第11話 霞姉の涙

入浴を済ませた私は、少し申し訳なさを覚えていた。理由は、夕食の時に颯くんに無理やり私の方が可愛いと言わせたことだ。言われたあと、しばらく嬉しかったのだけれど、よくよく考えてみれば、言わせた感がすごかったし、多分、言わないと逃がさないよという圧を感じさせたと思う。それに、お世辞で言われてもそこまで嬉しくない(鼻歌を歌ってしまうほど嬉しかったです)。でも、これだけはわかってほしいです。好きな人が他の女の子の匂いをつけて帰ってくることが、どれぐらい嫌なのかを。私のレベルなら、正直、今すぐ私の前で二度とその女と会わないことを誓った上で、GPSをつけさせてほしいぐらいです。

とりあえず私は、颯くんに謝ろうと思い、颯くんの部屋の前まで行く。そして

ノックしようとした時、かすかに颯くんの話し声が聞こえてきた。私は扉に耳をつけ会話の内容を聞く。決して、盗み聞きとかではないです。ただ、誰と話しているのか気になっただけです。耳を澄まして聞いていると、聞き覚えのない名前が聞こえてきました。

『瑠菜のせいで…………』

 最初に聞こえた名前のせいで、それ以降の話は頭に入ってこなかった。

 瑠奈って、誰…………? 

私が把握している範囲で、颯くんの周りにそんな名前の子はいない。つまり、

バイト先の、颯くんに近づいた女狐か……? しかも、颯くんに名前で呼んでもらってる……。私なんて、いつも『姉』ってついてるのに……。羨ましいぞ、女狐……。

 私は溢れ出てくる嫉妬心に従い、颯くんの部屋の扉を連続ノックする。

「颯くん、出てきなさい!」

 呼びかけながら連続ノックすること十数秒。部屋の扉が開けられた。姿を見せた颯くんに私はずんずんと問いただすべく近づいた。

 徹底的に洗いざらい全部吐いてもらうんだから!


 バイト先の先輩、瑠菜と電話していると、いきなり、部屋の扉が凄まじい速さと勢いでノックが繰り返された。

「颯くん、出てきなさい!」

 霞姉だ。声とノックの回数からして、何かに怒っているらしい。

「悪い、瑠菜。一旦切るわ」

『え〜! もう少しお話ししたいんですけど〜!』

「悪いけど、それどころじゃないんだ! あとでもう一回電話くれたらいいから!」

『仕方ないな〜。じゃあ、またあとでね、ハヤ』

 通話が切れると、俺はすぐに扉を開けた。すると、霞姉が頬を膨らませて怒ってますよ、とアピールしながらずんずんと近づいてきた。そして、怒涛の質問攻めをしてくる。

「今の電話の相手、誰? さっき言ってた、バイト先の女の子? なんで名前で呼んでるの? どういう関係? 本当に先輩後輩の関係だけ? 付き合ってるんじゃないの? 私のことも霞って呼んでほしい!」

 質問の中に可愛いお願いも混じっていた。それよりも、問題がある。

 近いっ! 近すぎる! 風呂上がりだからシャンプーのいい匂いがするんだけど! それに、魅力的な容姿を近づけないでくれ! 

 俺は自分のためにも、霞姉の両肩に手を置き抑えるようにする。

「お、落ち着いてくれ! 霞姉!」

「落ち着けるわけないでしょ! 一体、誰なの⁉︎ 私の颯くんを奪おうとしている女狐は⁉︎ 名前と住所教えて! 私が直接話に行くから! そして、颯くんに相応しいか判断しに行くから! 絶対に認めないけどね!」

 いつも丁寧な言葉遣いしかしない霞姉が、珍しく口調悪くなっている。つまり、それほど怒っているのだろう。

「わかった! 話すから! 一旦、落ち着こう!」

「……わかった……」

 霞姉は深呼吸してから、ベッドに腰掛ける。

 ふぅ……、ようやく落ち着いてくれたか……。

 霞姉が落ち着いてくれたことに一安心していると、霞姉が、

「……それで、瑠菜って誰?」

 瑠菜のところを強調しつつ、ジト目を向けながら質問してきた。

「夕食の時に話した、バイト先の先輩だよ」

「ふぅん……、バイト先の可愛い先輩のことなんだぁ……。名前で呼んでるんだぁ……。ふぅん……」

 言葉の節々に棘が混じっている。

 疑いをかけられる前に弁明しとこう。

 そう思い口を開きかけたのだが、

「私の告白は保留にしておきながら、今日出会った、しかも、たった数時間で付き合ったんだ?」

 霞姉の方が少し早かった。

「いや、付き合ってないから! そもそも、俺の苦手なタイプだし! 先輩としてはいい人だと思う! でも、断じてそういう気持ちはないから!」

「本当に……?」

「本当だよ!」

 弁明してもなお、疑いの目を向けてくる霞姉。

 くそっ! どうやったら信じてもらえるんだ! 他の人に誤解はされてもいいが、霞姉だけには誤解されたくない!

 しかし、ある一本の電話がさらにこの状況を悪化させる。

「颯くん。電話なってるよ」

「あ、ああ……」

 勉強机に置いてある俺のスマホが着信音を鳴らしながら振動している。

 まずい……。見なくてもわかる。俺の嫌な予感が告げている……。この着信相手は、瑠菜だと……。

「でないの?」

「いや、で、でるよ……。うん、でるでる」

 先ほどの通話を聞いていたみたいだし、何も問題はない、と思いたい……。

 俺は覚悟を決め、電話にでる。

「も、もしもし……?」

『やっとでた! 電話でるの遅すぎ!』

「わ、悪い……。家族と話してて……」

 名前を出すな、絶対に……!

『それでさ、今度の土曜日デート……』

「女狐ぇ……」

「うおわっ!」

 急に耳元で、低い声で恨めしい声を出され、俺は全身に悪寒が駆け巡った上に、あまりに驚いてしまい、裏声を出してしまい、スマホまで落としてしまう。

 隣を見ると、霞姉が忌まわしげに俺が落としたスマホの画面を見ている。そして、ゆっくりと拾い上げると、俺にも聞こえるようにスピーカーにした。その行動はまるで、夫の不倫の証拠を見つけた妻が、夫と不倫相手に尋問するようだった。

「もしもし?」

 今までに聞いたことのないぐらいの低い声で霞姉は電話にでる。

『もしもし? どうしたの、ハヤ? 変な声なんて出して?』

「ハヤ、ですって……?」

 キッ! と、俺を鋭い眼光で睨む霞姉。

 うわぁ! なんてことをしてくれたんだ、瑠菜ぁ! 

『もしかして、ハヤじゃない?』

「ええ、あなたが狙っている男の――」

「悪い、瑠菜! もう切るな! 明日説明するから!」

 俺は霞姉から無理やりスマホを奪い通話を切った。

「か、霞姉……?」

 俺は恐る恐る、霞姉の様子を伺う。霞姉はずっと俯いたままだった。

 …………あっ…………。

 よく見ると、霞姉の顔から滴が、ポタッ……、ポタッ……と、閉めた後の蛇口のように地面に向けて落ちていた。

 泣かせてしまった。

 そう気づいた時、心臓がキュッと、何かに掴まれたような感じがした。

俺は霞姉に何も声をかけられなかった。今、霞姉が泣いているのは、きっと今のだけが原因じゃない……。今まで抑えていた気持ちが全て出てきたんだ。

最悪だ、おれ……。

「……ごめん、邪魔だったよね……」

 そう言い残し、霞姉は俺の部屋を出て行った。そしてすぐに隣の部屋から泣きじゃくる霞姉の声が聞こえてきた。

 俺は全身の力が抜けたように、その場に膝から崩れ落ちた。

 ……俺は、クズだ……。霞姉の気持ちに本気で向き合わないといけないとか自分で言っていたくせに、本当はどこかで、あのお淑やかで、心の広い霞姉なら嫉妬だけで許してくれるという甘えがあったんだ。

 あれだけ、ヒロインに好意を向けられて、勘違いだと言って気づかないふりをする主人公に文句を言っていたのに、自分がそれになってしまった。むしろ、それ以上に俺は酷い。そして、今頃になって気づいた。

「……おれは、霞姉のことが好きなんだ……」

 でも、今の出来事があった後に告白しても、それは、ご機嫌取りのように思われるだけだ。それに、きっと霞姉は今、俺と話すどころか、顔すら見たくないだろう……。

俺が霞姉にできることは、本気で好きだと伝えること。たとえ、その間に霞姉が誰かと付き合うことになっても。告白してフラれたとしても。だって、それは俺が招いた結果なのだから。

 俺は霞姉の泣き声を耳にしながら、後悔と覚悟、自分の気持ちに向き合った。

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