第五章 快晴 8

 明瞭と不明瞭が私の脳内を撫でる。

不確かなことは、不確かなままで置いていこう。

それで……良いと思う。

直立不動の傀儡になっていると、ルームミラー越しに運転手さんからの視線攻撃を受けた。

運転手さんの運行計画を乱したらいけないと、速やかに近くの座席に腰を下ろす。

車内の空気は、肌寒いくらいに冷えていたけど、私の心は快晴と並んで温かい。


 でも……窓の外を眺めている私は、黒雲が広がっていく様子に気が付いた。


 窓に映る人の姿……信号待ちのバス車内を髪の薄いおじさんが移動している。

どこか緩やかな動きをする存在は、爬虫類の動きに酷似していた。

天音さんのことを考えていたから、注意力を向ける暇なんてなかった。

おぼつかない足取りで、おじさんは私の背後に座る。

天音さんからの言葉に浸って、自身を見つめ直したり、良い心持ちで過ごしたいのに、おじさんの出現によって簡単に……粉々に打ち砕かれた。


 恐怖の時間が始まってしまう。

開始の合図は、私の鼓動音を発端とする。

綺麗で厳かな神社の本坪鈴の音色とは、まったく違う。

地震や他国の軍事行動など、緊急時に鳴り響く警告音に近い。

背後の座席に体重を預けた雰囲気が空気を伝ってくる。

私の背後で、おじさんが深く鼻腔から吸入するたびに、私の何かが奪われているような感覚になった。

そうして、おじさんの中で『何か』に変換されて、私の髪の毛や首元に『何か』が襲いかかってくる。

降りかかる厄災とも思える息吹に、避けるすべなんてなくて、いつも通り……ひたすらに我慢するしかない。


 でも……それで、いいのかな。

私は『変われた』と思っている。

天音さんと出会ったことで、私は変われた。

この先もおじさんに虐げられることは、私にとって嫌で嫌で堪らない。

行動しないと何も……何も変わらない。

私は一呼吸して、唾液を飲み込んで決めた。


「――や……やめて……ください」


 学生カバンの持ち手を強く握りしめて、背後にいるおじさんに行動を止めるように訴えた。

蚊のような声量かもしれれない。

いつも通りに私の肩と髪の毛に触れて、行動が大きくなっていく。


「やめて……ください。触らないで……ください。め……迷惑です」


 再度、動作を止めるように告げると、不自然すぎる深呼吸も舐めるような手の動きも一切無くなった。

よかった……。

『変わらないことはないよ』

天音さんの言葉が脳裏に過ぎった。


 緊張状態にあった身体の筋肉の繊維が一本一本解けていった。

おじさんとは対照的であった私の浅い呼吸が、自身の言葉の緊張から開放されて、安堵と共に車内の冷気を吸い込んでいく。

窓の外の風景が、先程よりも透明感を増している。

私は、天音さんが言うように大丈夫。

勇気を持って言えるんだ。


 そう思った。そう思ったのに……。


 自身の勇気があだとなって、身に降りかかる恐怖を増長させるとは、少しも思わなかった。

私をさらなる不快感と恐怖感、漆黒の深海へと引きずり込むこと。

私は……少しも想像することができなかった。


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