月と月光藍の月に帰省してた。そうして十数年修行して、めでたくある村の魔導師になったんだ」

「……その娘はいくつなんだい」

「十九だ」

「じゃあ私と大して変わらないじゃないか。みんなそうさ。小さい頃からすべてを捨てて修行して、魔導師の本当の名前をもらって、そうやって独り立ちしていくんだ。それが、魔導師狩りになんて遭ってまったく損な話だったらないよ」

 しまった、話が変な方向に行ってしまった。レヴィルは冷や汗をかいた。これは、また機嫌を損ねてしまったかな。

「私の師匠も帝国に捕まって連れて行かれた。噂じゃひどい拷問にかけられて、それでも本当の名前を言わないで、苛め抜かれて死んでいったって」

「……それはすまない」

「あんたが謝ることじゃない」

 イェータはふん、と鼻で嗤った。

「いや、俺が謝ることだ。俺は帝国の兵士だからな」

 意外にも殊勝な彼の言葉に、イェータは振り返った。

「帝国があんたの師匠を殺してしまったこと、詫びる。すまなかった」

「……」

 イェータはそのレヴィルの黒い瞳をちらりと見て、それからまたふん、と言って歩き出した。

「なんで帝国の兵士なんてやってるんだい」

「金さ。給金がいいからな。五、六年も勤め上げて、士官がかなったら出世できるし、その金で幼馴染を呼び寄せて、結婚しようと思っていた」

「そしたらそのは自分の護る村から出て行かなくちゃいけないじゃないか」

「いや、それはそうだが」

「男ってのは、なんでそう勝手なんだい。その娘が十数年もかけて必死で得たものを、あんたの都合でやめさせようってのかい。ご大層な身分だこと」

「そ、それは」

「その娘と、よく話し合ったのかい。その娘のために、その娘のいる村に留まって一緒になろうとは思わなかったのかい」

「――」

 意外な言葉に、レヴィルは二の句が継げない。そんなことは、考えもしなかった。女は男についてくるものだと、勝手に思い込んでいた。

「そういうことは両者の合意の元で決められるもんだ。どちらか片方の我慢の上で成り立つ幸せなんて、長続きしない」

 それはそうだ。

 レヴィルの胸が衝かれた。

 この女の言うことは、至極もっともだ。俺はなぜ、それを疑問に感じなかったんだ。それがエイナの幸せだと、なぜ信じて疑わなかったんだ。

「娘が護っている村も、また魔導師を募らなくちゃいけなくなる。少なくとも三者のうち二つが不幸せになるんだ。よく考えな」

 イェータはなぜか腹立たしげだ。同じ魔導師の境遇にあって、相手のことをなにも考えないレヴィルの浅慮に頭に来たようだった。

 そうしてようやく山を越え、数里も歩いたかと思われた時のことである。

「止まれ! 何者だ」

「どこへ行く」

 二人は、帝国の兵士に足止めされた。

 まずいな。俺のいた隊とは別の部隊だ。レヴィルは忙しく思考を巡らせた。彼は縄を掴んだまま、両手を軽く上げて無抵抗の意志を示し、兵士たちに近寄った。

「待ってくれ。怪しい者じゃない。俺たちは隣国へ行こうと旅している者だ」

「なぜこの女を縛っている。お前はどこの国の者だ」

「俺も帝国の兵士だ。第八師団二十七部隊、先遣隊のレヴィル・メルガンだ。照会してくれてもいい」

「なに……」

 兵士たちは顔を見合わせ、警戒を解かずに二人に歩み寄った。兵士が二人、イェータに近寄ってじろじろと舐めまわすように見回し、低く下品な冗談を言い合っている。

「本当に帝国の者か?」

「ああ、ここから南のレディの村までやってきて、そこで隊の者とはぐれた」

「それがこんな北でなにをやっている」

「この女は何者だ」

 私が魔導師だと、言うか――イェータはするどくそちらに目をやった。

「捕虜だ。俺を殺そうとしたんで、捕らえて連れて行くところだ。なんでも、帝国は親の仇なんだとよ」

「なぜ反対方向に向かっている。間もなく国境だぞ」

「聞けば可哀想な身の上なもんで、つい同情して逃がしてやろうと連れて行くところだ」「――」

 イェータは黙ったまま、静かに驚いていた。この男、なんのつもりだ。なぜ私の身柄を渡さない。士官したいと言っていただろう。

「なんだと?」

「まあ許してやってくれよ。聞くも涙、語るも涙の身上さ」

 レヴィルは辛抱強く兵士たちに説いている。イェータの顎を、側にいた兵士が掴んだ。

「見ろよ、いい女だぜ」

「おい、この女を貸してくれよ。二、三時間で済ませるから」

 側にいた二人の兵士が下卑た笑いを上げた。

「勘弁してくれよ。隣国に逃がしてやる最中なんだ。きれいな身体のまま帰してやろうじゃないか」

「そう言うなよ」

「あんたもおこぼれに与れるぜ」

 後ろ手に縄で縛られているイェータは、身体を触られても抵抗ができない。それでも、手を撫でまわすその手を身体で振り払うくらいのことはしている。

「おっと、活きがいいぜ」

「なあいいだろ」

 まずいな。このまま行かせてくれそうにもない。レヴィルはそっと奥歯を噛んで、どうやったらこの場をやり過ごすことができるかを考えに考えていた。彼が口を開こうとした時、イェータの身体を撫でまわしていた兵士がその服を破った。

「おい、見ろよ」

「いい体してるじゃねえか」

「まあまあだな。……ん?」

 イェータは縛られたまま、硬直した。胸元には、不思議な形をした剣の刻印がされていた。

「こ、この女、魔導師だ」

「――なに?」

「見ろ、魔道の文様だ」

「本当だ」

「魔導師?」

「魔導師だ」

「この男はそれを知っていたのか」

「知っていて逃がそうとしたのか、おい」

 兵士たちがレヴィルにせまってきた。チッ、とするどく舌打ちをして、レヴィルは素早くその内の一人の腰から剣を奪った。

「バレちゃあ仕方ないな。このまま逃げさせてもらう」

「なにをっ」

「囲め!」

 兵士たちが次々に抜刀して、レヴィルに迫った。イェータの服を破った二人も、剣を抜いてイェータを囲んだ。

 たちまち剣戟の響きが山に轟き、レヴィルは髪を振り乱して戦った。一人倒し、二人目と対峙して、囲まれた。あちらでは、イェータの髪を掴んで連れて行こうとしている兵士の姿も見られた。

「縄を!」

 イェータは叫んだ。

「縄を切ってっ」

「……なに?」

 レヴィルは自分を囲う三人の兵士たちとの距離を目で測りながら、イェータの言葉にも敏感に反応していた。

「早く! 私がなんとかするから」

「言うぜこの女」

「大した魔導師様だぜ」

 また下卑た笑い声を上げて、二人の兵士たちがイェータを連れて行こうとする。

「早く!」

「ええいっ」

 レヴィルは飛びかかってきた一人と打ち合い、踏み込まれて歯噛みした。力が、強い。 押しに押された。

「縄を!」

 くそっ。レヴィルは奥歯が砕けそうなくらい歯を噛みしめて、押し込んできた力を押し返した。そして顔を真っ赤にしてとうとう押し切ってしまうと、絶体絶命のイェータの元へと駆けた。

 後ろから、残った兵士たちが追って来るのが刃風でわかった。斬られそうになりながら、レヴィルは走りに走った。そしてイェータの側まで来ると、一気にその縄をぶつりと叩き切った。

「――」

 はらり、縄が解けた。

 ファサ、とイェータの滝のような銀の髪がその白い顔に落ち、青い瞳が不気味に光った。「お、おい」

「ああ」

 兵士たちは自由になったのがただの女ではない、魔導師だと今になって思い出して、慌てて剣を持ち直した。うつむいているイェータの顔は、髪に隠れてよく見えない。

 しかしよく見れば、その口が小さく詠唱に動いていることがわかっただろう。が、兵士たちはそれを見届けることができなかった。

「炎霊の聖なる名のもとに、集え」

 詠唱が終わり、イェータが低く言い放つと共に、それは起こった。

 ひゅごう。

「――」

 レヴィルは見た。

 イェータの全身から迸る炎の帯が、二重三重になって渦を描き一気に兵士たちを飲みこむのを。それは光のように早く、風のように静かで、大地のように力強いものであった。 たちまち、イェータの身体を掴んでいた兵士二人が燃え上がった。レヴィルを追っていた兵士たちは、ぎょっとして立ち止まった。イェータは低く詠唱した。

「我が真の名の元に宿りし聖霊たちよ」

 ひゅう、風が一陣。

 ザザッという音がしたな、と思ったら、顔にぴちゃ、となにかがかかった。手で拭うと、それが血であることがわかった。

「――」

 レヴィルは茫然としてそれを見た。

 自分を追ってきていた兵士たちが、全身傷だらけになってそこに倒れている。その傷口は、鋭い剃刀で切ったかのように引き裂かれていた。

 黒焦げになった死体と、肉の塊になった死体。その素早いわざの前で、悲鳴すら聞こえることはなかった。

 恐るべき魔道をいとも簡単に放ってしまったイェータ本人はというと、これはまるで私はなにも知りませんとでも言いたげにしれっとして兵士たちの懐から金を見つけるとそれをくすね、ついでに腰の剣も頂いて自分のベルトに挟んでいる真っ最中であった。

「あ……あんた」

 レヴィルは震える手でイェータを指差した。彼女はじろりとレヴィルを見た。

「……あんたがやったのか」

「目がないのかい。他に誰がやろうってんだいこんなこと」

 しまった。レヴィルの背中に冷たい汗が流れた。この女の口の悪さを忘れていた。

「こんな高位の魔道、どうやって」

「さあね。師匠はそれを才能って呼んでたよ」

 イェータは破かれた服を捨て、レヴィルが背負っていた袋から着替えを取り出した。そして手早く着替えてしまうと、彼を振り返って言った。

「なにやってる。兵舎があるはずだろ。なかに入って兵士の鎧を奪うんだよ。さっさとしな」

「あ、え、はい」

 言われて、レヴィルは放たれた矢のように行動した。イェータの言う通りに、兵舎のなかに鎧があった。よく知った、帝国の鎧だ。それを纏って辺りを見回し、ついでに剣と弓矢も頂いた。

 外に出ると、イェータは自分が作り上げた死体の山を埋めている真っ最中であった。

「……なにやってるんだ」

 彼女はじろりとレヴィルを見上げた。

「なにやってるように見えるってんだい。埋めてるのさ。帝国の兵士の死体がごろごろ転がってちゃ怪しむ人間がいるだろ。ぼさっと見てないで手伝いなよ」

「は、はい」

「ったく」

 ぶつくさ言うイェータの手は、機械的に二人目の兵士を埋めることに徹している。レヴィルは身体が引き裂かれたいくつもの死体を見下ろして、ごくりと唾を飲みこんだ。そして兵舎から適当な道具を持って来ると、死体を埋め始めた。しかし、横目で一心に穴を掘っているイェータを盗み見るのも忘れなかった。

 あの女、何者だ。

 穴を掘りながら、彼はひたすら考えていた。あんな高位の魔道を、あんなに若くして使える魔導師がいるだなんて噂は聞いたことがない。そうであれば帝国が真っ先に殺しに来ていたはずだ。

 四人目を穴に入れてしまうと、上から土を被せた。イェータは、もう作業を終えているようである。

「終わったかい」

「あ、ああ。もうじきだ」

「終わったらすぐ出発だよ。じき日が暮れる」

 間もなく日が暮れて、二人は歩き出した。レヴィルはあんな見たこともない魔道をこの目で見たという衝撃で、イェータを縛ることすらすっかり忘れていた。

 火を焚き、それを囲んで、二人は無言だった。焚火をじっと見つめるイェータの瞳は、目千両と言ってもいいほどに大きい。今にも飲みこまれんばかりの青い目に映る炎が美しくて、見ていて目が離せなかった。と、イェータがその視線に気づいた。

「なに見てんだい」

「あ、いや」

 チッ、とするどい舌打ちの音が闇に響く。

「その……」

「なんだい。さっさと言いなよ」

「……戸惑うことなく人を殺せるんだな、と思って……そんなに若いのに」

「……」

 イェータが顔を上げた。

「……自分の身を守るためには仕方のないことだ。迷ってたら殺られるのは自分だからね」

「俺は兵士をやっているが人を殺したことはまだない。いざその時になってできるかどうかと考えると、怖いんだ」

「怖いだあ?」

 イェータは眉を上げた。

「帝国の兵士をやってりゃ、間接的に人を殺してるのと同じさ。今まで何人の魔導師を連行していったか、覚えちゃいないんだろう。連れて行かれた魔導師たちは拷問されて死ぬか、本当の名前を言わされて死ぬか、どのみち死ぬことには変わりはないんだ。あんただって立派な人殺しさ」

「……なぜ俺から逃げないんだ」

「女が一人で国境をうろうろしてたら怪しまれる。二人連れだったら夫婦者とかなんとか言っていくらでも誤魔化せるだろ」

「ふ、夫婦って、俺はエイナと」

「ふりでいいんだふりで。馬鹿か」

 ぺっ、と不愉快そうに唾を吐き捨てて、イェータは横になった。寝袋は返してもらっていたから、それに収まって寝た。レヴィルも、めぼしい旅の道具は兵舎から失敬していたので彼女にならって眠った。

 冬の闇がしんしんと立ち込め、パキ、と焚火が爆ぜる音が響いた。


 共に旅をすると、イェータという女はまことに便利な存在であった。手際よく火を熾すし、狩りの腕も確かだった。彼女が持っていた弓で矢を放つと、多かれ少なかれ、必ずなにがしかの獲物が手に入った。魔道で狩りとかできないのか、とレヴィルが尋ねると、そんなことはしないと素っ気なく言われた。それでエイナに言われたことを思い出した。魔道ってのは、自らと人を守るためだけに行使する選ばれた者にだけ許された神秘の力だったな。むやみに使ったらいけないってか。器用に鹿の皮を剥ぐイェータの手並みに見とれながら、レヴィルはぼんやりとそんなことを考えていた。

 旅をして何日目になるのか、いよいよ明日は国境という晩になって、レヴィルはイェータに尋ねた。

「隣国に行って、それからどうするんだい」

「さあね。どこかで宿を借りて、そこからまた西に行く。西には草原が広がっているはずだ。そこのどこかの村で魔導師なんていくらでも募ってるだろ」

「あんたほどの魔導師が、辺境の土地で暮らすのでいいのか。もっとこう、どこかの国のお抱えとか、宮廷魔術師だって夢じゃないだろ、その腕だったら」

「余計な邪推をするんじゃないよ。たまたま一緒に旅してるだけの連れに、なんでそんなことまで言わなくちゃいけないんだい。人にはそれぞれ事情ってものがあるんだ。いちいち首を突っ込むんじゃない」

 イェータの悪口にもだいぶ慣れてきて、それもそうだな、と呟き、レヴィルはごろんと横になった。樹々の間から、満天の星空が見える。星座を探しながら、レヴィルはエイナのことを案じていた。あいつ、今頃はどこにいるんだろう。無事でいるかな。星を一つ一つ数え、なぜかたまらなく眠くなってきて、レヴィルは寝袋に潜り込んだ。慣れない雪道を歩いたせいで疲れていた彼は、朝までぐっすりと眠った。

 翌朝目を覚ますと、イェータは焚火の側にいなかった。どうしたんだろう、顔でも洗いに行ったかな、ときょろきょろしていると、兎を片手に持った彼女が銀髪をひらめかせて帰ってきた。

「ああ、朝食か。すまない」

「ほんとだよ。誰かさんは狩りの腕はさっぱりだからね」

「それはすみません」

 苦笑して、せめて新しく火を熾そうと屈む。その間にもイェータは兎の皮を剥いで、見事な手際で肉を捌いていった。

 パチ、と新しく薪が燃える音がし始めて、途端に指先が温かくなる。切った細い枝に肉を刺して、イェータがそれを焼いた。

「これから国境だけど、一番警備が緩いのは西北の番所のはずだ。あそこなら手形を持っていなくても通してくれるし、そのまま城壁のなかに入ればサイルに入国できる」

「サイルか。帝国とはあまり仲がよろしくないから、この鎧とはおさらばだな」

 レヴィルが鎧を捨てている間も、イェータはひとり火を見つめてじっとなにかを考えているようである。その端正な横顔を盗み見ながら、黙っていれば美人なのになんであんなに口が悪いんだろうな、とレヴィルは余計なことを考えていた。

 太陽が中点にさしかかろうかという頃、国境の番所に着いた。二人は旅の夫婦というふれこみで申告し、書類に偽の名前と生国を書いて国境を通った。

「よし、いいぞ」

 と言われて境界線を踏み越えれば、晴れて隣国である。レヴィルは勇んで歩き出した。

「待て」

 しかし、太い声がその背中に呼びかけられて、二人はぎくりと立ち止まった。

「――」

「国境近くの兵舎で、殺しがあったそうだ。兵士が全員殺されていて、ご丁寧に埋められていたと」

「なに?」

「それは本当か」

「傷口を調べたところ、どうやら魔道の傷のようだというので、どこからか逃げ出した魔導師がいると探しているそうだ。それに、そこから少し離れた山小屋が全焼して、なかから焼け焦げた遺体も見つかったらしい。今関連を調べているようだが、どうやら若い男女だったということはわかっている」

「おいお前たち、いくつだ?」

 まずいな。レヴィルは背中を流れる冷たい汗を感じながら、愛想よく振り向いた。

「へい、次の翠縹の月で二十五になりまさ。こいつは、私より一個下で」

「若いな。それに、男女の連れだ」

「おい、戻ってこい。もう一度詳しく調べる」

 手招きされて、レヴィルは迷いながらもそちらへ歩み寄ろうとした。しかし、頭のなかでは策は尽きていた。先程上申した書類には、嘘しか書いていない。詳細にものを訊ねられれば、たちどころに言葉に詰まるだろう。

「走って」

 イェータが、そんな彼に低く言った。

「――え?」

「走って」

 ヒュン

 ヒュン

 光るなにかが、矢のように飛んだ。それと同時に、イェータが境界線目指して猛烈な勢いで走り始めたので、レヴィルは慌ててそれを追った。同時に倒れた兵士が二人。仲間の兵は、それを唖然として見つめていた。

「お、おい」

 誰かが、我に返った。

「追いかけろ!」

「帝国の兵士を殺した奴らだ。逃がすな」

 風を切って、イェータとレヴィルは走りに走った。追う方と追われる方では、大した距離の差はなかったから、死に物狂いで駆けた。

 間一髪、背中に手が届く――といったところで、二人は隣国の境界線を越えていた。

「どうした。何者だ」

「帝国に追われている。逃げてきたんだ」

 切れ切れの息の下から、レヴィルが辛うじて言った。イェータは横で、ぜいぜい言いながら座り込んでいる。そちらにも兵士が歩み寄って、大丈夫かと具合を聞いている。

「逃げてきたのか。そうか。サイル王国はお前たちを歓迎する」

 よかった……。

 レヴィルはほっと息をついた。しかし、まだまだ油断はできなかった。これで二人は、晴れて帝国のお尋ね者になってしまったのだ。


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