第6話 台所のペタペタしたものと、夜更かしを叱るテーブル

 ミケスケを見送ったあと、僕は気になっていたことを聞いてみた。

「ご近所の人達って、イヌスケやミケスケのこと、知ってるの?」

「あたりまえじゃない。うちは何十年も下手したら何百年も昔からこういう家よ。」

「ご近所のお家もこんな感じなの?」

「ううん、ほとんどうちだけ。昔はこのあたりにも沢山家があって、うちみたいに暮らしていたんだけれど、うちのご先祖様が近所のそういう土地を安く買い取ったのよ。」

「田舎の人達が都会に出ていく時代だったから、あっという間に買い取れたって。おかげでうちはいわくつきの土地ばかりの大地主よ。まあ、その土地もおじいちゃんおばあちゃんが農業やるのに使っているだけだけどね。」

「さて、もう一度家に戻りましょう。」

 家に戻ると、お母さんやおばあさんが朝に決して見せてくれなかった台所に案内してくれた。

「台所はお客様には見せないのよ。お客様のおもてなしをするのは客間や居間までで、台所は家の人がおもてなしの準備をしたり、自分達のことをする部屋だから。見せるのは失礼だと思っているのよね。まあでも、今回の場合は事情を見せない方が失礼ってことで。」

 台所は、びっくりするくらいきれいだった。新しいというわけではない。床の色や焦げた鍋や、家電やキッチンのレイアウトから滲み出ている全体的なレトロ具合で、何年も使い込まれているのがとてもわかる。しかし油によるべたつきや埃といったものが全く見つからない。一日三食の料理の後に毎回念入りに掃除をして、それを何十年と続けてきたのではないかというくらいそのキッチンは清潔だった。床に敷かれたキッチンマットでさえ、年月による色のくすみはあるものの、ほとんど汚れが見られなかった。

 キッチンがすごくきれいであることを千華子さんに伝えたら、「ちょっと待ってね」と冷蔵庫を開けてなにやらゴソゴソやり始めた。そして冷蔵庫からタラコを一切れ取り出し、床に投げ捨てた。

「あ、もったいない」

「大丈夫、賞味期限切れたやつだから。いいから見てて。」

 言われたとおり少し待ってみる。

 ぺた、ぺた、と四方からゆっくりと這い寄る音が聞こえる。昨夜聞いた音と同じだ。周りを見渡すと、黒い半液体の何かがタラコに向かって這っていくのが見えた。キッチンのどこにこんなに隠れていたのだろう。少なくても十匹はいる。

 そのペタペタしたものは僕の手のひらの三分の一位の大きさで、黒い体の内側は暗い虹色に光っている。子供の頃に遊んでいたスライムと、ひと昔前にポピュラーだった木電柱から流れ出たコールタールを思い起こさせた。タラコにまとわり付き、タラコを覆い、食べているのだか吸収しているのだかわからないが、とにかくタラコを消していった。

「キッチンがきれいなのと、昨日あなたが聞いた這いずり回る音の正体はこれよ。」

 ジャブジャブと流しでタラコを触った手を洗いながら千華子さんが言った。

「キッチン限定で、落とした食材とか油汚れとか、埃を食べてくれるの。」

「こんなに沢山の生き物がキッチンのどこに隠れていたの。」

「さあね。亜空間から出てきてるんじゃない。食べ終わると、あんなんだし。」

 千華子さんが指差した先を見ると、タラコを食べきった黒いペタペタしたものは床に体を垂直にのめりこませ、少しずつ消えて行った。まるで透明なエレベーターがあるような消え方だった。消えた場所には穴一つ残っていなかった。こんな移動が出来るなら、出て来る時も床から垂直に出てくればいいのに。全く意味が分からないものだったけれど、なんだか面白い。

「いいね、その黒いペタペタしたの。よく見ると何だか愛嬌もあるし。這い方もなんだかコミカルだよ。汚れや食べこぼしも食べてくれるし。うちに一匹(?)欲しいくらいだよ。」

 僕、子供の頃、スライムで遊ぶのと木電柱のコールタール木の棒でつつくの好きだったんだよね。

「あなたの地元に沢山出る、黒いカサカサとどう違うのかしらね。黒くて、キッチンに出て、食べ残しを食べるって。共通点多すぎじゃない?」

「君のそういうところ、いかがなものかと思うよ。」

 千華子さんはこういう人だ。

 しかも東北人だから、あのカサカサのおぞましさを分かっていない。伝説の生き物くらいの、話のネタくらいの軽さで口にするのは止めて欲しい。

「さて、そんなわけで、これで家に出てくるレギュラーメンバーは紹介し終えたわ。」

「あれ、机は?」

「机は、ただ夜更かしを叱ってただけよ。あの机いつもそうなの。それ以外は説明する余地も無い普通の机よ。」

「ただ?」

「ただ、よ。うちにとっては、イヌスケはただ透けているだけの犬で、ミケスケはただ毛皮以外が透けているだけの猫で、あの黒いのはただ家の台所汚れを食べている物体で、机はただ夜更かしを叱っているだけなの。」

 千華子さんの口調が少しずつ強くなっていく。

「仕方ないじゃない、うちはずっとこうだったの!さっきも言ったでしょう、出るものは出るのよ!」

 ああ、彼女も心配だったのだ。千華子さんは、独特の千華子さん節があるけれど、きちんと常識も教養もある人で、自分の家がイレギュラーだと知っているはずだ。大体、もしそう思っていないなら、僕を実家に呼ぶことに抵抗も無かっただろう。いつものような自分のスタイルを貫き、さも大した事じゃあないようにイヌスケ達を紹介してきたのは不安の裏返しであり、大したことであると僕に思って欲しくなかったのだ。

「千華子さん、僕、別にこの家に嫌な気持ちを持ったりしていないよ。」

 なんて言って良いかわからないけれど、とりあえず思ったことを素直に話してくことにする。

 僕と彼女の付き合いは、周りから淡々としていると言われる。けれどそれは大事な話やぶつかり合いをしないのではなく、僕達なりの暗黙のルールと工夫が存在しているからだ。そして僕なりの工夫とは、彼女が素直に話しやすい雰囲気を作ることと、思った事を誤魔化しなく率直に話すことだ。

「その、確かに驚いたけれど。正体を知ったら別に怖いわけでもなくなったし。『ああ、そうなんだ』位しか思わないよ。」

 だから、と言葉を続ける。

「もし良ければ、まだ君との付き合いを続けていきたいんだけど、どうかな。」

 彼女の目を見ながら言う。普通、恋人を説得するにはもう少し言葉を続けた方が良いのかもしれない。彼女をどれだけ好きかとか、僕がどれだけタフなのかとか、そういうのを。今はいわば僕たちの関係が崩壊するピンチなのだ。でも僕達はこうやって淡々と、その分お互いの目線を合わせて、今感じていることを率直に分け合って付き合ってきた。下手に言葉を重ねても、それはいつものやり方ではないのだ。

 彼女のとの会話は、シンプルな話をするからこそ気持ちを込めて話さなくてはといつも思う。そして今もいつも通り淡々と全力投球で伝えるのだ。

 千華子さんは、僕を数秒見た後、目をそらしながら小刻みに小さく頷いた。僕に目を合わせなくなったけれど、彼女が照れる時はいつもそうするのだ。よかった。

「そんなわけなので、たまに遊びに来させてください。」

 台所と廊下を繋ぐ戸を見ながら言う。千華子さんのお父さんとお母さんと、なぜか夜更かしを叱る机が覗いていた。

「ちょっといつのまに!?」

 千華子さんが詰め寄ったが、そりゃあ、あんなに大きい声出してたらね。

「千華子の事を嫌いにならないでくれてありがとう。ぜひ遊びに来ておくれ。」

「本当に。肝が据わって凄いわあ。おじいちゃんとおばあちゃんにも話しておくからね。あ、後で連絡先教えてね。」

 千華子さんのお父さんとお母さんが笑いかけてくれたので、僕も笑い返す。

 よかった、ご家族にも好印象だったようだ。

 そんなわけでこの日から僕はこの不思議な一族と、不思議な家と、不思議な集落との付き合いが始まったのだった。

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