第四章 香雨 8
別れの時間が近付いてきた。
昨日もそうだったけど、遅くなったら危ないからと天音さんに帰りを促される。
もっと話していたい気持ちが私にはあって、強く後ろ髪を引かれる。
今日も同じだと思っていたけど、帰宅を促される前に違う言葉を伝えられた。
「ねえ、明夏ちゃん。お願いがあるんだけど」
「お願い……ですか?」
「日曜日、会えないかな?」
「――はい、会えますよ」
「じゃあ、夕方くらいに来てくれる?」
「わかりました」
脳内に印字された天気予報を毎日、何回と更新している。
雨女と言われてからの癖にもなっていた。
その影響で突発的な豪雨以外は、ほとんど防ぐことができている。
もちろん、カバンに忍ばせている折りたたみ傘の用意は怠らなかったけど。
最新の情報によると、明日の土曜日は曇り空で降水確率は低い。
色々な情報媒体で確認しても結果は同様だった。
代わりに日曜日は、一日中雨の予報で、夕方から夜にかけて大雨が降るとされていた。
天音さんは、雨の日以外は……どこで何をしている人なんだろう。
帰り道に疑問を携えて、頭上からの傘を打つ音色とともに考えていた。
疑問に対して、あまりに多い答えが脳内を行き来していたけど、鼻腔に流れてくる水分の香りによって思案をやめた。
日曜日に……聞いてみよう。
降り注ぐ雨から逃げるために、家路へと急いだ。
傘の雫を勢いよく払い除けた後で、玄関の扉を開けると、艶やかさを失ったパンプスと真っ赤なコンフォートサンダルがある。
どちらも斑点状の水滴が表面に留まっていた。
母のパンプスは揃えられているけど、サンダルは乱雑に脱ぎ捨てられている。
私は自身のローファーとサンダルを玄関における正式な姿へ変えて、室内へと足を入れていく。
買い物袋の重量が増したように感じて、それに伴って足取りも重くなる。
特に物音のしない家中の様子を窺いながら歩みを進めていた。
突如としてダイニングからリビングへ横切ろうとした男性が現れて、私の身体は『だるまさんがころんだ』になった。
暗がりの廊下で男性は両手に何かを持って、私を凝視している。
知らない人。
この家で男性を見ることなんて初めてだったから、恐怖心が一気に増大していく。
不審者? 強盗? 犯罪者?
一歩も動けない。
一歩も動けないのに、雫を纏った買い物袋を握る手の力だけは強くなった。
ダイニングとリビングから洩れている光によって、男性が小柄で茶色いパーマ、赤い短パンに白いティーシャツということがわかる。
両の手を何かが塞いでいる状態で、私にゆっくりと近付いてくる。
え……お母さんは? お母さんは、どこ?
声にならないけど、心で叫んでいた。
近付いてくる男性が怖くて、目と唇を力強く閉じる。
恐怖から逃れるために、精一杯の力で。
目を閉じたところで、目の前の状況が変わるわけないのに。
何かの抵抗や行動に移さないと状況は変わらない。
逃げないと……逃げないと……。動かないと……動いて、動いてよ。
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