すべてが好き。すべてがほしい。
いつもの日々が戻った。
ユリウスは大量の報告書に目を通し、判子を押している。一定の速度で行われる作業の音を聞きながら、エルは彼から薦められた本を読んでいた。
そこに混ざり込む扉を叩く音。エルが返事をする前にユリウスが「何だ」と言葉をかけた。
「ユリウス王、仰せつかりました品物をお持ちしました」
早いな、とユリウスは手にしていた報告書を雑に置き、扉へと一直線に向かう。使用人から何かを受け取ると「エル」と名を呼ばれた。
顔を上げると、目の前に差し出されたのは大きな花束。これはどうしたのかとユリウスを見ると、彼は顔を赤く染めながら目を瞑っていた。
「……っ、こ、これは、先日の件についての心ばかりの品物だ。受け取って、もらえるだろうか」
「あ、ありがとうございます」
先日の件とは、おそらく強引にしたキスのことを言っているのだろう。
(嫌ではなかったと言ったのに……律儀な人)
花束をもらうのは初めてだ。それも、こんなにも大きな花束。受け取るとエルは軽く抱きしめ、色とりどりの花に軽く顔を埋めた。花の優しく甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、気分が良くなる。
その様子を見ていたユリウスから、薄気味悪い笑い声が漏れる。彼はふにゃりと表情を崩して笑っていた。アルベルトやフェリクス王が見れば、きっと驚くだろう。
「ふ、ふふ、笑っている。エルの笑顔はいいな、癒やしの効果がある。ずっと見ていたい。保存したい」
「……また意味のわからないことを」
それよりも、とエルは花束に視線を戻す。
本当に素敵な花束だ。花達の可愛らしくも凜とした姿に、自然とエルの背筋も伸びる。
「あ、この花」
よく見ると、この辺りでは咲かない花もある。どうやって手に入れたのだろうか。
「気が付いたか、さすがだな。その花束はフロース王国から交易で仕入れた花で作ってもらったものだ」
「交易は、リートレ王国だけではなかったのですね」
「まだまだコミュニティの範囲は狭いが、他にも交易をしている国はあるぞ」
戦争を仕掛けてきた連中ばかりだが、とユリウスはやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
そこからどのようにして交易をするきっかけになったのかはわからないが、口ぶりからして今はうまくいっているのだろう。寧ろ、リートレ王国のように対話から始まることのほうが珍しいのかもしれない。
「花束を持っているエルも見ていて飽きないが、ずっとそうしているわけにもいかない。花瓶を用意させよう」
花瓶では、せいぜい一週間から十日ほどで枯れてしまう。せっかくもらった花束だ、長く残していたい。
「あの、一部はおし葉標本にしてもいいですか?」
「おし葉標本?」
「ハーバリウムというところでは、植物を標本にしていると本で読みました。素人なのでうまくいくかはわからないのですが、少しでも長く、この花達を残しておきたくて」
「枯れるのが気になるのであれば、毎日花を贈るが」
そうではなくて、とエルは首を横に振った。
「今日、ユリウスからもらったこの花を、大切にしたいのです」
「……っ、エル、抱きしめても……?」
「それはまた今度で」
さらりと受け流し、エルは必要なものを使用人達に頼んだ。
幼い頃に一度読んだだけの本の知識。うろ覚えだが、素敵だと思ったことだけは覚えている。
さて、とエルは袖を捲った。
目の前にあるのは、使用人達に頼んで用意してもらった新聞紙。目の細かい紙。こんなものどこにあったのか、重しにできそうな鉛の塊。標本を貼り付ける台紙もいるが、それは完成してからでいい。
花を一つ手に取り、新聞紙の間にはみ出さないように置く。そうして花を挟んだ新聞紙の上には目の細かい紙を置き、更にその上には新しい新聞紙を置いた。そして、またその新聞紙の間に花を挟む。目の細かい紙を置いて──と、最初はこの作業の繰り返しだったはず。エルは思い出しながらゆっくり進めていく。
「楽しいか?」
「え?」
作業を横で眺めていたユリウスが声をかけてきた。手を止め彼を見ると、顔を赤く染め、目を逸らされる。
「いや、笑みを浮かべていたから」
「……楽しい。そうですね、楽しいです」
「そうか。ここへ来てから、随分と感情が豊かになった。笑顔なんて最高だな。ずっと見ていられる」
「は、はあ」
返答に困ると思いつつ、作業に戻る。ユリウスは何かを話すことなく、また、自身の公務に戻ることもなく。ただただ、じっとエルを見ている。
最初は集中していたものの、段々とその視線が気になってきた。身体がそわそわとし始め、作業に身が入らない。
「……ユリウス、そうして見ていられると、集中が」
「駄目か? 俺はエルの一挙一動を少しでも見逃したくないのだが」
「どうして、そこまで?」
「エルが好きで好きで、たまらないからだ」
その言葉に手を止め、エルはユリウスを見る。彼はまたしても顔を赤く染めるも、目を逸らさずに向き合った。
「書類に目を通しながらでも見ているのを知らないだろう」
顔を真っ赤に染めたまま、口角を上げた。
本を読んでいるとき、展開に驚いたり悲しんだりしている様子もしっかり見ていると自慢げに話す。
そんなに顔に出ていたことにも驚いたが、何より──。
「なっ、何故そんなに見ているのですか」
「エルのすべてを目に焼き付けておきたいからだ。一秒たりとも、俺の知らないエルを見逃したくない」
「……っ」
「日々、エルを知るたびに想いが募り、欲が膨らんでいく。見ていたい。触れたい。話したい。触れたい」
触れたいが二回あったが、と思いつつも、口にはせず。
すると、ユリウスの右手が伸びてきてエルの左頬に触れた。壊れ物に触れるかのように、少しぎこちないが、優しく。
「エメラルドグリーンの瞳。通った鼻筋。薄く小さな赤い唇。陶器のように白くなめらかな肌。絹のようにしなやかな銀色の髪。芯のある心。エルのすべてが好きだ。エルのすべてがほしい」
だからこそ、とユリウスはエルの頬から手を離し、目を伏せた。
「本当に、すまなかった。嫉妬で我を忘れ、強引に……情けない。都合がいいことを言って申し訳ないが、あれはなかったことに」
「しません」
つい強めに言ってしまった。ユリウスも目を見開いて驚いている。
だが、あのキスをなかったことになどしたくなかった。自分でも不思議に思っているが、あのキスは嫌ではなかったのだ。
「……嫌だとは思わなかったと、言ったではありませんか」
「しかし、あんなやり方で」
「なかったことにはしません」
「エル、そこまで言われると……さすがに俺も期待してしまう。いいんだな」
ユリウスの赤い瞳が熱を帯びる。
火傷しそうなほどの熱。苦しいほどに胸を締め付けるこの熱を、エルは知っている。
「本当に、嫌ではなかったのです……自分でも、わかりませんが」
「もとより、キスという行為そのものが嫌ではないということか?」
「それは語弊があります。わたしは、誰とでもキスをしたいとは思いませ……ん……」
そこではたと気付く。気付いてからは、段々と声が小さくなっていった。
この言い方では、まるでユリウスとのキスだからこそ嫌ではなかったと、そういうことになる。
──いや、間違いではない。
誰とでもキスをしたいわけではない。されたいわけでもない。ユリウスだからこそ、とふと彼に意識を向ければ、得意げな顔でこちらを見ていた。
何故だろうか。この顔を見ていると、これ以上見てほしくないという気持ちが込み上げてくる。
「……この話は終わりです」
「お、おい、エル! いいところではないか!」
きっと、これは恥ずかしいという感情だ。羞恥心というものだ。話を無理矢理に打ち切り、エルは作業に戻る。
(顔が、熱い)
ユリウスが呼びかけてくるが「別の話にしてください」と顔も見ずにはねつけ、それ以降は無視を決め込んだ。
わかっている、ユリウスはエルが答えを出せるようにあのようなことを投げかけてきたのだと。そして、エルは答えに辿り着いた。
ユリウスだからこそ、あのような強引なキスでも嫌ではなかったのだと。
これは、どういうことなのだろうか。わからない。けれど、この答えが間違っているとは思わない。
花を持つ手が震える。思うように作業が進まない。鼓動が速く、うるさい。
(……何だか、自分じゃないみたい)
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