第一章 梅雨 9

「……ないです」


「そっか……でも、明夏ちゃんにとって、それは本心?」


「え……?」


「――明夏ちゃんは、その手が震えているのに、学校に行こうとしている。

懸命に頑張っている証だよ。それは、一つの目標でもあるんじゃないかな……」


「……わからないです」


「――学校が怖くなったのは、同級生に『雨女』って言われてから?」


「はい……中学生の時に言われて……周りの子たちも笑っていました……。

それから、雨が降ると『雨女のせいだ』って、言われるようになって……。

今まで仲良かった友達も私から離れていって、私は一人になりました」


「そっか……さっきは否定したけど『雨女』が辛い記憶なら笑うべきじゃなかった。ごめんね」


「いえ……気にしないでください。

……高校に入学してから、頑張って友達を作ろうとしたんですけど、人との関わりが怖くなって……話しかけることが怖くて」


 表の顔は笑顔をくれるのに、裏の顔は絶望の淵へと追いやるようなことをする人がいることを経験した。

子どもだって、大人だって一緒。

偽りだらけの笑顔に何の意味があるんだろう。

円滑な人間関係に必要……?

相手と築いた信頼関係を失っても……?

それって、相手に対しても自身に対しても失礼なことだと思う。


「一人の……たった一つの言葉で、人の心は簡単に傷ついてしまうね。

体の傷は月日をかければ治るけど、心の傷は治りにくいものだから……。

でも、それを繰り返していく内に、人は成長できるんだよ。お互いにね」


「成長……私は、できていないです。学校にも行けてないし……」


「学校に『行かないといけない』って固定観念だと思う。無責任な発言と思われても、私は行かなくても『生きていける』って言うよ。

心を殺してまで……行くところじゃないんだよ」


 学校に『行け』『来い』周りの大人は口を揃える。

中学校三年生の時も学校に行けない日が増えていて、前を向けない私に母も教師たちも同じ言葉を言った。綺麗で汚い単語をトランプみたいに並べてくるだけで、誰も理由を聞いてくれない。

行動だけがあれば、心なんてどこにあってもいいのだと思わされた。

私は、それが悲しかった。

本心はどこにあるのか……わからずに立ち止まっている私に天音さんは言葉を続けた。


「――明夏ちゃんが、学校に行きたい理由ってさ……きっと……」


『学校に行って、友達が欲しいんだよ』


 天音さんから言われた言葉に動揺して、水溜りに映る木々の朧気な姿を見つめたまま硬直した。

そう……私は、学校にただ行きたいわけじゃない。

私は、学校で友達と過ごす時間が欲しかったんだ。

家でも学校でも一人ぼっちの私だから。


 バス停で一時間程、過去の話をしてから、まだ雨が強くなる中を一人で歩き出した。

天気予報は、明日も雨。明日も会えるかな。

空が灰色に包まれて雨が支配する中、遠くに見える青の隙間を目指して呟いた。

お祖母ちゃん……私、友達ができたよ。

一人きりで歩道を歩く中で、帰り際の出来事を回想すると、嬉しさが込み上げてくる。

私は、その言葉を信じてみようと思う。

それは、バス停から外に出て、傘の先端を曇天に突き刺すと、背後を刺激する天音さんの綺麗な声だった。


「明夏ちゃんにとって、今が明るい夏じゃなくても、いつか明るい夏を与えられる人になればいい。

明夏ちゃんなら……きっとできるよ」


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