この人は、誰

 言葉に詰まった。そのようなことを言われるとは思っていなかったからだ。当の本人は「これ以上は無理だ!」とエルから目を逸らし、胸に手を当てて大きく息を吐き出している。


(わたしが、この方を好きになる?)


 好きという言葉は知っている。意味もわかっている。けれど、どのような状態になれば「好き」になるのかがわからない。

 左手首のブレスレットに視線を落とす。感情を表に出さないようにとしてきたことが、ここで仇になるとは。


「……難しいですね」


 ぽつりと呟いた言葉に、何故かユリウスが息を呑んだ。不思議に思ったエルがユリウスに視線を向けると、彼は青ざめた顔で両手で頭を抱え、カタカタと小刻みに震えている。


「ユリウス王?」


 エルの呼びかけには答えない。ただ、小さな声で何かを呟いているようで、エルは少しだけユリウスに顔を近づけた。


「嫌だ、好きになってほしい、俺のことだけを見ていてほしい、どうすればいい、どうすれば」


 狂気を感じ、すぐに離れた。ユリウスはエルが顔を近づけていたことにも気付かずに、今もまだ呟き続けている。

 ユリウスのことを好きになるのが難しい、という意味で言ったわけではない。だが、勘違いさせてしまったようだ。

 それにしても、このようになるとは。小さく息を吐き出し、エルは「ユリウス王」と呼びかけた。


「好きになることが難しいのではなく、好きという感情がわからないから難しいと、そのような意味で言ったのですが……」


 ユリウスは勢いよく顔を上げ、エルを見た。その目は少年のように輝き、顔も青ざめてはおらず、寧ろ頬が紅潮している。


「本当か!?」


 はい、と頷くのと同時に、部屋の扉を叩く音がした。その音を聞いたユリウスは立ち上がり、


(……この人は、誰?)


 エルに見せていた姿は、何だったのだろうか。

 紅潮していた頬は既に白く、赤い瞳は細められ鋭さが増している。その鋭さは無数の切っ先を突きつけているような、そんな気さえもするほどだ。部屋の空気も一瞬で凍り付き、今し方までの緩い空気が恋しい。

 自慢ではないが、エルもそれなりの鉄火の間をくぐってきたつもりだ。が、これほどまでの威圧感を与える者はいなかった。

 ユリウスの今の姿は、冷酷非道の王そのものだ。


「何だ」


 冷たく、重い声。そこに感情は込められておらず、背筋にぞくりとしたものが這い、エルの身体に緊張感が走る。


「兄様、食事の準備ができたよ」


 扉が開かれ、中へ入ってきたのは一人の男性。ユリウスと同じ黄金の色をした髪を後ろで結び、どこかあたたかさを感じさせる朱色の瞳。声色も優しく、彼が入ってきたことで部屋の空気が和らいだ。


「起きたんだ? おはよう、クラルスの戦乙女さん」

「お、おはようございます」

「アルベルト、その呼び方はやめろ」


 アルベルトと呼ばれた男性は、はいはいと肩を竦める。


(ユリウス王のことを兄様と呼んでいたし、この方は弟君かしら。でなければ、今のユリウス王にこんな態度……)


 にこりとも微笑むことなく、冷淡な態度をとり続けるユリウス。そんな彼を相手に、アルベルトは怖じ気づくことなく笑顔を向けている。


「それで兄様、エル王女はどうするの? 城内はこの話で持ち切りだよ」


 話がわからないと首を傾げていると、アルベルトがエルを見た。


「兄様、連れてこられた君を見てしばらく固まっててさ。で、急に抱きかかえたかと思うと、俺の寝室で寝かせる、って行っちゃって」

「……え、ユリウス王の寝室なのですか?」


 待遇がいいとは思っていたが、まさかそのような出来事があったとは。

 確かに、ユリウスのことをよく知っている者からすれば気になるだろう。

 あの冷酷非道の王が、クラルス王国から売られてやってきた戦乙女を自身の寝室に自ら連れて行ったのだから。


「俺の妻にすると決めた」

「へえ、妻……妻ぁ!?」

「うるさい」

「身内から売られてやってきたとはいえ、敵国からやってきた、しかもクラルスの戦乙女だ! 寝首を掻かれることだってあるかもしれないのに、妻って!」


 寝首を掻くことなど、考えてもみなかった。売られた身のため、帰る国はもうないからだ。

 とはいえ、アルベルトがエルを警戒するのは至極当然のこと。もし逆の立場であっても、きっと同じようにする。ここは下手に反論すべきではない。黙っていると、ユリウスが口を開いた。


「エルはそのようなことをする女ではない。それに……一目見たあの瞬間から、俺はエルに心を奪われている」


 ほんの一瞬だが、ユリウスの視線がエルに向けられた。火傷しそうなほどの熱が込められた、熱い視線が。

 それは、一秒にも満たない、刹那の出来事。されど、エルの胸を苦しいほどに締め付けるには充分だった。


「故に、どうしようもないほど、エルがほしい」

「……っ、な、何を、言って」

「めっちゃ惚れられてんじゃん、エル王女」


 ちょっと引いちゃった、と両腕で身体を抱きしめるようにして、アルベルトが一歩下がる。


「兄様がそう言うなら、俺からはもう言うことはないや」

「では、この話は終わりだ。食事へ行こうか、エル」

「その、不躾なお願いで申し訳ありませんが、お食事の前に湯浴みをさせていただけませんか。戦場から帰ってきて、そのままこちらに……」

「そういえば、身なりも整えてもらえてなかったね。湯浴みのことは俺が伝えておくよ」


 ひらひらと片手を振りつつ、アルベルトは部屋を出て行った。扉が閉まる音を最後に、部屋はしんと静まりかえる。

 今こうして部屋を出て行ったのは、兄であるユリウスを信用し、信頼しているからだ。

 だから、彼は信じたのだろう。エルは寝首を掻くような女ではないと言うユリウスの言葉を。


(でも、どうして言い切れたのだろう)


 今のユリウスは、アルベルトが来る前の状態に戻っている。話しかけても良さそうだと思っていると、彼の方から「エル」と名を呼ばれた。


「どうされましたか?」

「そ、そろそろ、視線を外してほしい。俺の心臓が、暴走している……!」


 アルベルトとは普通に目も合わせて話していたのに、何故エルに限ってそうなるのか。本当に変わった人物だと思いつつ、言われたとおりに視線をユリウスから外す。


「それで、俺に何か言うことはないか?」

「……わたしが寝首をかかないと、どうして言い切れたのですか?」

「どんなことでも受け入れる覚悟はしていると言っていた。己の死すらも、覚悟していたのだろう?」

「はい」

「俺の寝首を掻くのなら、虎視眈々と命を狙うのなら、そんな覚悟は不要だ。ただ生き延びることだけを考え、俺を殺せばいいのだから……ではなくてだな!」


 ユリウスが声を張ったため、思わず彼に視線を向けてしまった。視線が交じるも、一瞬で顔を赤く染めて背けられる。


「ほ、他にあるだろう、もっと重要なものが」

「……あ、わたしが、ほしい?」

「そっ、そう、それだ。言っておくが、アルベルトに言ったことはすべて俺の本音だ」


 エルの反応が気になるのだろうか、チラチラと見てくる様子が気になって仕方がない。

 何度でも言うが、変わった人物だ。でも、と左手首に触れようとしたとき、再び扉を叩く音がした。


「ユリウス様、湯浴みの準備が整いましたので、エル様をお連れしても」

「エルは俺が連れて行く」


 また、声がアルベルトのときと同じものに変わっていた。使い分けているのかもしれないが、二重人格なのかと疑ってしまいそうになる。


「か……かしこまりました」


 使用人が去って行ったことを確認すると、ユリウスは顔を背けながらエルへ手を差し出した。


「で、では、案内しよう。浴室はすぐ近くだ」

「は、はい」


 それにしても、王自らが案内するものなのだろうか。わからないまま、エルはユリウスの手を取った。

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