第四章 香雨 9

「なあ……君、娘さん?」


 気の抜けた声がしてから、瞼を恐る恐る開けると、何かを咀嚼しながら男性は首を傾げている。

細く垂れた目が印象的な顔は、どこか現実味を帯びていない気がした。


「お……お母さんは……どこですか? な、なにをしたんですか?」と、虚勢にもならない私の視線を男性に突き刺した。


「は……? あっちにいるけど?」


「なにか……したんですか?」


「は?……いや……なにも?」


 答えあぐねる男性の背後から、昔から聞いていても、最近は聞くことが少なくなっている声がした。

「ねえ……なに、騒いでいるの?」と、ダイニングから顔を覗かせる粗雑な格好をした母の姿がある。

その姿を確認すると、全身の硬直していた筋肉が緩和されていく。

男性の手元を見ると、少しの湯気が立ち昇っている容器を二つ持っている。

コンビニ惣菜が温められた恩恵で独特の強い香りを放っていた。


「……で? 娘さん?」


「あっ……はい。明夏といいます。すみませんでした……勘違いして……」


「いや、いや、マジでビビったから。いきなりなんだよって……!」


「ごめんなさい……母の……お知り合いのかたですか?」


「……ああ。まあ、そんな感じ。俺、西野っていうから、よろしくー!」


 母はリビングへと戻ったようで、廊下に二人でいることも気まずいし、常にニヤニヤとした表情を向けてくることが信用に欠ける。

年齢は、一見すると二〇代後半くらいだけど、どことなく落ち着きのない挙動が幼さを助長しているようにも感じる。

園山君も調子がいい感じだけど、彼からは優しさや誠実さを時々感じるから、目の前の男性とは、まったく違う。


「え、なに? なんか質問ある感じ? 俺に興味ある感じ?」


「いえ……特に……ないです」


「うえー、ストレートだねえ。そんなんじゃ人に好かれないよ。君のママの言う通りだね」


「え……?」


「いつも下ばっかり向いていて、黙っているから愛想もない。学校にも行かないってさ。でも、学校は行ってるんだ?」


「あなたには……関係ないです」


 湯気を払いのけるように、男性の脇を抜けていく。

後ろから何かの言葉が聞こえてきたけど、内容が脳内に入り込むことはなかった。

ダイニングに入る前に、開け放たれたリビングに視線を向けると、お酒やら惣菜がテーブルに並べられていた。

母は、こちらに目を向けることもなく、缶ビールで日中に溜まった蒸し暑さを解消している。


 ダイニングに入ると、テーブルの上にコンビニの袋や惣菜の包装材などが広がっている。

買い物袋を床に置いてから、包装材で隠されてしまったテーブルの顔を拭ってあげた。

制服の上から桃色のエプロンを身に着けて、料理を開始する。

夕食の献立は、鮭のムニエル、ジャーマンポテト、ほうれん草の胡麻和え、お味噌汁。

ダイニングから二人の楽しげな声が聞こえてくるけど、料理中にこちらの部屋に入室してくることはなかった。

私は料理中に一考していた。

二人に、料理を運んだ方がいいのかな……。

お酒の席というものは白米などは食べずに、お酒に合う料理と酒類で過ごすという知識がある。


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