第一章 梅雨 6

 私たちの間にある一人分の空白に座り直した天音さんは「大丈夫……大丈夫だよ」と、私の飛び跳ねた黒色の思いと髪を優しく撫でてくれた。

お祖母ちゃんも私が泣いている時に、いつでも優しく頭を撫でて抱きしめてくれた。

幼い頃、優しさに触れた記憶が蘇る。

お祖母ちゃんと天音さんの優しさは、似ている気がした。

急に頬を伝う水分。

涙……。

歯をくいしばって我慢しても、次々と溢れてくる涙は止まらなかった。

もう涙はでなかったはずなのに。


「誰にも言えなかったんだよね……」


 私の頭から離れた天音さんの指は細くて白い。

伸ばされた手によって、握手という行為が何かの証を求めていた。

私の手は、涙を押さえつけることに必死で、天音さんの手が持つ期待に応える方向には向かない。

涙と鼻水で濡れた自分の顔が鏡に映し出されなくても、ひどい顔になっていることが想像できた。

甘味を求める蟻のように、全身の血液が顔に集結している。

泣いている姿が急に恥ずかしくなって、雨の中、傘を差さないで走り出してしまった。


 振り返らない。

急に走り出した私を見て、おかしい子だと思っている。

きっと、そうだ。

朝に整えた髪は、数十秒で洗髪している時の潤いを持ってしまって、大気から生まれた水が私から生まれた水を綺麗に流してしまう。

それでも、走ることはやめなかった。


 しばらく走り続けて、家の近くにある坂に来たところで、乱れた呼吸を落ち着かせるために立ち止まる。

橙色のカーブミラーに、私一人だけが映し出されていて、雨粒が付着したミラーに存在する、もう一人の自分が私の心を覗き込んでいた。

雨と共に流れていく雫を不思議に感じる。

悲しみから溢れ出しているものじゃない。

悲しくもないし、辛くもない。

なぜ涙が止まらないんだろう。

全身に受ける雨が心地よかった。


 翌朝、普段より早めにバス停へと向かう。

神社へお参りする前に、バス停内に天音さんの所在を確認したけど、その姿は無かったし、神社にお供えしているチョコレート菓子も無くなっていた。

傘の端から落下していく雨粒を見ていると、鳥居の向こうにあるバス停に人がいる。

天音さん……。

昨日の自身の行動によって、足の筋肉へ伝える指令が遅くなる。

急に帰ってしまったことを謝らないといけない。


 道路を横断してバス停の前で傘を閉じようとすると「おはよう、明夏ちゃん」天音さんは、微笑んでいる。

「お……おはようございます」

昨日のこと謝らないと……。

喉から出てくるはずの言葉が詰まる。

きっと、朝食のご飯が邪魔をしているんだ。

右端には天音さんが座っていて、私が左端に座ることは昨日からの暗黙の了解になっている。

不意に隣からの気配を感じると、天音さんがてのひらを上に向けて差し出していた。

「手を乗せてみて」

天音さんの言うとおりに、戸惑いながらも手を重ねた。

温かい。

久しぶりに触れた人の温かさ……。


「私たち、友達だね」


「え……友達……」 

急に言われた言葉に対して、返事がなかなか見つからない。

でも……嬉しかった。

目の前の濡れたアスファルトが濃さを増していく中で、ゆっくりとうなずいた。

友達。

『雨女』という言葉から生まれた他人を不信に思う気持ちで友達を失ってしまった。

天音さんが友達と言ってくれるなら、私も友達になりたいと思う。

そう……思った。


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