第三章 勇気

第三章 勇気 1

 朝には寂しい雨の音が聞こえる。

洗面台に立つと昨日の泣いた影響で目が少し腫れていた。

母は私が朝食やお弁当を作っている時に出勤していく。

夕食で手つかずだったハンバーグを冷蔵庫から取り出して温め直した。

お肉の旨味を口に運んでいると、母にも食べてもらいたかったと悲しくなる。


 今日は、早くに神社へ向かって天音さんを待っていようと思ったけど、私が鳥居を通る時には、バス停に天音さんがいた。


「おはようございます。傘、ありがとうございました」と言ってから和傘を返す。


 昨日は暗くてよくわからなかったけど、和傘をあらためて見ると、色鮮やかで優雅な感じが私に不釣り合いだと思った。


「おはよう。体調、大丈夫? 昨日は、ずいぶん濡れていたから」


「はい……大丈夫です。あの……天音さんは?」


「うん、大丈夫。私は、少し雨に打たれるくらいがちょうどいいんだよ」


「そんなことは……ないです」


「――お母さんとは……あれから話した?」


「いえ……帰った時、リビングに居ましたけど……」


「そっか……難しいよね、親子関係。今日は、学校に行って話せそう?」


「わからないですけど……やってみます」


 怖いという思いも逃げ出したい思いも確かにあるけど、自身が望むことだから精一杯やってみよう。

私には何も無いけど、私のことを励ましてくれる天音さんがいる。

意識はしていなかったけど、私の心の支えになっていた。

嘲笑う恐怖に白旗を振って頭を下げることはないと思うし、追いかけてくる逃避に心を奪われることもない。


「勇気を持って行動したら、応えてくれる人はいるからね」


「――いますか? 私、暗くて……いつもうつむいているし」


「絶対……とは言えないけどね」


「……やっぱり、そうですよね」


「変わりたいと思って行動に移す。現状が変わらなかったとしても『なにも変わらない』ということはないよ」


「どういう……意味ですか?」


「――自分自身が変わったじゃない」


「……確かに」と、数日間飽きずに音を奏でている雨空からの贈り物を私は見つめた。


 行動前と後で、結果が伴っていなければ意味がないと思っていた。

やっても変わらないから無駄だ、と決めつけていることが多い。

それは自身を守る理由と二の足を踏む理由で存在していて、言い訳を探すことに必死になっている。


「この世の中に『変わらないこと』は、ないからね」


「はい」と、返事をするとバスが向かってきている。


「天音さん……いってきます」


「いってらっしゃい。明夏ちゃんなら大丈夫だよ」


 挨拶を交わした後でバスに乗り込む。

天音さんがくれた温かく穏やかな気持ちでいたのに、深い暗雲と高い城壁が迫ってくる。

脂を帯びて粘着質の黒い感情を持った、髪の薄いおじさんが私の背後に回る。

いつもの鼻息が爽やかな気持ちを奪って、いつもの吐息で狼が藁の家を吹き飛ばしていく。

時間を変えたくても、学校に行くには、この時間のバスに乗るしか方法がない。

我慢することしかできない私は、心の中で何度も何度も大声で叫んでいた。


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