第二章 憂慮 9

 一時は緩やかに落ち着いた涙だけど、先程の出来事を天音さんに話していると、溜め込んだダムが決壊しそうになる。

私の涙は体外へと静かに放流を始めた。


「そう……そんなことがあったんだ」


「――私が悪いんです……お母さんの言う通り、学校に行ってないから……」


「悪くないよ。勇気を出して、学校に行ったじゃない。明日も頑張ろうとしている。

……怖いけど、勇気を出して、小さな手を震わせて、一人で学校に行った明夏ちゃんは格好いいよ」


「――高校のお金を出してくれているのは、お母さんだから……学校に行かない私を見て、言いたくなる気持ちもわかります。生活費も……お母さんが、お金をくれるから、ご飯を食べれます……」


「親が子どもを育てるために、お金を使うことは当然だよ。子どもは、一人で生きていけないから。子どもの生活は保障されて、愛護されなければならないって法で決まっているの」


「悲しかったけど……お金は大切です。お母さんも一人で私を育てているから……大変なんだと思います」


「それは、お母さんが選んだ道だよ。事情は知らないけど、一人の大人が選択した道。人間だから辛いことも悲しいことも苦しいことも……間違えることもある。それでも……子どものことは、しっかりと守らないといけないの」


「――私は……一般的な家族みたいに話したかっただけなんです。でも……こんなことになるなら……」


「そうだよね……そう、考えてしまうよね」


「――私のこと嫌い?って聞いたら……『そうね』って言われて……」


 太腿の上に置いている、雨粒が伸びている私の手を優しくも力強く天音さんは握ってくれた。


 温かいな……。人の手って……こんなに温かいんだ。温もりは、どこか遠くの異国に行ってしまって、二度と帰ってこないんだと思っていた。

私の顔を覗き込んだ後で、天音さんは眼前の雨に視線を向けて哀しい表情をしている。


「残酷だけど……世の中には、子どもを愛さない親もいる。虐待する親もいる。それは……もう親じゃないの。血の繋がりがあるだけ……一方的で理不尽に、子どもの心や体を傷つける者は、親じゃない。ごめんね……明夏ちゃんのお母さんが、そうだとは言わないけど……」


「いえ……私は……わかりません、自分の気持ち。嫌いになれたら……楽なのかも……しれないけど」


 幼い頃から、世の親子と比べて、母とはあまり話さなかったように思う。

朗らかな父は、いつでも笑っていて、いつでも優しかった。

離婚の理由は知らないけど『ごめんな、明夏。お父さん……お父さんになれなかったよ……ごめん』と言って、涙ぐんでいたことを覚えている。

引っ越してきた時、大好きなお祖母ちゃんと暮らすことは嬉しかったけど、父と暮らせないことは悲しかった。

お祖母ちゃんが亡くなってからは、家で私が声を出すことは、ほとんどない。

中学校で『雨女』と言われて孤立してしまってからは、誰とも話せなくなっていた。

家族、友達。話せる相手がいないことは、私に孤独を与えたけど、安らぎを与えなかった。


「私……お母さんに……学校に行けたよ……って言いたかっただけなのに。一緒に、ご飯食べたかっただけなのに。なんで……こうなったんだろう……」


「明夏ちゃん……」


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