Spring song
「人間の脳が発する意識場が発見されてから60年、意識場同士の干渉現象である『共感』が実用段階になり、公衆衛生の観点からこの国の医療に組み込まれたのが、今から40年ほど前。今では多くの病院で医療共感が運用されています」
教科書のタイトルは「精神物理学」。ほんと退屈。そんな背景知識なんて常識みたいなもので、私が知りたいこととは決定的にズレている。まあ、新学期だし、どうせ周りのみんなは何も知らないんだろうし、しょうがないか。
共感。この社会においてそれは人の心のあり方を確実に変えた。脳の発する意識場同士を同調させることで、相手の精神の内部に入り込む。つまるところ、目には見えないはずの心を可視化したのだ。
教師――すでに名前を覚えるのを諦めた彼は、相変わらず歴史について語る。精神物理学の授業ならさっさと名前通り、理論とかの話をしてくれないかな。
もういいや。めんどくさい。
「先生」
手を上げる。
「
「体調が優れないので保健室に行きたいんですが」
教師は保健委員の子に、私に付き添うように声をかけた。
「いえ、大丈夫です。一人で行けます」
そう言って席を立つと、教室の引き戸を開けて廊下に出る。具合が悪いなんて嘘だ。だから私がこれから行くのは保健室じゃない。
校舎の最上階、西の角の階段を上がる。誰もいない。たん、たん、と階段を踏み上がる私の靴音だけがコンクリートの壁に反響する。やがて現れたのは屋上につながる扉。ドアノブをひねると、案の定簡単に開いた。
「エリ、なにやってんの」
先客に声をかける。
「んー?天気がいいからさ、もったいないなって思って」
桜もきれいだしね、と付け加えた。フェンスに掴まりながら、顔だけ後ろにそらして私を見る。私はため息ひとつ、エリのいるフェンスまで歩くと、腰をおろした。
「で、あんたはなんの授業だったの」
「古文!」
「さぼってるくせにそんな元気に答えるな」
いや、今のは私にも言えることだった。
「そういうユキナちゃんはどうしたのかな?」
エリが私をちゃん付けで呼ぶときは、大体からかっている。私は知ってる。
「精神物理学。なのに歴史の話しかしなくてつまんなかったから」
「あー、ユキナは共感医志望だもんねえ。そりゃ物足りないか」
そう言うとエリはフェンスを掴んでいた手を離し、私の隣に座った。
「私さ、ずっと不思議なんだけど、人の心の中に入るってどんな感じなんだろうね」
「共感のこと?私だって知らないよ。あいにく共感医の世話になったこともないし」
空が青い。春の空。遠くの飛行機雲の先は、もう見えない。
「じゃあさ」
そういうと突然エリが手を絡めてきた。その手を顔の高さまで上げて言う。一瞬、ほんとうに一瞬だけ、どきっとした。
「こうしたら心に入れたりするのかな」
「生身じゃ無理。意識場は微弱だから機械で増幅して同調させなきゃいけないんだっての」
「おお、さすがユキナ」
そう言って手を下ろす。指は絡めたままだ。別に振りほどいてもよかったけど、なんとなくそのままにしている。
人の心に入るってどんなことなのか。エリの問いは私の求める問いでもあった。心に入るということは、その人間の感情や意識を読み取ることだ。そんなむき出しの本心と対峙するって、ほんとどういうことなんだろう。
隣を見れば、あくびをしながらグラウンドの桜を眺めるエリの顔。この世界には心を見る技術がある。でもこの子の心を今の私が見ることはできない。経験的に推測することしか、できないんだ。グラウンドに視線を戻す。少し強めの風に、砂と桜の花びらが巻き上げられて飛んでいった。
エリはなんで手を繋いだんだろう。共感の真似事をしたかったから?それとも単純に私と手を繋ぎたかったから?
私はなんで手を離さずにいるんだろう。エリを傷つけたくないから?不快じゃないから?それとも嫌われたくないから?
ほんと馬鹿みたい。自分の心のことだってわからないのに。
「ユキナ」
呼ばれて振り向くと頬を指で突かれた。
「なにすんの」
「また難しそうな顔してたから」
エリがいたずらっぽい笑顔で答える。
「じゃあさ、じゃあさ」
繋いだ手と反対の手で、私の頭を抱えるとゆっくり自分の頭に近づけてきた。そのままおでこ同士が触れ合う。
「こうしたら、ユキナの心に入れたりするかな」
吐息がかかる距離。さっきまでの溌剌とした声から一変、いたずらっぽさはそのまま、ひそひそ声で言う。エリの目がまっすぐ私を見ている。きれいな瞳。
「わかんない、よ…そんなの」
思わず目を逸してしまう。
「いつかさ、ユキナと心の中で話がしたいんだ」
エリはそう言いながら、私文系だけどね、と笑った。
「だからユキナは夢を叶えて。私はいつまでも待ってるから」
頬に柔らかなものが触れる感触がした。驚く私をよそに、エリはいつもの調子でじゃあねえ、と言いながら屋上を去った。私はしばらく動けずに、馬鹿みたいに頬を撫でていた。
◆
「UNIT-R、UNIT-H、相互接続完了。プロトコール予定領域に投錨。先生、いつでも大丈夫です」
「了解。始めましょう」
UNIT-Hと呼ばれた椅子型の機器に身を預けた私は、手元のパネルを操作して術式を開始する。
視界が左右から引っ張られるような感覚。世界が魚眼レンズみたいに歪んで、ぷつりと途絶えた。切り替わった意識が捉えたのは、壁も床も一面真っ白な部屋。ふたつの意識の接点とされる空間だ。
向かい側にはもうひとりの姿。あの頃、いたずらっぽく笑っていた顔を、私は一度たりとも忘れたことはない。あの日、繋いだ手を、合わせた額を、頬に感じた感触を、決して忘れてはいない。
「はじめるよ。いいね」
こくりと頷く。言葉はない。だが意思に呼応して彼女の後ろに扉が現れた。その先が彼女の精神に繋がっている。
私はゆっくりと歩みを進め、彼女のところまで行くと、その手を握った。
「行こう。私があなたを助けてみせるから」
そのまま白いドアを開け放つ。その自分の姿が、屋上のドアを開け放ったあの日と重なる。桜の花びらがひとひら、風に吹かれていった。そんな気がした。
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