第19話 お盆2

 千華子さんのひいおじいさんを見た日、お盆なのに千華子さん宅にお邪魔したのには訳がある。千華子さんの地元のお盆祭りに誘われたのだった。

 千華子さんが洗濯物を取り込んだ後、お互いに用意をする。千華子さんから熱いご要望があり、この日の為に買った浴衣に袖を通す。紺色に黒と灰色と焦げ茶の細長い縦線が入った、いわゆる縞柄を選んだ。男性用浴衣としてはスタンダードなもので、大学の最寄り駅に直結した大型百貨店で売られていたものだった。

 着方は事前に調べていたから問題なく着られた。千華子さんのおばあさんが「着付けようか?」と聞いてくれたけれど、丁重にお断りした。流石に下着姿を見せるわけにはいかない。

 千華子さんの支度はまだもう少しかかるようだったので、庭でミケスケを撫でていたら千華子さんのお父さんに呼ばれた。

「千華子の写真を撮ってきてくれないか。」

 そう言って大きなカメラを渡された。色褪せた黒と赤の幅広のベルトや、無骨で大きなボディに時代を感じる。

「最近、写真を嫌がるようになっちゃってね。君なら多分一枚くらいは許してくれるだろう。」

 聞くと、小学校高学年から千華子さんは写真を拒み始め(案外最近じゃない)、カメラを構えると逃げるようになったそうだ。それならとお父さんも対抗して追いかけていたら、最近は逃げることはしなくなったがその代わりシャッターの切られる瞬間に顔を背け、見事なピンボケ写真を作るようになったのだとか。

「こういう事が絶妙に旨いんだ。君も知っていると思うけど。」

 とても良く知っている。千華子さんはそういう人だ。

 お父さんからカメラの使い方を教わっていたら、後ろから浴衣姿の千華子さんが「おまたせ」と声をかけてきた。いつもは肩甲骨あたりまで垂らした髪を頭部で束ね、赤いビードロの簪を刺している。紺色の布地に大きな赤い花が咲いた浴衣に、橙色をした帯を合わせている。帯にはうっすらと同系色のトンボが飛んでいる。

「おぉ、似合うじゃないか。」

 千華子さんのお父さんが嬉々として僕からカメラを奪い、シャッターを押す。カシャっというシャッター音が鳴りきる一瞬前に千華子さんが顔を高速で逸らした。現像したら顔だけぶれていることだろう。「ちぇー」と子供じみた仕草で口をすぼませながら、お父さんは僕にカメラを渡した。

 夕刻、日が沈む少し前に千華子さんの車で祭の会場に到着する。着いたのは全体的にこぢんまりした学校の校庭だった。千華子さんの母校の小学校だそうだ。

 校庭の中央には祭櫓が建っている。櫓の上には男性が一人、スピーカーから流れる盆踊りのリズムに合わせて太鼓を叩いている。結構な頻度でリズムがずれているので、恐らくどこかの家のお父さんがボランティアで叩いているのだろう。

 屋台は飲み物、焼き鳥、焼きそば、金魚すくい、ヨーヨーすくいの五つだけが並んでいた。売っているのは中学生くらいの少年少女たちで、焼きそばが1パック150円、飲み物が全品1本100円で他がすべて1串・1回50円の破格の値段だった。

 千華子さんの隣を歩きながら、焼き鳥をほおばる。焼きそばのパックが入った袋とプルタブを開けた缶を持ちながら食べるのはなかなか至難の技だった。千華子さんはここに来ている人全てが知り合いのようで、すれ違う度に世間話に花を咲かせていた。その度に僕の事も紹介して貰い、元クラスメイトらしい人達は僕を見てはにやりと含み笑いをしていた。何か千華子さんから聞いていたのかもしれない。チーズケーキの話とか。

 素朴で小さな夏祭は、沢山の人に会えて、彼らからも千華子さんの話が聞けてとても楽しかった。しかし、一人の老婆が来た途端、その雰囲気ががらりと緊迫したものに変わった。

 そのお婆さんは顔中を布で覆い隠し、足を引きずりながら辺りをきょろきょろと見回した。そして千華子さんを見つけるとまっしぐらに駆けてきた。足を庇いながら不器用に走っているはずなのにとても速く、千華子さんが顔を歪めて嫌がっていたが逃げられなかった。

「小堺のお嬢さん、ご無沙汰しております。」

 千華子さんの苗字は小堺という。

「以前孫が妹様に大変なご無礼をいたして申し訳ありません。妹様は帰省なさっていませんか。何卒妹様に謝らせて頂けませんか。何卒お姉様の方から許すよう言って頂けませんか、何卒何卒お願い致します。お願い致します。」

 練習した言葉を暗記したような妙に不自然なトーンで早口にまくしたてる。千華子さんの前に跪き、頭を下げて手を合わせている。誠実な謝罪を行っているように見えるが、駆け込んで来る時に体の方向を少し調節しながら、千華子さんが校舎の壁に背を向けて逃げづらくしていたのを僕は見逃さなかった。

「妹は帰ってきません。あれ以来妹は戻って来ていません。小堺家も妹もどれだけ謝罪を受けても許すつもりはありません。」

 声が驚く程冷たい。千華子さんはこんな声を出せたのか。

「そんな事言わないでけらい。子供だったから仕方ねえんだ、男の子だから仕方ねえんだ。元気だったんだ。もう孫も息子も嫁も引っ越して行っちまった。おれだけまだ噛まれてんだ。痛えんだ。痛えんだよ。な、気が済んだべ、許してけらい。そんなに憎いかよう。」

 老婆は千華子さんが何か言う度にひたすら「許してくれー、許してくれー」と手を合わせて彼女の言葉を遮る。謝罪がしたいのではなく、自分に都合の良い回答が欲しいだけのよううだ。

 いつの間にか老婆と千華子さん中心に人だかりが出来ていた。他の人達も老婆を疎ましく思っているらしく、怒号が飛ぶ。

「あんたいい加減にしろ!元気だったら関係ない千尋ちゃん虐めて怪我させていいのか!」

「何度も皆で止めるよう言ったよな!そしたらあんた言い訳ばっかりで止めないどころかあのガキけしかけただろ!」

「うちの子供も殴られていたわよ!忘れてないからね!」

「学校の魚やウサギ殺したときも何も謝らないで開き直ってたよな!」

 なるほど、何となくいきさつは分かった。

 老婆はそれでも仕方ねえんだ、もう許してくれ、と反省の素振りを見せない。頭を下げながら時折目線を上げて千華子さんの表情を盗み見る。

 ふと、僕に目線を合わせる。今更ながら初めて見る僕に気付いたようだ。

「な、な。あんたもそう思うよな。おれの顔見てくれ。痛くてよう。もう許して貰っていいと思わねえか。な、な。」

 そう言って顔の布をめくる。所々えぐれていた。出血は既に止まり、怪我も治ったが、皮膚を引きちぎられた痕は治らなかった。そんな抉れ方だった。

 傷に一瞬ギョッとするが、表に出さないよう努める。

 僕に注目が集まっている。皆が僕が何を言うか神経を研ぎ澄ませている。

 一瞬だけ何を言うか考える。黙りすぎてもいけない。どもらないように、声の大きさにも気を付けて、言う。

「思いません。許されるものではないと思います。」

 老婆の口だけ笑った顔が一拍おいて、怒りに歪む。何か言おうと口を開いた瞬間、四方から犬の唸り声が響いた。吠え狂う声と透明な犬が僕の横を通り、老婆に襲い掛かる。老婆が悲鳴を上げて体を庇いながら倒れ込む。腕や頭や体が血で赤く染まっていく。

「行きましょう。」

 千華子さんが僕の手を引いて促す。老婆を後に校舎から離れる。騒ぎを知らないクラスメイトが僕らが手を繋いでいるのを見てにやりと笑うが、千華子さんは気にせず彼らを通り過ぎる。校庭を斜めに縦断し、敷地の端の、山と校舎の境目あたりの小さな畑にたどり着いた。覆いの形をした金属の支柱にヘチマが栽培されて実を付けている。雑草を掻き分けて作ったような畑にはナスが植えられていて、千華子さんの家で採れるものよりも若干貧相な実を付けていた。

 千華子さんが、畑の前に設置された平均台のような木の柵に腰掛ける。僕も隣に腰掛けることにする。畑を見ながら千華子さんがぽつりとつぶやいた。

「ごめんね、変なことに巻き込んじゃって。」

「いや、うん。まあ。」

 何と言っていいか分からなかったので返事を濁してしまった。

「ええと、妹さん、いたんだね。」

「そう、兄と妹がいるの。」

 お兄さんもいたのか。

「まあ、さっきので何となく分かると思うんだけど、妹があの人の孫息子に虐められていてね。」

「うん。」

 何となく言いづらそうに、僕の様子を見ながら話していたので、相槌を打ちながら聞く。千華子さんが言いたいことを言い切れたら良いと思う。

「小学校三年生の時に、隣の席になったってだけで、虐められてて。毎日殴られて蹴られてされてたみたい。あの頃は家がずっと落ち着かなかったわ。先生に相談したりしていたんだけれど、ある日その虐めっ子が図工中にハサミを持って襲い掛かってきて、頭に大怪我したの。その虐めっ子、千尋の血を見て興奮したみたいで、そのあと椅子をひっくり返して、千尋、後頭部と背中も強く打ち付けたのよ。」

「運よく、って言って良いのか分からないけれど、怪我だけで済んで、それ以外の後遺症とかはなかったんだけど。ハサミで切られた跡がクッキリ残っちゃって、一時期、そこだけ髪も生えないで、本当に痛ましくてね。それで、学校も行きたがらないし、隣の県に良い形成外科もあるし、叔母もそこに住んでいるしで、思い切ってお兄ちゃんと一緒に叔母さんのところにお世話になっているの。今は元気に暮らしているんだけれど、それでももうこの集落そのものが嫌いになっちゃって、ここには帰ってこないのよ。」

「なるほどね。」

「犬が、襲ってきたのも驚いたでしょう。」

「まあね。」

 ゆっくり頷く。たまに耳元で蚊の羽音がするけれど、我慢する。余計な身振りと発言をせずに彼女の言葉を促す。

「私も、よくは分からないけれど、千尋が怪我をして帰ってきたときに、その足でおじいちゃんとおばあちゃんが山のどこかに千尋を連れていったの。背中に大量に肉や魚やお餅を背負ってね。それ以来、苛めっ子の一族はイヌスケの仲間に襲われてるわ。担任の先生もだったと思う。襲われた殆どは集落から出ていったけど、無事にしているかは分からないの。」

 千華子さんはこちらを見ながら少しこわばった顔で言葉を続ける。

「まあ、こういう風に、怖いこともあるけれど、こんなこと殆どないわ。だって、見たわよね。基本的にここに住む人っていい人たちなのよ。いい人過ぎて、人の悪意や無神経も渋々許容しちゃう時があるけれど。」

 そうなのだ。ここの人達は総じておおらかで陽気で気前が良い。僕が千華子さんの彼氏だとわかると、僕にも気さくに話しかけてくれるし、焼きそばや焼鳥をくれた人もいた。畑で取れたキュウリやトマトをただで配っている人もいた。「取れすぎたから、良かったら食べて」なんて言って山積みの野菜を洗濯籠に入れて持ってきて、ぐいぐい皆に押し付けていた。押し付けられた人も「あの人は相変わらずね」なんて笑いながら、焼そばの入ったビニール袋にトマトを入れるスペースを作っていた。「うちでもトマトとか作ってるんだけど、まあ貰っちゃったからねえ」なんて笑って受け取るのだ。

 ここはそういう所なのだ。素朴で、昔ながらの村集落なのだ。

「まぁ、たまにスマホの電波が届かないし、子供の数もどんどん減っているし、警察とかを頼るのにまだ抵抗があるし、お兄ちゃんにも妹も帰ってこなくなっちゃったけど、それでも私はこの集落が好きなの。」

 そう言って、千華子さんは柵からひょいと離れて畑をぶらつき始めた。垂れ下がった大きなヘチマを触り、蔓を引っ張る。ヘチマ畑とナスの畑の間にはホタルブクロが咲いている。そんなホタルブクロを眺めながら千華子さんが歩く。頬に垂れた髪を耳に掛ける千華子さんを見ていると、突き動かされたように、カメラを構えたくなった。

 ファインダーを覗くと、千華子さんがこっちを向いた。始めは仕方なさそうに、数瞬後、自然に柔らかく、笑った。

 パシャリ、とシャッターが切られた音がする。僕は何も押していない。カメラが勝手に彼女を撮った。恐らく現像したらピンぼけなんかしていない、くっきりと綺麗な笑顔が写っているのだろう。千華子さんのお父さんにお願いして焼き増ししてもらおう。

 ああ、こうやってこのカメラは千華子さんの一瞬一瞬を記録してきたのだな、と理解した。

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