第五章 快晴 10
逃げ場を失った私に突然、鈍い音が伝わる。
それと同時に、私の身体が座席に少しだけ沈み込む感覚になった。
固く閉じていた目を開ける。
通路に何人かの足があった。
視界の端に紺色の靴下を履いた一本の白い足が高い位置にあることが見える。
「おじさん、なにしてんのー?」
声の主は、愛衣ちゃんだった。
友達の声を聞いた安心感から、完全に顔を上げると、愛衣ちゃんの足がおじさんの左側頭部脇の座席にめり込んでいる。
愛衣ちゃんの隣には、ハルさんと園山君の姿があった。
ハルさんは涙目の私に「もう大丈夫だよ」と微笑んだ後で、
園山君は困惑した表情で私に小さく手を上げた。
私の身体から手を離したおじさんは、黒いビジネスバッグを我が子を抱くようにしている。
おじさんの挙動不審な姿に、苛立ちを隠せない様子の愛衣ちゃんは、灰色のネクタイを引っ張り上げた。
ビジネスマンの身嗜みとは違う、予想外の使われ方をするネクタイは、愛衣ちゃんの手と合わせて、おじさんの首を無惨に締め上げていく。
「だからさー、なにしてんの?って。この子、私のかわいい友達なんだよね。あんまり、ふざけたことしていると……返答によっては、殺すよ?」
「ち……ちが……う……俺は……なに……も」
「はあ? あんた、なにしてたの? しらばっくれるなら、本当にやってやるけど?」
「は……はな……せ! クソ……ガキ」
「クソガキ? あー、本当にやってやろうかな……このクソオヤジ!」
二人の攻防の中で「お客さん、トラブルですか? 困りますよ。やめてください」と、車内アナウンスが入る。
園山君が運転席へ駆け寄って、両の手を突き出した後、身振り手振りで苦笑いしながら話している。
首をネクタイで締められていても、おじさんは自身隣に存在する、愛衣ちゃんの足と蹴り上げたスカートの中を凝視していた。
視線に気付いた愛衣ちゃんは、ネクタイを掴んだまま膂力で車内へと引きずり下ろしていく。
細く見える腕のどこに力が隠れているのか不思議だった。
愛衣ちゃん、ハルさん、私、園山君の順番で降車する。
歩道に連れ出されたおじさんは、捻り上げられた腕を背中に回されて、脂汗をかいて苦悶の表情を浮かべている。
おじさんは、痩せ型で筋肉も少ない体をしているけど、成人男性を圧倒的に制圧している愛衣ちゃんの姿が頼もしい。
愛衣ちゃんは空手以外の武術にも精通していると、先日ハルさんが言っていた。
背後でバスの扉が閉まると、私たちを気にすることなく、バスは新たな乗客を求めて次の目的地へと走り去っていく。
「――大丈夫? ごめん、大丈夫じゃないよね」
ハルさんの髪が風に揺れている。
恐怖心が未だに燻ぶっているから「……うん」と、一言返すことに精一杯だった。
「冤罪だ! 冤罪! クソガキが……! う……訴えてやる!」
首の締付けを開放されたおじさんが、先程までの圧迫されたことの非難を大声で叫んでいる。
大人の大声と制圧されているという見慣れない光景に、道行く人は好奇の目を向けているけど、特に関わろうとしてくる人はいなかった。
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