この人の傍

 エルは焼きたてのパンを一つ手に取り、小さく千切る。そこにバターを塗り、自身の口に持っていくことはなく、ユリウスへ差し出した。


「た……食べさせてはくれないのか」

「では、こちらを向いて口を開けてくれますか?」


 今、ユリウスはエルの隣に座ってはいるものの、目を合わせないよう顔を真正面に向けている。食べさせてほしいのであれば、こちらを向いてもらわなければならない。

 顔を顰め、何かと葛藤しながら、ぎこちなくユリウスの首が動き出す。まるで錆びて動きが悪くなった歯車のようだ。

 ようやくお互いの顔を見合わせる状態になるものの、ユリウスは頑なに瞼を閉じ、赤い瞳が隠されている。


(これでも食べさせられるけれど)


 早く目を合わせられるようになってほしいものだ。小さく息を吐き出し「口を開けてください」とパンを近くへ持っていく。

 おそるおそるユリウスの口が開かれていくものの──。


「だだ、駄目だ! こ、これはもう少し段階を踏んでからだな」

「食べさせてほしいと言ったのはユリウスなのですが」


 ユリウスが壁に頭をぶつけ、正気に戻ったあとのことだ。何かを口にすることができるかわからないと打ち明けた。

 アウレア王国へ来る前の経緯も話し、今の自身の立場もあり、薬を盛られているのではないかと勘繰ってしまうこと。どうしても出されたものを口にすることを躊躇してしまうこと。

 それらを話し、ユリウスがこう提案してきたのだ。


『エルが食べるものは俺が毒味をしよう。それであれば安心して食べられるだろう?』


 もちろん、全力で止めた。

 本当に毒が盛られていたらどうするのかと。自分の身を危険に晒す行為を、王自らが進んでやるなど考えられない。

 それでも、ユリウスは「心配してくれるのか?」と嬉しがるばかり。結局、エルが折れることになり、昨日から出された食事はすべてユリウスが毒味をしてくれている。使用人達やユリウスの毒味役が驚いていたのは言うまでもない。

 王自らが毒味をしたというのに、エルが食べないというわけにもいかず。今もまだ躊躇してしまうが、彼が毒味をしたものは何とか口にしている。

 そして、変わったことと言えばもう一つ。エルのユリウスの呼び方だ。

 これもまたユリウスからの提案だったのだが、敬称をつけずに呼べば親しみが増す──とのことだった。


「エル、昨日言っていたとおり、街へ行く。気に入ったものがあれば何でも言うといい」

「あ、ありがとうございます」

「エルなら何でも似合う。巷で流行している膝丈のワンピースなどもきっと、ふ、ふふ、ふふふ」


 ちらりと横目でユリウスを見る。どこで仕入れてきた情報なのかはわからないが、腕を組み、うんうんと頷きながら笑っていた。


(ごく稀に気持ち悪くなるのは何故なのかしら)


 そんなやりとりをしながら朝食を終え、二人は席を立つ。ごちそうさまでした、と使用人達に声をかけ、その場を後にした。


「先に自室へ戻っていていただけますか。わたしはラバトリートイレへ」

「では、行こうか」


 ──ちなみに、これは昨日からである。

 城内を何故かユリウスに案内してもらい、エルに必要がありそうな場所は覚えた。けれど、どこへ行くにも彼が傍にいるのだ。ラバトリーへ行くときでさえも。エチケットは心掛けているらしく、扉から少し離れたところで待ってくれてはいたが。


「昨日も言いましたが、一人で行けます」

「だが、何があるかわからない」

「何がって……逃げたりはしませんよ」

「そういう意味ではない。いろいろあるだろう、躓いたり、転けたり。何かにぶつかることだってあるかもしれない」


 一体、ユリウスは何の心配をしているのか。エルは十八歳。歩きたての幼子ではない。

 早歩きでユリウスの前に立ち、エルはじっと彼の顔を見た。爆発音が聞こえてきそうな勢いで顔を真っ赤にさせ、ユリウスはエルから視線を逸らすように俯く。


「そ、そそ、そんな不意打ちはよくない。聞こえるか、俺の心臓が早鐘を打つ音が。このままでは炸裂してしまう」

「わたしにも、一人で行きたいところがあります」


 腰に手を当て、真っ直ぐにユリウスを見つめる。依然として目は合わないが、彼は小声で話し始めた。


「……最初に、傍にいてもらうと、言ったではないか」

「仰ってましたが、それにしても限度が」

「俺はエルから離れる気はない。離す気もない」


 予想外の言葉に返答できずにいると「ラバトリーへ行くぞ」と強引に打ち切られてしまった。

 またもやラバトリーまでついて来られてしまったが、先程の言葉が頭から離れないエルだった。



 * * *



「さすがに、多くはないですか」

「何を言う。服など幾らあってもいい。ほら、これもきっと似合う」


 ユリウスが服を選び、店主に渡していく。何着あるのだろうか、服は山のように重なっている。

 あのあと、二人は街へとやってきていた。ショーウインドーに飾られた服が気になった店に入り、中を見ているところだ。ちなみに、護衛はユリウスが拒否したために、本当に二人しかいない。


「店主、エルに試着を」

「は、はい、かしこまりました! ではエル様、こちらへ」


 山盛りの服を抱えた店主に促され、エルはフィッティングルームへと歩いて行く。靴を脱ぎ、中へ入ると山盛りの服から一着だけ手渡された。


「まずはこちらを。順番にお渡しさせていただきます」

「ありがとうございます、助かります」

「もし何かご不明な点などございましたら、仰ってください」


 ここから、怒濤のファッションショーが行われることになる。

 着ては視線を合わせないようにユリウスに見せ、また別の服を着て見せ、を気が遠くなるほど繰り返す。どんな顔をしていたのかはわからないが、そのときのユリウスを見て店長が目を見開いていた。

 ──様々なタイプのワンピースを試着し終え、その中でエルが気に入ったのは裾に向かって広がっていく膝丈のワンピースだった。が、ユリウスがどのような判断をするか。


「どれも似合いすぎて判断に困るが、このタイプのワンピースがいいな」


 それは、エルが気に入っていたタイプのもの。同タイプでデザインが異なるものをいくつか購入し、城へ届けてもらえるよう依頼し店を出た。


「すみません、たくさん買っていただいて」

「たくさん? 少ないくらいだ。さあ、次は靴を見に行くぞ」


 靴は服よりもすんなりと決まった。エル自身がヒールに慣れていないため、そこまで高くないショートブーツを店長からおすすめされたからだ。ついでに、ガーターベルトとストッキングを購入し、装飾品を見に行こうと店を出たとき──エルの足が止まった。

 左手首に手を持っていこうとしたが、一呼吸置いて前にいたユリウスの服を掴む。


「どうした」

「すみません。胸が、ざわざわとしてしまって」


 戦乙女から一人の女性となるため。エルが何らかの感情を抱いたとき、ユリウスに伝えることになった。

 制御するのではなく、その感情が何かを知り、表に出していくためだ。


「クラルスでは、皆が苦しい生活を強いられています。なのに、わたしだけがこんなにもいい思いをしていいのかと考えると……」

「なるほど、罪悪感か」

「罪悪感?」

「しかし、エルが罪悪感を抱く必要はない。服、靴、装飾品。自由に着飾る権利を与えられていなかっただろう。ようやく手にすることができるようになったのだから、思う存分楽しめ。金ならある」


 それでも、とユリウスは言葉を続けた。


「クラルスのせいで楽しめそうにないのなら、すぐにでも滅ぼしてやろう。いつでも俺に言えばいい。エルの望みであれば、何でも叶えてやる」


 こういうとき、ユリウスは冷酷非道の王の顔を見せる。と、判断したときに。


「……そうやって、何でも滅ぼそうとするのは好きではないです」

「なっ、えっ、そ、それは、俺のことも好きではないということか!?」

「い、いえ、そういうつもりで言ったわけでは」

「はあ、よかった。俺達はその、りょ、両想いになったばかりだからな」


 照れくさそうな笑みを浮かべ、ユリウスはチラチラとエルを見る。

 まだ両想いではないのだが。


(でも、この人の傍では息がしやすい)


 クラルスでは、毎日が窮屈で息がしにくかった。

 とはいえ、エルのことになると途端に思考が危険な方向に走るのは見過ごせない。どうにかできないものか、そんなことを考えながらエルはユリウスの後ろを歩いた。

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