第4話 イヌスケ
千華子さんは、別室で朝の準備に追われているご両親にひと声かけてから、僕を促した。
「帰りは私の車で送っていくことにしたわ。」
千華子さんも、この界隈の大学生と同じように自分の車を持っていた。このあたりの主な移動手段は車だ。昨日のような飲み会の日は家に車を置いて、家族に乗せてもらうか自転車に乗るかして最寄り駅に行くようにするけれど。
僕のように駅の近くのアパートを借り、駅の近くの大学に通い、駅の近くで買い物を済ませ、駅の近くでバイトをするような学生以外には、車はこの県での必需品だ。
「まずは、外に出ましょう。」
千華子さんの提案で外に出た。玄関を数歩出てから何となく振り返ってみる。朝の千華子さんの家は、白い壁に青い瓦の乗った普通の日本家屋だった。
玄関を出て更に少し歩いたところに犬小屋があった。赤い屋根と白い壁を模したプラスチック製の、どこにでもあるような犬小屋の、横の虚空から犬の鳴き声と呼吸音がするというどこでも見られない光景がそこにはあった。
「イヌスケよ。犬が透けているから、イヌスケ。」
「なかなか秀逸なネーミングセンスだね。」
そして、犬が透けているとか言っちゃうところとか、いきなり名前から説明するところとか、それ以上を説明する気がないところとかが、千華子さんらしい。
「イヌスケは、犬の幽霊なの?」
「さあ、透けただけの犬じゃないの?」
この世のどこに透けただけの犬がいるというのか。
「君のそういう所、素敵だよね。」
千華子さんはこういう人だ。
「とりあえず毎日ご飯は食べるし、水は飲むし、トイレと散歩は自分で勝手に裏の山でしているわ。」
ほら、と彼女はこれまたどこにでもありそうな銀色の犬用のごはん皿を指差した。
千華子さんがそのごはん皿を拾い上げる。
「よしよし、全部食べたわね。」
満足そうに呟いたら、僕の方を向いた。
「ちょっとこのお皿洗ってくるから、イヌスケの相手してて。」
そう言って千華子さんはいきなり玄関まで走っていき、僕をイヌスケのところに置いていってしまった。これが人生初の僕から未知への(未知から僕へは昨日しこたまされた)接触なのだけれど、そんなことお構いなしだった。
とりあえずイヌスケ(のいるらしきところ)と向き合ってみる。へっへっという呼吸音が聞こえる。唸られていないので、どうやら怒ってはいないようだ。恐る恐る手を差し出してみると、湿った鼻先が手に突撃してきた。ふんふんという鼻息が僕の指先にかかる。生暖かくて湿り気のある鼻息をひと通り指に浴びせかけられていく。
正直困惑したし、なかなかイヌスケが僕を嗅ぐのを止めないけれど、気が済むまで付き合おうと決めた。何をしていいのかもわからないし。
生暖かい鼻息のシャワーは、始まるのも突然だったが、止まるのもいきなりだった。止まったかと思うと、今度はおもむろに僕の両ふとももに圧力を感じた。まるで僕の匂いを嗅ぐのに満足した犬が二本足で僕に飛びついてきたような、犬の体の重みから出来たような圧力だった。
そんな重みを感じながら、自分のジーンズに砂色の肉球柄がスタンプされている様子を見ていると、僕の脳裏には茶色のどこにでもいそうな雑種犬の姿が思い浮かんでいた。
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