うつる
大黒 太福
うつる
「ねえ、最近流行ってる怖い話、知ってる?」
「ひょっとして、例の『うつる』やつ?」
「そうそう。ある女の子が、友達から怪談を聞くの。なんでも、この怪談を聞くと呪いにかかって、何かにうつって死ぬんだって。うつるってどういうことなのか尋ねても、友達は答えてくれない。友達も知らないから答えられないの。ただ、呪いから助かる方法があって、それは同じ話を別の人に教えるだけ。でも女の子は誰にも話をしなかった……そして、次の日、死んじゃった。それから、おかしな噂が流れるの。女の子はなにかに『うつって』死んじゃったんだって」
「あ、似たような話……私もこの前、友達から聞いたかも!」
「私も私も! ショート動画でおんなじ話してる人がいた」
「話によって、男だったり、女だったり、子供だったり、大人だったりするけど、とにかく、話の内容は大体同じ。怪談を聞いた人が、何かうつって死んでしまう。誰かに話せば助かるのに、みんな話を信じないから助からないんだ」
「なんかさ、現実でこの話聞いた人も、同じ呪いにかかるらしいよ」
「やだやだ、みんな死んじゃうじゃん」
「でも結局、何がうつるのかな。この話っていろんなパターンがあるけど、肝心なところはどの話でもわからないんだよね」
「でもさー、私、思うんだけど、あれってインフルエンザってオチじゃないの?」
「え、なにそれ。全然怖くないじゃん」
「いやいや、インフルだってめっちゃ怖いっしょ」
「怖くないよー。せっかく怖い話してたのにー」
きゃはは、と甲高い笑い声が混じった会話が、隣の席から聞こえてくる。ショッピングモールのフードコートで、女子高生たちがクレープを片手に駄弁っている。否応なしに届く声を耳にしながら、男はラーメンを食べ終えた。営業回りを終えて、遅めにありついた昼食だ。
のんきな女子高生たちを羨ましく思いながら、男は鞄を手に取って、すぐに席から立ち上がった。残念ながら食後のコーヒーで一服する時間もなかった。月末ということで、午後も取引先を訪問する予定が詰まっていたのだ。
駐車場に駐めていた社用車へ乗り込むと、エンジンをかけて、ショッピングモールを後にする。運転席に座った時点で、もう彼女たちの話などすっかり頭から抜け落ちていた。いま考えていることは、取引先の石頭をどう説得して、新商品を購入させるかである。今月のノルマがやや足りていない。
車道に出ると、一台のタクシーの後ろにつける形になった。どうやら同じ方向に進んでいるようで、しばらくの間、タクシーの背中を追いかけることとなる。車を運転していると、こういうことは時たまある。ずっと同じ方向に進んでいる見ず知らずの相手に、妙な親近感を覚えたりもするものだ。
タクシーは、空車の赤文字が主張する通り、後部座席に客の姿はない。座席越しに見える運転手も、どうやら手持ち無沙汰なようで、ひっきりなしに左腕を動かしている。
そのことを、初めのうちは何とも思っていなかった。ずっと運転していると肩が凝るものだ。腕ぐらい動かしたくもなるだろう。だが、赤信号で止まって前方に視点を集中させていると、ある事実に気がついた。
――タクシーの運転手がずっと頭を掻いている。
座席の隙間から見える運転手の姿は、中年男性のように思える。運転手は白い手袋をした左手で、ゴシゴシと頭を擦っているのだ。一旦、頭から手を離したと思った途端、手を戻してはまた頭を掻き始める。その動作を幾度となく繰り返していた。見ただけで、強い力を込めて頭を掻いているのがわかる。
それをぼーっと眺めていると、いつしか男も自分の頭に手を伸ばしていた。
何だか無性に頭が痒い。髪は毎日洗っているし、痒みを覚えるような病気もない。こんなに頭が痒くなることは滅多にないのに、じわじわと疼きが頭部全体に広がっていく。
これは
そう――きっと、うつったのだろう。そう思ったら、先ほど女子高生たちの話していた怪談を思い出してドキリとする。
よくある、そして実につまらない怪談話だった。話を聞くと呪いにかかって、それをまた誰かに話さないと助からない。いかにも、といった内容だ。古くは不幸の手紙からチェーンメールまで、どの時代でも流行るありふれたタイプの怪談だ。
まさか自分も呪いに……と一瞬だけ考えたが、男は思いつきを否定する。そんな話で死んでしまうなんて、現実的にあり得ない。
それに実際に頭を掻いていると、気分が良く、痒みが治っていくのも感じていた。
しかし、どうだろう――瞳にそれが
それ自体は人間の生理現象である。欠伸などの眠気でもそうだし、食欲もそう。誰かが美味しそうに物を食べているのを見ると、腹が減って仕方がない。だからコマーシャルだって成り立っている。他人の行動を見ただけで、確かに自分が乗っ取られることがあるのだ。
ふと考える。だとしたら、あの怪談も、あながち中身のない話ではないのかもしれない。怪談の中で、肝心の『うつる』の内容がわからないのは、あらゆる可能性が考えられるから、ということはないだろうか。
食欲がうつって、喉を詰まらせて死んでしまうかもしれない。
眠気がうつって、足をすべらせて死んでしまうかもしれない。
呪いは姿形を変えながら、どんどん他人にうつっていく。本質は何だったのか誰にもわからない。ならば、痒みで死んでしまう人間だっているのでは……とまで考えて、男は首を横に振った。馬鹿馬鹿しい考えだ。こんな怪談話はとっとと、頭から振り払ってしまわなければ。
考え事をしている間も、タクシーの運転手は何度も何度も左手を頭に持っていく。
その度に、男の頭部で痒みが暴れ回る。タクシーの運転手がしているように、自分も左手を頭に当てる。爪を立てて激しく頭を擦ると、せっかくセットした髪の毛がどんどんと乱れていくが、裏腹にサッパリする気持ちも感じていた。
右手だけでハンドルを操作しているため、時折、車がフラついた。対向車線の車にぶつかりそうになって、慌ててハンドルを切ることもあった。顔を横に向けて視線を外にやると、不思議なことに痒みが和らいだ。やはり視界から受け取った情報が痒みの原因に違いない。
それでも、一度湧き上がった痒みが完全に治まるわけではないし、なにより運転中だ。後続車も対向車も走っているし、歩行者や自転車もいる。それぞれが行き交っている状況で、ずっとよそ見をしている訳にもいかなかった。だからといって顔を前に向ければ、運転手の姿が視界に入り、痒みに意識を持っていかれる。
どう考えても異常だった。いまや強烈なほどの痒みが、頭部を支配していた。両手で頭を掻きむしりたい衝動をいつまで抑えておけるだろう。一体、眼球からどんな電気信号が脳に送られれば、これほどまでに痒くなるのか。
かゆい、かゆい、かゆい、かゆい。時間の経過とともに、止めどない痒みは頭部から溢れていって、首、胸、腕、腹部、そして脚部まで、あっという間に全身を浸食してしまう。
車をどこかに停めなければ。コンビニでも何処でもいい、なんなら路端でも構わない。車を停止して、全身を掻きむしらなければ気が済まない……それなのに、いつの間にか車はタクシーを追いかけて橋の上に乗っていた。
これは怪談なんかじゃない、たいしたことじゃないという気持ちが、判断を遅らせていた。今でさえまだ、怪談を真に受けて橋の上で車を止めたりしたら、大渋滞を引き起こす――という至極常識的な思考が、男の決断を引き留める。
逃げ場はどこにもない。おまけに車列の動きは随分と遅い。止まることこそないのだが、時速は三十キロも出ていない。長い橋の終着点もまだ見えない。
遂に唸り声を上げながら、男は両手で体を掻きむしった。橋の上をまっすぐ、ゆったりと進んでいるという状況が、遂に彼の両手をハンドルから離させたのだ。少しぐらいハンドルから手を離しても大丈夫だと、脳に住む悪魔が囁く。
爪を体に食い込ませて、力任せに引っ掻く。
辛い、かゆい、苦しい、かゆい、痛い、かゆい!
あまりにも不快な痒みの苦しみと、肌をかきむしった後の爽快感。それらが交互にやってきて、男は自分の腕を止めることが出来なくなっていた。腕や胸を、安物のワイシャツが破れるほどに力を込めて引っ掻いた。肌は真っ赤になって、ついに血も吹き出てくる。それでも肌に爪を食い込ませて切り込みを入れると、どうしようもなく気持ちが良かった。
そんな状況でも、なんとかわずかな理性がアクセルとブレーキを操作して、車は橋の終点が見えるところまで前進していた。
橋を降りてすぐに、信号交差点がある。信号は黄色に変わる直前で、安全運転をしている前方のタクシーは行儀良く停止線で止まった。
まずい。止まる。そうなったら停止中は、ずっと痒さに苦しむことになる。このままでは、いよいよ頭がおかしくなってしまう。
しかし次の瞬間、赤信号の下に右方向の矢印が灯った――つまり、右折はできるということだ。男の選択肢はひとつしかない。歯を食いしばって、痒さを我慢して、ハンドルを強く握る。タクシーと違う道を行くことができれば、この痒みから逃れることができるはず。
わずかな時間だが、痒みに耐えるのは男にとっては大いなる苦痛だった。必死に食いしばっていた口を開いて、大声で叫んで、気を紛らわす。口の中にも血の味とともに痒みが生まれていた。
だが、男は遂にやりとげた。車が曲がって、タクシーが男の視界から外れていく。これできっと痒みが治まるはず。そんな期待を胸に、右折レーンに入ってすぐのことだった。
轟音と、大きな衝撃が男を襲った。
最初は何が起きたのか分からなかった。ただ、衝撃が後方からやってきたことと、車が前方に押し出されているのは理解した。車両ごと全身が揺れたとき、彼はルームミラーに
後続車の運転手が、全身を掻きむしっている。
追突されたのだとすぐに理解した。それも、かなりの勢いで。
次に彼が見たのは、今まさに対向車線からやってきた大型トラックで、すでにフロントガラス一面を埋め尽くす距離だった。あっという間に接近したのは、自分の車が衝突の勢いで投げ出されているせいか、相手が黄色信号を突っ切ってきたせいか。いや、両方だろう。
今この瞬間も、怪談はどこかで誰かに
うつる 大黒 太福 @otafuku_og
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