第二章 憂慮

第二章 憂慮 1

 私は、震えながら立ち上がった。

生まれたばかりの小鹿ほどではないけど、身体が微動していることが私の脳内に返ってくる。


「大丈夫……? 無理しないでね」


 ベンチに座る天音さんが微笑みと心配の表情を重ねている。


 複雑な心境から生まれた顔でさえも美しさは健在だ。

昨日と今日の朝、天音さんと話したことで、優しく背中を押されている。


「大丈夫です……ありがとうございます」


「うん。いってらっしゃい」


 手のひらが私に向かって左右に振られている。


「あっ……いってきます」


 出立しゅったつの挨拶をされたのは久しぶりだ。

学校へ向かうことに緊張しているけど、心が温かさで満たされていく感覚を思い出す。


『いってきます』


『いってらっしゃい』


 大切に想う相手にしか使わない言葉だと思う。

私は日本の美しい言葉が好き。

これからも大事にしていきたい言葉の一つだ。


 バスに乗り込むと「今日は、乗るのか……」という運転手さんの感情が垣間見える。

挨拶をしてから、後ろから二番目の座席に座る。

髪の薄いおじさんが席を移動してきて、やはり私の後ろに座った。

一番後ろの広い席に座ろうと思ったこともあるけど、隣に座られる恐怖が強くて諦めた。

おじさんの動きを気配や座席の軋みで想像する。

私の座る背もたれの上部にうつぶせるような形で腕を乗せているようだ。

鼻息を髪に当ててきて、肩にはおじさんの腕が垂れている感触が伝わってくる。

呼吸が荒くなっていて、すごく気持ち悪い。

車内には運転手さんも含めて、三人しかいない。

この時だけは、早く学校近くのバス停に到着してほしいと切に願う。


 窓を濡らす雨の中に一つの世界が存在していて、私を見つめている。

広大な大地を潤している水分は、天音さんの言う通り命を輝かせていた。

一つ二つとバス停を超えて行くと、路線図や時刻表が掲示されている標示柱しかない。

あのバス停は、古いながらも待合所があって、雨の日や快晴の日でも身を守ってくれる。

少し恵まれているのだと窓から景色を眺めていた。


 学校近くのバス停に到着した。

運転手さんにお礼を言って降車すると、蒸し暑さが下から上へと一瞬にして身を包んだ。

よく冷えていた車内は寒いくらいだったけど、首元に伝わる生温かい吐息が今も残っているようで、気分が悪くなる。


 濡れた路面を飛び越えて、昇降口を通過していく。

足取りは重くて、生徒から私の存在が少しでも見えないように身を小さくして進む。

自身の教室札を確認する視線は、入学してから二箇月以上経つのに、変な習慣になっている。

教室の扉は開いていた。

半数以上の生徒が登校している。

友達同士で会話したり、ふざけあっている同級生の教室に入っていくことが怖い。

学生の生み出す喧騒は、私に場違いという言葉を示す。

砂漠の真ん中に一人取り残された私は渇きを感じている。


 私の席は窓側の前から二番目。

学生カバンの持ち手を強く握りしめる。

騒がしい教室内を抜けていくことが怖い。

学校を五日間休んでいるから、好奇の目で見られることも怖い。

色が斑になってきている床を見たり、周囲の気配を気にしながら自席へと向かった。

向かったけど……私の席がない。


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