Alones

 合鍵を使ってドアを開ける。ぎい、と少し軋む音がしてからゆっくりとドアが開いた。部屋の中に明かりはない。土曜日の午前11時。


「チサ?いるの?」


 部屋の主の名を呼ぶ。今週一度も大学に姿を見せなかった彼女。LINEの既読すら付けなかった彼女。


 1DKの廊下を進み、リビング兼寝室のドアを開ける。締め切られたカーテン、散乱したペットボトルと使い捨てトレー。


「チサ?」


 ベッドの布団の膨らんでいるところに向かって声を掛ける。薄暗い部屋の中で布団がもぞもぞと動き、顔がのぞいた。


「ユウリ…?なんで…?」


 枯れた声で私の名を呼ぶ。


「なんでって。1週間も学校来なかったし既読もつかないし、本気で生きてるのか心配してたんだからね」


 私はバッグを下ろす場所を探しながらそう言う。


「ああ…既読は、ごめん。スマホ見れなくてさ」


 へへっと力なく笑う。明らかに様子がおかしい。あっけらかんとした変わり者で、いつも私を振り回すチサはどこに行ってしまったのだろう。


「なにか、あった?」


「や、別に。これはただ体の内側の問題でさ」


 もしかして本当に具合が悪かったのだろうか。だとしたら今週ずっと寝込んでいたってこと?


「脳内の神経伝達物質のバランスが乱れて、それと連動した自律神経失調からくる気分の障害…だから、ただそれだけだから、別に心配しなくていいよ…」


 久しぶりに声を発したようなおぼつかない調子で言った。ばか。それってうつ状態ってことじゃん。


 センターテーブルの周囲に散乱したペットボトルの上にバッグを投げ捨てると、私はベッドの横、チサの顔のすぐ前で膝をついた。


「心配するに決まってる!具合が悪いならそう言って欲しかったよ!」


「ただのセロトニンとノルアドレナリンとドーパミン不足なんだよ。そんなに大事じゃないって」


「ばか!なんでそんなに他人事みたいに言うの?めちゃくちゃ具合が悪いんじゃん!」


 部屋を見ればわかる。ピカピカとまでは行かないけれど、ある程度は整理整頓されていた部屋。それがこんなに荒れるなんて。


 ばか。ほんとにばかだ。なんで気付けなかったんだろう。最後に別れたときの表情とか、もっとそういうところに気を配っておけばよかった。


「ユウリ、わかった。わかったから泣かないで」


 いつの間にか私は涙を流していた。チサに言われてもそれは止まる気配がない。


「ごめん、ばかとか言って。しんどいのはチサなのに」


 下を向く。視界が涙でゆらゆらとゆらめいて、それから雫になってぽたりと膝に落ちる。


 ふと、ベッドから伸びた手が私の頭を撫で始めた。


「謝るのは私のほうだよ。心配かけてごめんね」


 チサの声は相変わらず枯れていて、振り絞って話しているように感じる。


「ユウリ」


 ぼろぼろになった彼女が、私の名を呼ぶ。両の腕を伸ばして、私を抱きしめる。その力の弱々しさにまた涙があふれる。


 元気があるのはいいことだけど、元気がなくても、どれだけぼろぼろになっても、私はあなたの一番近くにいたい。これはエゴだ。でも、だからこそ、貫き通してやると決めた。


 チサを抱きしめ返す。もともと細い体がもう折れそうだ。


 時間も空間も傾いでいるこの部屋で、確かにあるのは二人分の命。片方は今にも消えそう。だけどまだ生きている。


「私はどこにもいかない。独りにしないよ」


 そう囁いた。チサが頷く。髪が私の頬を擦る。


 独りじゃない。私も、あなたも、独りじゃない。息をするので精一杯でも、息をすることすらつらくなってしまったとしても、私たちはまだ生きている。その事実が一番大切なんだ。生きて、生きて、生き延びて、納得できるまで生き抜くんだ。


 だから私はあなたを独りにしない。握った手を、決して離しはしない。

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