さようなら、戦乙女のわたし
(……本当に、浴室まで案内してくれたわ)
浴室の前で待っていた使用人達の驚いた顔。あの顔はしばらく忘れられそうにない。
しかし、ここまで良くしてもらってもいいのだろうか。
敵国の王女、それも、戦場の象徴であったクラルスの戦乙女という異名を持つエル。アルベルトもそんなエルを警戒していた。使用人であれば、エルは恐怖の存在でしかないだろう。
そう思い、一人で洗うと言っても「自分達の仕事なので」と、すべて洗ってくれた。手荒に扱うことなく、壊れ物を扱うように優しく。洗い終えた今は、濡れた髪の毛をやわらかく肌触りのいい布で優しく拭いてくれている。至れり尽くせりだ。
「こちら、薬をお持ちしましょうか」
声をかけられ視線を向けると、使用人の一人が左手首をつねってできた痕を指していた。湯につけるわけにはいかないとブレスレットを外していたため、痕が使用人の目に止まってしまったようだ。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「かしこまりました。また痛みなどあれば仰ってくださいませ」
いくつもの痕。それだけエルが感情を抑えようとしてきた証。指で撫でていると、浴室の扉が些か乱暴に叩かれた。
「エル、本当に痛みはないのか」
「……ユリウス王?」
「陶器のように白く、思わず触れたくなるほどのみずみずしくなめらかな肌。だというのに、自傷行為でついてしまった痕がいくつも……一体、何があったのかとずっと気になっていた」
扉越しに聞こえる、絞り出したかのような声。普段のユリウスからは考えられない声を聞いて、使用人達も顔を見合わせていた。
本来であれば、冷たく重い声のはず。それにもかかわらず声が変わっていないということは、今は心配でそれどころではないのかもしれない。気にかけてくれているのも充分伝わるが──。
(どうして浴室の前にいるの? いつからいたの? わたしを送り届けてからずっといたの?)
それに、とエルはユリウスが言っていた言葉を思い出す。
エルの肌が綺麗だということを伝えようとしてくれていたのだろう。それはわかるのだが。
(……表現がやけに生々しくて、寒気が)
使用人達も顔を見合わせて驚いている。エルは「ユリウス王」と扉の向こうにいる彼に呼びかけた。
「あの、先にお食事に行かれてはいかがですか? わたしはまだ時間がかかりそうなので」
「何故、俺がエルを置いて先に食事へ行かなければならないんだ? 俺が先に行ってしまえば、エルの案内ができなくなる」
「それは、使用人の方に」
「駄目だ。エルに関することは俺がする。本当は湯浴みも……」
少しずつ声が小さくなり、最後の方は聞き取ることができなかった。
一体、これは何のこだわりなのか。浴室までの案内も使用人に任せることなく、ユリウス自身がすると追い返していた。
今こうして扉の前にいるのも、エルが終わるのを待っているということだろう。食事会場へと、自身で案内するために。
エルはユリウスに聞こえない程度の声で使用人へ話しかけた。
「ユリウス王は、いつもあのような感じなのでしょうか」
「……いえ、初めて見るお姿です。なので、我々も戸惑っています」
「ご結婚されるとお聞きしたときも、誰もが本当に驚いていて……」
わかります、という言葉を呑み込みつつ、髪の毛を乾かしてもらい、用意された着替えに手を通す。女性用の服がないらしく、使用人達が身に着けているメイド服の黒いワンピースを借りた。
(スカートなんて、初めてかもしれないわ)
ふわりとしていて、可愛らしい。普段からプレートアーマーかギャンベゾンでいたため、違和感はあるが。
ユリウスからもらったブレスレットを左手首につけ「ありがとうございます」と使用人達に頭を下げるとエルは浴室の扉を開けた。
「すみません、お待たせしました」
ユリウスは目の前の壁に背を預けて待っていた。エルの姿を見るやいなや頬を赤く染め、視線を逸らす。
「ふ、ふふ、メイド服だがいいな。ここに連れてこられたときはギャンベゾンだったからな、いいな」
「そ、そうですか」
「そうだ。明日は服を買いに行こう。仕立屋を呼ぶのもいいが、時間がかかるからな。髪留めも必要だな、あとは靴と……とにかく、ほしいものがあればなんでも言うといい」
二人は廊下を歩き出し、食事会場へと向かう。
正直なところ、出されたものを口にすることができるかわからない。レオンハルトに薬を盛られたことがトラウマとなっているためだ。出されたものには何か薬が仕込まれているのではないかと、そんなことを勘繰ってしまう。
何より、アウレア王国におけるエルの立場を考えると、何が起きてもおかしくはないのだ。
そのとき、エルの右手が力強く握られた。足を止め視線を持っていくと、そこには大きく骨ばった手。──ユリウスの手だった。
「エル、ブレスレットを引っ掻いている」
指先でカリカリと引っ掻いていたようだ。ユリウスに止められるまで、全く気が付かなかった。
「申し訳ありません、いただいたものに」
「そんなことはどうでもいい。左手首の自傷行為と関係があるのか?」
「……戦場の象徴に、感情は必要ないと言われたので痛みで紛らわせていました」
隠していても仕方がない。そう思い話したが、頭上から息を呑む音が聞こえ、それと共に空気が張り詰めた。
この空気でわかる。彼が怒っていることに。このようなことで自傷行為をしていたことに「未熟だ」と、きっとそう思っている。
視線を交わせないことが、こんなにもありがたいと思うとは。今、ユリウスがどのような表情をしているのか、確かめる勇気がない。部屋で見たあの鋭い視線が向けられることを考えるだけで、身体が震えそうになる。
「エル、感情が必要ないなんて言うのはくだらない、馬鹿げた話だ。もうこのようなことはしなくていい」
冷たく、重い声。されど、エルが思っていた部分で怒っている様子ではなさそうだ。
では、どの部分で怒っているのか。これ以上は逆鱗に触れないよう話さなければと、慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、戦乙女として売られてきたのであれば、戦乙女としてあらねばなりません」
「なるほど、クラルスがエルを縛っているのか。邪魔だな、滅ぼすか」
エルの右手を握る力が強くなった。
(まさか、彼が怒りを抱いているのは)
声は先程と変わらずとも、息がしにくくなるほどの圧がのし掛かる。
「ああ、そうだな。クラルスを滅ぼしてしまおう。跡形も残らないほど、徹底的に。そうすれば、エルも自由になれる」
「そんな……」
ユリウスの言うとおり、クラルスに縛られている。と言っても、クラルスに縛られているのは、エル自身の選択の結果でもあるのだ。
自分の境遇を受け入れ、望まれるように生きることで、家族との繋がりを感じていたのだから。
「……ユリウス王は、わたしが戦乙女でなくてもいいのですか?」
「愚問だな。俺は一度も戦乙女としてエルを見たことはない」
売られてきた経緯はどうあれ、一人の女性として見ているということだ。エルは軽く唇を噛み締め、目を瞑った。
──ユリウスに見初められ、好きになってもらうと言われたことを思い出す。そのときは、感情がわからないエルには難しいことだと思った。好きという感情がどんなものかを知らないからだ。
でも、とそっと目を開けた。
(わたしは、好きという感情を理解しようとは思っていなかった。戦乙女であろうとしていたから)
もう、その必要はない。クラルスには売られ、ここでは戦乙女として求められていないのだから。
決意を固め、エルは口を開いた。
「ユリウス王、貴方の仰るとおり、わたしはクラルスに縛られています。ですが、クラルスを滅ぼすのではなく、貴方の手でわたしを解放してほしい」
クラルスを滅ぼさずに、戦乙女から一人の女性として変わるのならば。
(ユリウス王、貴方にも協力してもらう。わたしに好きになってもらうと言った、貴方に)
エルはユリウスの手を払い、彼の方を振り向くと両手で顔を包み込んだ。
こんなときでもユリウスは瞬時に顔を赤く染め、いつものように顔を背けようとするが、そうはさせない。
「エ、エル」
「わたしを変えてください。戦乙女ではない、一人の女性に。そして……わたしに、好きという感情を教えていただけませんか」
「────っ!」
声にならない声をあげたかと思うと、ユリウスは勢いよく後ろへ下がり壁に頭をぶつけて倒れてしまった。ゴン、と重たい音が響いたため、待機していた使用人達も何事かと駆けつけてくる。
「あ、あの、しっかりしてください」
「両想い……」
まだ両想いにはなっていない。好きという感情を教えてほしいとは言ったが。
それでも、これでクラルスが滅ぼされる道は回避されるはず。何より、エル自身も変われるはずだ。
(さようなら、戦乙女のわたし)
心の中で別れを告げると、いまだうわごとを繰り返すユリウスに使用人達と共に声をかけ続けた。
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