愛ゆえに

 ふう、と息を吐き出し、気持ちを落ち着かせる。ユリウスも諦めたのか、何も言ってこなくなった。かと思えば「エル」と名を呼ばれたため、顔は動かさずに視線だけを彼に向ける。

 どこか悲しげな表情を浮かべているユリウス。今回に限ってはエルが悪いため、その表情を見ていると胸が痛む。


「もうあの話はしない。別の話にする。だから、俺のことを無視しないでほしい」

「わ……わかりました。すみません」

「よ、よし。ならば、何の話をする? ああ、そうだ。エルは俺のことを訊きたかったのではないか?」


 そうだった。フェリクスから粗方教えてもらってはいるが、ユリウスから直接訊きたかったのだ。

 この話を振ってくれたのはありがたいが、机の上に放置したままになっている公務はいいのだろうか。ユリウス本人は気にしていないようで「ワクワク」と言った言葉がよく似合う表情をしており、エルからの質問を待っている。

 本人が気にしていないのならいいか、とエルは「では」と口を開いた。まずは、ここへ来てからずっと気になっていることを訊く。


「どうして、わたしとわたし以外の人の前では、態度が違うのでしょうか」

「エルの前にいる俺は、アウレア王国の王としてではなく、ユリウス・ジークヴァルト・アウレア自身だからな」

「それは、何か理由があるのですか?」

「アウレア王国の王としてエルに惚れたのではなく、俺個人が惚れたんだ。王として振る舞う必要なんてない」

「……そう、ですか」


 手に持っていた花を新聞紙に挟み、目の細かい紙を置く。その際にユリウスの様子を窺うも、彼は平然としていた。


(この人には、羞恥心とかないのかしら)


 エルがあのようなことを言えば、またしても鼓動がうるさいほどに速くなっていたに違いない。一体、何が違うのか。

 考えても、今はわからない。気持ちを切り替え、新しく花を一つ手にしながら次の質問を口にする。


「フェリクス王から、ある程度のことはお聞きしました。ユリウスは、アウレア王国の在り方を変えたと。それは、歴代の王達のやり方が気に入らなかったからでしょうか」

「国が民を切り捨てるなど、あってはならないことだ。民がいなければ、国は成り立たないのだから」

「……そうですね。そのとおりだと思います」

「だが、歴代の王達の行いにより、アウレアは気が滅入るほど暗く、寂しい国だった。いつ切り捨てられるかという不安に駆られていたのだろうな。そこで、何でもいい、国のために働けと命じた」


 それは本当に何でもいいんだ、とユリウスは話した。

 服を作ることでも、靴を作ることでも、料理を提供することでも、何でも。街の美化活動でもいい。

 立ち止まることだけはしてくれるなと。


「毎月報告書を提出させ、見合った報酬を渡している。民にとっては、アイデンティティのようなものだろう。結果、アウレアは活気を取り戻すことができた」


 切り捨てられる心配もなくなり、民はより国のために尽くす。尽くせば尽くすほど国から認められるばかりか、ひいては民のためにもなる。それがあの活気だ。

 経済も回り、一定の税金も入ってくる。ユリウスの改革は、国にとっても、民にとっても良いものだ。


(……クラルスも、こうあれば)


 両親に期待はできない。兄のレオンハルトであれば。

 しかし、彼は変えようとしないだろう。何事も、自分が楽な方を選ぶところがある。


「冷酷非道の王、死と隣り合わせの国……そう聞いていましたが、本当に噂は噂でしかありませんね」

「死と隣り合わせの国、というのは以前の話だろうが、冷酷非道というのはあながち間違いではない」

「え? ですが、ユリウスがされていることは、歴代の王達とは」

「自国の民を切り捨ててはいないだけだ。国や民を危機に陥れようとするもの、俺の大切なものを傷つけるもの、傷つけようとするもの……それらを俺は許さない。徹底的に潰すと決めている」


 いつもより低い声に、背筋がぞくりとした。こうして、作業をしながらの会話でよかったと心底思う。彼の顔を見なくて済むからだ。

 エルが標本にしようとしている花は、フロース王国との交易で仕入れたものだと言っていた。そのフロース王国も、アウレア王国に戦争を仕掛けた国の一つ。本来であれば、徹底的に潰され、国がなくなっていたのだろう。

 ──つまり、アウレア王国に戦争を仕掛け、返り討ちに遭いながらも交易に進めた国は幸運だということだ。


(元々、アウレア王国の軍事力は世界一を誇る上に、一夜で国を滅ぼすと言われていた。それは、噂ではなく……)


 ふと、あることを思い出した。

 攻撃をしたわけではない。宣戦布告はしたものの、エルが売られたことで和解した。

 けれど、ユリウスはエルが受けていた仕打ちを許していない。エルを縛るあの国を許したわけではない。


「ここまで話をしてわかっただろう。以前、エルには止められたが、俺は今すぐにでもクラルスを潰したいと思っている」

「ユリウス……」

「とはいえ、あんな国でもエルの母国だ。エルは、どうしたい?」


 花を机に置き、エルは顔を俯けて両手を膝の上で握り締めた。


「……本音を言えば、手を差し伸べてほしいです。民達は、きっと……今も、苦しんでいるはずですから」

「差し伸べたところで、国が変わらなければ同じだが」


 そう、国が変わらなければ何も変わらない。

 ユリウスが手を差し伸べてくれたとしても、根本的な部分が変わらなければ民の苦しみは続く。


「変われるかどうか、チャンスを与えに行くか」


 エルの両手に、ユリウスが手を置く。その手は、今の彼の心を表しているかのように薄ら寒い。


「チャンス、ですか?」

「ああ。それで、どうしようもないほどに腐っていれば滅ぼしてしまおう。エルの頭の片隅には今もクラルスのことがあるだろう? 滅ぼせば、もうクラルスのことを何も考えなくて済む。その分、俺のことを考えてくれればいい」

「……っ、ユリウス、それは」

「正直、エルを悩ませる存在も疎ましいんだ。悩むのなら、俺のことで悩むべきだというのに」


 話している内容は冷酷なのに、エルに言い聞かせるかのように声が優しく、それがまた不気味だ。

 クラルス王国が変わろうとしなければ、間違いなくユリウスは滅ぼすために動き始める。徹底的に、無慈悲に。

 それでも、とエルは両手を握る力を強くする。

 これは途轍もない賭けだが、クラルス王国が変わるきっかけになるかもしれない。その可能性が、ほんの僅かだとしても。


「わかりました。もし、クラルスに行くのであれば、わたしも行っていいでしょうか」

「もちろんそのつもりだ。エルも、言いたいことがあるだろう」

「……はい」

「あの肥え太った王の耳には何も入らないだろうが……俺に交渉を持ち掛けてきたエルの兄は、まだ見所があると思っている」


 俺の見当違いでなければいいが、とユリウスは鼻で笑った。


「よし、早速調整に入るか」


 ユリウスの手が離れ、彼は立ち上がって机へと向かった。公務のスケジュールなどを確認しているようだ。

 ソファーの背もたれに背を預け、エルは小さく息を吐き出す。他愛のない話になるはずが、まさかこのような展開になるとは。

 ──両親はともかく、レオンハルトには話を聞いてもらいたい。そして、変わってほしい。民のことを考えられる人へと。民が幸せに過ごせる国へと。

 人は変わることができる。実際、エル自身も変わりつつある──ような気がしている。何しろ、笑うことができるようになってきたのだから。


(……それにしても、ユリウスの独占欲は底なしだわ)


 エルのすべてがほしいと言っていたが、彼の言う「」とは、どこまでのことを指すのだろうか。

 そういえば、フェリクスと二人きりで話したときも、どれだけの時間を共に過ごしたかをしっかりと把握していた。その時間は、本来であればユリウスがエルと過ごすはずだった時間だと。

 ──大変な人に愛されている。今になって思い知るも、何故か口元が綻ぶエルだった。

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