第一章 梅雨 7
「あの……昨日は、ごめんなさい。いきなり帰ってしまって……」
「気にしてないよ。私のほうが驚かせちゃったかなって……思ったけど」
御詫びの気持ちを示すために、学生カバンから神様にお供えした菓子とは別の箱を取り出す。
「これ……よかったら、食べてください」
天音さんは、私が片方の手に持っている開いた箱を見て「ありがとう。そっちの箱でいいよ」と、筍を模したチョコレート菓子を手に取った。
「うん、おいしい。普段は質素な物ばかりだから、甘い物が恋しいんだ」
柔らかい笑顔を見せてくれた。
よかった。喜んでくれて。
天音さんは私に箱を向けてきて、一緒にクッキーの軽い食感とチョコレートの静かな甘さを味わう。
なんかいいな……こういうの。
少しの楽しい時間は、バスが到着することによって暗雲へと切り替わってしまった。
行かないと……。立ち上がらないと……。
奮い立たせようとしても、動かない身体は誰かの傀儡だ。
バスの運転手さんに目を向けると「乗らないの?」という言葉はなくて、鋭い眼差しで問いかけてくる。
髪の薄いおじさんも同様に、こっちを見ているはずだ。
バスが遠ざかっていく。手を強く握りしめる。
太腿の上で少し震えている手に被さる熱を感じた。
天音さんの手だ。
「学校……行けない?」
「……はい」
「――怖い?」
「怖い……です」
「そっか……」
それ以上は何も聞かない。
よく鳴く雨粒とは対照的に、黙って隣に居てくれた。
私は過ぎ去って行ったバスが次のバス停に到着したと思われる頃合いで、疑問に思っていたことを口にする。
「あの……天音さんは……バスに乗らなくていいんですか?」
「私? 私は、雨宿りしているだけだから」
「そうなんですか……」
「雨の日は、ここにいるから……明夏ちゃんに会えるよ。晴れの日は、やることがあって来れないけど」
『雨の日』ということは、建築関係とか土木関係の仕事に従事しているのかな。
世の中の仕事に詳しくないから、わからないけど。深く聞きすぎることも失礼にあたると思った。
「――ずっと雨だね」と、天音さんがベンチから立つ。
降りしきる雨の一粒一粒を手のひらに集めて、細く白い腕が濡れていく。
その背中を眺めて、普段であれば言わない言葉を吐き出した。
「――私、雨女なんです」
「雨女……?」
「同級生に言われました。私も……そう思っていて……学校の行事などで、いつも雨が降ります」
振り返った天音さんは、なぜか嬉々とした表情を浮かべている。
「人間の中に、雨女なんていないよ。
人間に、そんな力は無い。私が保証するよ」
「でも……」
「雨女って日本に伝わる妖怪だよ。
それを行く先々で雨が降る人っていう意味に変えて、皮肉を込めたわけだよね。
学校の行事で雨が降るなら、全校生徒が対象じゃない? もちろん先生も」と、笑顔で言った天音さんは、さらに言葉を続けた。
「雨を降らせる者なら知っているけどね。
だから、明夏ちゃんは絶対に違うから安心して」
「……どういう意味ですか? 誰ですか?」
「誰ですか……と言われてもね。
うん、そうだね……知人の知人のさらに知人かな」
「それって……天音さんの知らない人じゃないですか」
そう言った後で、頬が緩んだことを自身で感じ取った。
笑っている。
いつ以来だろう……人前で笑ったのは。
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