第一章 3

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 広大な領地を所有するレイナンテ帝国は現在齢四十を少し越える帝を頂き、戦での勝利に次ぐ勝利で繁栄を誇っていた。帝ラーズバルズ・レイナールは質実剛健勤倹尚武、信じるものは己の剣の腕のみと豪語するだけあって、魔道や森羅万象を旨とするその道の不可思議さを蛇蝎のごとく忌み嫌った。君主の元に侍るが常の宮廷魔術師を追放し、帝国中の魔導師を駆逐し、魔道を行うことを禁じた。

 それだけではなかった。

 彼は領地という領地の、あらゆる街や町、村に至るまで人の住むすべての土地に住む魔導師たちを狩り始めたのである。魔道を以て人心を謀ること不謹慎この上なく、君主を弑し世界を混乱に陥れんとする不心得者と、魔導師たちを一掃した。

 人が住む場所に魔導師がいるのは世の常である。彼らは生きて行くのに手だてのない者たちの道しるべになり、教え、導き、そうして彼らと共存していった。人と人が共に暮らし、生きて行くのに、魔導師たちはなくてはならない存在でもあった。

 その魔導師たちを一方的に断罪し狩り始めた帝の所業を、初め人々は噂と信じなかった。 しかし魔導師を匿った村が焼かれ、捕らえられた魔導師は魔道を行うに必須である自分の本当の名を奪われ惨殺されたという話があちこちからいくつも聞こえ始めると、ただの流言飛語だと笑っていた者たちもどうやら真実らしいと襟を正し始めた。なんの罪もない魔導師たちを殺すのはいくらなんでもひどすぎると、村人たちは魔導師を逃がした。しかしやってきた帝国の兵にうちの村にはそんなものはいない、いなくなったと告げると、問答無用で殺戮が始まるのだ。魔導師を逃がしたに違いない、それは帝への反逆にもとる行為と、皆殺しにされた。

 恐怖は伝播し、魔導師たちは魔道を以てして身を隠し、その実力がない者は樵や漁夫に身をやつして過ごした。魔導師たちは捕らえられ、投獄され、本当の名を奪われ、無残に殺されていった。密告が絶えず行われ、不信が人の心を覆い、正義は死語となった。

 レイナンテ領の片隅の片隅、地図にも載らぬ辺境の地にも、帝国の兵士たちは来た。しかし人々は首を振ってこうこたえた、

 魔導師様にいて頂くには、あまりにも辺鄙でありすぎて、どなたもおいで下さることはなかったですじゃ。ここは鳥も暮らさぬ雪深い山、こんなところに魔導師様がおいでになっても、して頂くことはない。

 人々は口々にこう言った。兵士たちは隠し立てするとお前たちの命もない、領内の殺戮の噂聞き及びであろうと脅すも、彼らは皆首を振って回答するばかりだった。

 兵たちは首を傾げ、これは不発だったかな、と言い合った。そして誰も殺さずに、誰も捕らえずに去って行った。

 村はこうして殲滅を逃れたのである。

 その村からも離れた山深い場所に、レヴィルはやってきていた。幼馴染を逃がした後、他の村へも派遣され、彼はエイナのいるはずの隣国から遠く離れた場所にいた。まだ見ぬ魔導師の影を追って山に入り、村を見つけては、魔導師を差し出すよう迫った。雪は深く、樹々は生い茂り、足をとられて歩くうち、本隊とはぐれた。しかし、どこへ行くかはわかっていた。だから、はぐれても惑うことなくその場所を目指した。雪をかき分け、歩く内に行くべき方向を見失い、違う場所へ向かっていることには気が付かなかった。

 入っても入っても山を越えられず、雪に足を取られて疲れてきた頃、ようやく道に迷ったということに気づいた。日は山の端に暮れようとしていて、寒くて指がかじかむ。吐く息は白く、震えが止まらない。周囲を見回しても、人家はおろか松明の光すら見えない。 参ったな、と呟き、少ししてまた歩き出す。頭のなかの地図を頼りに、人がいそうな場所を目指して歩いている――つもりだった。

 どうやら迷ったようだと気づいたのは、ほどなくしてからであった。日はとっぷりと沈み、辺りは灯かりの影もなく真っ暗である。自分の手すら、見えない。

「どうしたものかな……」

 白い息を吐きながらレヴィルが辺りを見回し、またひとたび歩き出した時、闇のなかになにかが動いた。

「? ――」

 彼は目を凝らした。なんだ。寒すぎて空腹すぎて、めまいがしているのか。

 違った。闇になにかが光ったと思って見てみると、またきらりと光った。

「――」

 人だ。

 なにかを背に、一心に歩いている。あれは女だ。

 女が一人、こんな辺鄙なところでなにを? レヴィルは訝った。しかし、またとないことである。火を借り、ついでに借りられるなら宿も借りて、正しい道を教えてもらいたいものだ。レヴィルは女の歩く方向へ歩き出した。

「おおい」

 声をかけると、薄闇にびくりと女が立ち止まるのが見えた。そして恐る恐る振り向くと、闇を透かしてこちらを見ている。レヴィルが近くまで寄ると、その瞳は濃い海の青であるということがわかった。

「助かった。近在の者か? 迷ったらしくて、困っている。どうか……」

「……その恰好は帝国の兵士だね」

 冷たい声であった。言っていることを遮られたことにも、拒絶を示すような言葉にも気が付かないほどの、冷淡な声色にレヴィルは身が竦んだ。

「――」

「帝国の魔導師狩りは聞いている。残酷なことをするもんだよ。私はなにもしちゃいない。 この先で、一人で住んでるはぐれ者さ。生憎だが帝国の回し者にスープをやるほど落ちぶれちゃいないよ。消えな」

 女がさっさと行ってしまったので、レヴィルは呆気にとられてその背中を見つめていた。「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 彼は慌てて女を追いかけた。が、深い雪に足を取られて、うまく歩けない。そんなレヴィルを嘲笑うかのように、女はずんずんと歩いて行く。その速さたるや、女のそれとは思えないほどである。

「待って――」

「しつこいね」

 女は振り返って、叫ぶように言った。

「あんたに貸す宿も火もない。帰んな」

「帰りたいのだ。帰りたいが、道がわからない。麓に行く道を教えてくれ」

「南だよ」

 泣きたくなるほど素っ気ないこたえは、そのまま女の心もそうであるかのようだった。「南はどっちだ」

「あっち」

「あっちってどっちだ」

 尚も追いすがるレヴィルに、女は吃となってもう一度言った。

「あんた、言葉がわかんないの。関わりたくないんだ。邪魔なんだよ」

「そう殺生なことを言わんでくれ。俺は確かに帝国の兵士だが、ここだって帝国領だろう。 なら、乞われて教えるくらいの親切心があってもいいものなんじゃないのか」

 チッ、と舌打ちする鋭い音が、闇のなかでもよく聞こえた。

「屋根の下に入れてくれとまでは言わん。が、軒先くらい貸してくれてもいいだろう。寒くて、ここで野宿なんかしたら死んでしまう。帝国の兵士に手を貸さずに死なせたなんてわかったら、あんただってただじゃすまないはずだ」

「……」

 女が、背負っていたものを抱えなおした。

 沈黙が辺りを支配した。レヴィルはなにも言わず、固唾を飲んで女の返答を待っている。 また女も、なにかを一心に考えているのか、身じろぎ一つせずに黙っている。

「……来な」

 女が歩き出した。有り難い、と呟いて、レヴィルは雪に足を取られながら女がすたすたと歩いて行くのに必死について行った。

 四半刻も歩いただろうか、すっかり身体の芯が冷え、指の感覚がなくなり始めた時、その小屋は見えてきた。女は入り口の側にあった小さな物置のようなところに担いでいたものを置いてしまうと、ぼけっと小屋を見上げているレヴィルに素っ気なく言った。

「なに見てんだい。入んな」

 そして彼が来るのを待たずになかに入り、ばたんと扉を閉めた。置いて行かれたレヴィルは扉をまじまじと見ていたが、恐る恐るそれに手を伸ばすとなかに入って行った。

「――」

 途端に、暖かい空気が頬を撫でた。暖炉に火が灯っている。大きなテーブルが奥にあり、椅子が並んでいる。その脇に、どうやら台所らしい場所もあった。奥に部屋でもあるのだろうか、扉が一つある以外は、他になにもない。かじかんで凍るように冷えていた手がじんわりと温まっていくのを感じて、レヴィルは小さく歓声を上げて暖炉に走り寄った。

「有り難い。生き返る」

 女は、それを見ようともしないで台所の戸棚からなにかを取り出している。どうやら、酒瓶のようである。そして杯を持って来ると、

「ほら」

 とテーブルの上にそれを乱暴に置いた。

「食事を振る舞ってやるほど裕福じゃないんだ。これで凌いでおくれ。帝国領っつったって、ご威光が届かない辺境じゃ一人で暮らすのも精一杯なんだ」

 レヴィルは酒瓶を開けて、中身を嗅いでみた。においからして、火酒だろう。

「助かるよ」

 女はふん、と鼻で嗤って、鍋を火にかけた。そして手早くなにかを作ってしまうとそれを皿に入れ、レヴィルから離れたところでむっつりと食事を始めた。

 火酒をちびりちびりと飲みながら、レヴィルはそれを横目こっそりと見ていた。どうやら暮らしぶりからして、言葉通り他人に恵んでやるほど豊かではないようだ。この火酒だって、もうなくなる寸前だ。腹は減ったが、暖炉の側に座らせてくれるだけでもよしとしないと。女は一言も喋らずに冷たい青の瞳をレヴィルから離さず、黙ったまま食事を終えると、奥から毛布を持ってきてレヴィルに向かって放った。

「これで我慢しな」

 そして自分は奥の部屋に行ってしまうと、がちゃりとこれ見よがしのように鍵をかけてしまった。レヴィルは投げられた薄い毛布のちくちくとした肌触りを感じながら、悪い女ではなさそうだな、と思っていた。そして暖炉の脇に横になると、毛布を引っかぶって眠った。くたくたに疲れていたから、あっという間に眠りに落ちた。

 朝起きると、暖炉の火は消え女はいなくなっていた。板の間に直に横になったせいで背中が痛んだが、少なくとも凍えずには済んだ。

 宿を借りた礼をしなければ。

 レヴィルはふらつく頭を励まし励ましそう考えると、表へ出て女の姿を探した。しかし深い山の樹々やそれに降り積もる雪は見えても、女はどこにもいそうにもない。これは、帰って来るのを待った方がいいなと思い直し、レヴィルはもう一度小屋のなかに入った。

 明るくなって内部を見渡すと、小さい割に広い場所だということがわかった。テーブルも女が一人で暮らしているとは思えないほど大きいし、台所も水道がついている。本当に一人なのかな、と邪推する程度には、広い室内であった。

 きゅる、と腹が鳴る情けない音がして、レヴィルはそこへ手をやった。腹減ったな。麓までは、どれくらいなのだろう。早く本隊と合流しなければ。

 どこへ行ったのだろう、帰ってこないのかな、そんなことを思うくらいには、女は戻ってこなかった。時間だけがのろのろと過ぎ、太陽が正午辺りの場所に移動した頃、女はようやく帰ってきた。彼女は扉を開けるとまだレヴィルがいることにちょっと驚いたように動きを止め、まだいたのかいと口のなかで小さく呟いた。

「帰ってきたな。なにか用事はないのか。なんでもいい、手伝わせてくれ」

「いらないよ」

 相変わらず、女の言葉はつれなかった。レヴィルは女に歩み寄った。

「そんなことを言わないでくれ。助けてもらって礼もせずに帰ったなんて知られたら、お袋にも親父にもどやされちまう。受けた恩は返さなくちゃならない」

「いいってば」

 女はいらいらとした口調で言い返した。レヴィルは太陽の光の下で彼女を観察してみた。

 ゆうべ闇のなかで光ったのは、この銀の髪とみえる。まるで山奥の秘め滝のような、そんな艶やかな色をしていて、レヴィルはこんな見事な銀髪はお目にかかったことがないな、とちらりと考えた。それに、目も青い。こんな青は、見たことがなかった。深い深い海のような、それでいて黒くなったりはしない、あくまで青さを主張する青い瞳。つややかな声からしてもっと年のいった、中年の女を想像していたが、肌を見てみるとまだ十代だろう。おおきなおおきな目が、いかにも迷惑そうにこちらを見ている。そのうすい唇からは、今のところ親切な言葉は出てきていない。

「いいから早く帰んな」

 女は尚も言った。

「薪を作るとか、なんか力仕事はないのか。女の一人暮らししじゃ、手が足りてないだろう。手伝うよ」

「いらない」

 相変わらず返事は素っ気ない。

「なんかないのか」

「ないよ」

 女は、薬草でも採ってきたのか、持っていた草の束をどさりとテーブルの上に置いた。

「これはなんだ? 洗浄でもするのか? 薬草ならちょっと詳しいぞ。ちっちゃい頃はよくあいつと薬草の洗浄をやったものさ」

 それを聞いて、女の態度が微妙に変わった。

「あいつ?」

「ああ。将来を誓った仲なんだ」

「……」

 レヴィルは女の態度が変わったことなど気が付きもしないで、テーブルの上の薬草をしげしげと見ている。

「これはなんという薬草だ? 見たことがない」

 女はどう言っても帰ろうとしないレヴィルの態度に、どうやら本当になにか頼まないと帰ってくれないようだとわかってきて、ふうとため息をついた。

「仕方ないね。薪は足りてる。こっちでこれを選別しておくれ」

 レヴィルは椅子を示されるとそこに座り、女が見本を見せると心得たとばかりに薬草を選別し始めた。

「あんた、名前はなんていうんだ」

「言わないよ」

「そうか」

 慣れてきたのか、レヴィルはなんとも思っていないようである。

「俺はレヴィル」

「言ったところで覚えないんだ。余計なことを言うんじゃない」

 女は台所でなにかを煮始めている。レヴィルはその横顔を見てふふ、と笑って、それから黙って薬草を選ぶ作業に没頭した。

 なにも言いたくないのかそれとも単に無口なのか、女は一言も口をきこうとしなかった。 レヴィルも特にそれを気にしたりせず、黙って作業を進めた。

 山のような量の薬草を選別し終えると、レヴィルは顔を上げた。

「終わったかい。じゃあもういいよ。さようなら」

 女はそれを待っていたかのようにつれない言葉で言うと、振り向きもせずに鍋の中身をかき回している手を休めない。

「……」

 あまりの素っ気なさにレヴィルが呆気に取られていると、

「まだいるつもりかい」

 と振り向いて言うので、レヴィルは簡単な挨拶の言葉を述べて立ち上がり、荷物を持って表に出た。

 太陽の位置があそこだから、南はあっちか。

 だいたいの位置を確認すると、歩き始めた。

 一刻も歩いただろうか。山の風景が変わってきたな、と思う頃、あちらで呻き声がした。 レヴィルはちょっと警戒して腰の剣に手をやり、そろそろとそちらへ歩み寄った。

「――」

 男がそこに、倒れていた。白い雪の上に、血だまりが出来ている。

「どうした。しっかりしろ」

 レヴィルは男の方へ駆け寄ると、上着を裂いて出血している足を縛った。

「どうしたんだ」

「獣用の毒の罠にかかって……歩けなくて」

「近くに集落はあるか」

「歩いて二刻ほどの場所に村がある」

 そんなに遠いのか。雪に足を取られ、足を引きずるこの男を連れて行くのには、それでは間に合わないだろう。レヴィルは一瞬で考えた。そして男に肩を貸すと、来た道を引き返し始めた。

「――どこに行くんだ」

 男は痛みに喘ぎながらも、山を登っていくので訝しく思ったようだ。

「ああは言っても人助けだ。なにかしてくれるだろう」

 あの女の迷惑そうな顔が浮かんだ。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。 怪我人と共にいるからでろうか、道は来た時よりも長く感じられた。肩にかかる、男の身体が重くなってきてそろそろ限界、という時になって、レヴィルはあの山小屋を見た。

「あそこだ」

 呟くと、勇み足で歩いた。疲れなど、どこかへ行ってしまっていた。

 乱暴に扉を叩くと、返事を待たずにそれを開けた。

「――なんだいあんたたちは」

 運のいいことに、女はまだなかにいた。

「怪我人なんだ。毒にやられてる」

 レヴィルは男をなかに入れ、テーブルの上のものをどけて彼をそこに横たわらせた。

「あんた、薬草をあれだけ採るってことは、医術の心得があるんだろ。助けてやってくれよ」

「なんでそんなこと……」

「早く手当てしないと、死んじまう」

 女は男の傷口を見た。血の色のはずの赤は消えてなくなり、どす黒くなっている。女が舌打ちした。

「毒が回ってる。助からないよ」

「診もしないでなんだ」

「わかるのさ。見なよ」

 女が顎で示すので、レヴィルは男の顔を見た。熱でもあるのか、脂汗をかいている。顔が真っ赤で、息も荒い。

「タリスの毒だ。獣用に使う。運が悪かったと思って諦めるんだね」

「そんな……」

 女が背を向けたので、レヴィルは顔を上げた。

「タリスの毒なら俺も知ってる。何人も見たことがある。こいつはまだ助かる」

「じゃああんたが助けてやればいいだろ」

「ここでやる以外に方法がないんだ。頼む」

 女とレヴィルが睨み合った。それは、長く続いた。

 一刻にも瞬きの数回にも思えるほどの間、二人は見つめ合っていた。その時怪我人がテーブルの上で大きな呻き声を出して、それでレヴィルはそちらへ目を向けた。

「どうした。大丈夫か」

 そして怪我人の近くへ近寄ると、その手を取った。身体が火のように熱くなっていた。

「身体に回った毒を、熱で逃がそうとしてるんだ」

 女が近くに来て言った。

「――助からないのか」

「手だてはある」

 女は呟くと、台所に行って戸棚を開けた。そして小瓶をいくつか取り出すと、ぶつぶつと何事か言いながらそれらを調合し始めた。

「お湯を沸かして」

 怒鳴られて、レヴィルはおのれを指差した。

「あんたの他に誰がいるんだ。早く」

 もう一度怒鳴られて、レヴィルは矢が解き放たれたように動いた。そして鍋に水を入れると、それを炉に置いて火をつけた。

「医術の心得はあるのかい」

「村のお婆の手伝いをした程度だ」

「なら使えない」

 女はそう言うと、小刀を抜いて怪我人に歩み寄り、その傷口に刀を当てた。

 男が大きく叫び、そこから逃げようともがいた。

「押さえて。傷口から毒を吸いだす」

 レヴィルは暴れる男を押さえつけた。女は傷口を抉ってしまうと、自らそこに口をつけて吸いだした。と思うと、すぐに吸いだした血を床にぺっと吐き出した。どす黒いものが、そこに落ちた。

「毒が回ってる」

「助かるか」

「わからない」

 女は台床へ行って調合していたものを酒と混ぜると、男の口を押さえてそれを飲ませた。 ぐはっ、と悲鳴を上げて、男が暴れる。女がその口を押さえた。

「我慢して飲むんだ。死んじまうよ」

 男はもう、意識がない。

「ミワの実はわかるかい」

 ああ、とレヴィルがこたえると、女はそれを持って来るよう言った。レヴィルは台所へ行ってミワの実を探し、ついでにそこに置かれていた白い布も持って行った。女はすり潰したミワの実を傷口に当て、布で縛ると、

「忙しくなるよ」

 と呟いた。それを裏付けるかのように、しばらくすると男が苦しみ始めた。全身の毒を出そうと、肉体がもがいているのである。

「酒を。強いやつ」

「ヒグリの干したのが軒下にある。取ってきて」

「グリンダを砕いて、持ってきて」

 女はてきぱきとレヴィルに言いつけ、自分は男から目を離さずに処置を施していった。「アレスの血を取ってきて」

「……」

 レヴィルはちらりと女を盗み見た。白い、端正な顔は一心に怪我人に向けられている。 ひとしきりして、呻き声も小さくなり怪我人から汗が引いてきた。苦しそうだった呼吸はいつしか和らぎ、熱は相変わらずあるものの、真っ青だった顔に血の気が蘇ってきた。

「もう大丈夫だろう」

 気が付いたら、外はもう暗くなっていた。しかし、そんなことは気にもせず、レヴィルはふう、とため息をついた女の背中に言った。

「あんた、魔導師だな?」

 女が、硬直した。

「アレスの血とは別名スベリヒユのことだ。そんなものをアレスの血と呼ぶのは、魔導師だけだ」

「――」

「幼馴染に魔導師がいてね。そういうことにはちょっと詳しいんだ」

 女が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 その瞬間――

 閃光が辺りをまばゆく照らし上げ、そのあまりのまぶしさに、レヴィルは目を開けていられなくなった。

 気が付いた時、レヴィルは柱に後ろ手で縛られていた。ふらつく頭を励まして顔を上げると、気配を感じて女がこちらを向いた。

「気が付いたかい」

 女はこちらに静かに歩み寄った。そして屈みこんでレヴィルを見つめると、

「しくじったね。まさかあんなことからばれるとは思ってもみなかった」

 まだ頭がぼーっとする。レヴィルは頭を小さく振った。

「あの怪我人も難儀だね。せっかく毒の傷から助かったのに、ここで焼け死ぬなんて」

「……焼け……?」

「そう。焼け死ぬの。あんたと」

 次第に頭がはっきりしてきて、事態を飲みこんでレヴィルは立ち上がろうとした。しかし、縄はぴっちりと自分を縛っていて到底立ち上がれそうにもない。

「ここも長かったけどね。まあ、後腐れなくいなくなるなら、燃えるのが一番」

「ま……待ってくれ」

 女が室内に油を撒き始めた。テーブルに、そこに横たわる怪我人に、台所に。

「あんた、どこに逃げるつもりなんだ」

「さあね。言ったところであんたはどのみち死ぬんだ。教えないよ」

「俺も連れて行ってくれ」

 女が手を止め、こちらを振り向いた。

「帝国の魔導師狩りから、幼馴染を庇って逃がした。俺はあんたの味方だ。幼馴染とは将来を誓いあっている。隣国へ逃げたはずだ。このまま俺も一緒に連れて行ってくれ」

「それで私が隙を見せたら私の首を取って、帝に献上するんだろう?」

 女が妖しく笑った。

「平和に暮らす私たちを迫害し、追い詰めて殺した帝国の兵士の言うことなんて誰が聞くもんか。あんたはここで死ぬんだよ。幼馴染の名を言いな。あんたは死んだって伝えてやればそのも後腐れなく他の男と一緒になれるだろうよ」

「待てったら」

「待たないよ」

 女はつれなく言い放ち、そして暖炉から火種を取り出すと、小屋のあちこちに火をつけ始めた。ごお、という音と共に、火はあっという間に燃え広がった。

「じゃあね」

 女が荷物をまとめ入り口から出て行くのを、レヴィルは信じられない気持ちで見つめていた。

「くそっ」

 火が、こちらまで来た。縄は腕に食い込み、ほどけない。火があちこちに回って行き、炎に照らされる顔が熱くなってきた。ごうごうと燃え始めた山小屋のなかで、レヴィルは無力だった。なんとか逃げようともがくが、女の手で縛られたとは思えないほどきつく、縄は締められていた。

 ゴオ……

 低く呻いた。身体が熱くなってくる。火はもう、目の前だ。

「ううううう」

 ここまでか、と観念した。


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