第五章 快晴 9
隣席から鈍い音がした。
独特の匂いが放たれて、横に視線を向けると、背後にいたはずのおじさんが座っている。
私は、いつも一人がけの席に座る。
今日は神社の鳥居を見ていたこと、運転手さんの視線から逃れるために、近くにあった二人がけの席に座ってしまった。
どうしよう……と思ったところで、どうすることもできない。
怖くて
草食動物のように離れた目を見開いて、口元は餌を欲しがる池の鯉で、何度も何度も開閉している。
白髪混じりで薄くなっている頭皮は、脂と車内灯によって光沢を出していた。
あまりの恐怖に思わず目を閉じた。
鼻息の荒さも隣にいると、余計に感じてしまう。
私の聴覚に粘って離れない声が響く。
「――本当は……嫌……じゃない……だろ?」
え……どういう意味……?
「嫌な振り……している。本心……本心、嬉しい。そうだろ?」
違う……勝手に決めつけないで……。
「なああ……なあ、ほら……」
カバンの持ち手を強く握る私の指先に、おじさんが指を絡ませてくる。
熱を帯びている指の生温かさが、おじさんの心情を私に伝えてきた。
これは……悪意。
天音さんの言っていた『悪意』だ。
……怖い……怖いよ。
隣から放たれる、おじさんの吐息は耳元を攻撃して、いつもより現実味を与えてくる。
衣擦れの音も耳に入ってきて、身体を密着させることに必死になるおじさんがいた。
窓際に逃げようとする私は、どこにも逃げ場は無いのだと痛感する。
塵程度の勇気と吊り革から垂れる切望の糸に、私の頸椎を引っ張り上げてもらう。
車内のルームミラーに助けの目を向けても、運転手さんは一向に気が付く気配がない。
この時間帯、普段の傾向からバス車内に乗り込んでくる人はいないと思う。
視線を窓に当てると、もう少しすれば私の降りるバス停になると確認した。
早く……早く着いて。
恐怖感から再び目を瞑っていると、おじさんの指が、私の指から離れていくことを感じた。
気持ち悪さから急激に開放されたのも束の間、今度は太ももに強烈な気持ち悪さを感じる。
太ももに触られる指の感触は、毒蜘蛛が這い上がってきたと思えるほど、嫌悪と悪夢が同居していた。
嫌だ……嫌だ……。
触らないで……。
指先が何かを探すように、スカートの中にゆっくりと入ってくる。
私はスカートに触れた手を必死で押さえつけた。
「おおい。なんだよお……ほおらあ……ほおら」
おじさんは気味の悪い言葉を並べる。
私は侵入しようとする手を力いっぱいに押さえた。
私の力は、おじさんの侵攻を鈍らせても、止めることができない。
声を聞きたくないから、耳から心に侵入されないように祈るしかない。
攻防の中で窓の外を見ると、見慣れたいつものバス停へ到着した。
扉の開閉音と同時に、外の世界へ逃げ出そうとした。
でも……私の身体をおじさんの身体が膠着させて身動きがとれない。
逃げないと……この場から逃げないと。
「は……離してくだ……さい。降ります……降ります……」
私は何度も言葉を伝える。
届かない祈りを頬を伝う涙と必死に捧げていた。
怖い……怖い……。
助けて……助けて……。
天音さん……助けて。
天音さん……天音さん……。
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