第一章 梅雨 5

「ん……? そうだよね、人に名前を尋ねる時は、自分から名乗るべきだったね。

私は、あま……」


「あま……さん?」


「――ううん、あまね。天音あまねだよ。

よろしくね、明夏ちゃん」


『明夏ちゃん』そう呼ばれたことが、すごく嬉しかった。

照れていることを悟られないように、笑みとくちびるを口内に隠して静かにうなずいた。

いつからだろう。

名前を呼んでもらえなくなったのは。

それによって私は、私であるという自我同一性を保てなくなったのかもしれない。

「雨……止まないね。まあ、当然だけど」と、目の前に落ちてくる雨粒を眺めながら放った天音さんの言葉に、刺さっていた矢が心に食い込んだ。

私が『雨女』だから。

ごめんなさい。心の中で呟くことしかできない。


 しばらくの沈黙があっても、居心地が悪くなることはなかった。

もし他の人が隣にいたのであれば、早くバスに来てほしいという普段の私とは相反する思いに駆られていたと思う。

不思議な人。

そう思っていると、バスが道路にある水溜りの水量を減らしながら停車した。

私は、また動けない。

天音さんも乗り込む素振りをみせない。


「乗らないの?」と、昨日と同様に運転手さんが問いかけてきて、隣にいる天音さんを見ても動く様子がない。

その代わりにバスが動き出して、車内にいる髪の薄いおじさんは草食動物のように離れた目で、バス停を凝視していた。

学校に行くのも『怖い』けど、あのおじさんも『怖い』どうしたらいいんだろう……わからない。

学校のこと、家のこと、バスのこと。

誰にも話せない。

私には誰もいない。


「……乗らなくてよかったの?」


「あっ……乗らないと……いけないんですけど……」


「乗れなかった?」


「はい……」


「そっか。何か気がかり?」


「別に……何もないです」


「何もないことはないでしょ? 話したら少しだけ心が楽になるかも」


 言えない。

受け入れてもらえないことが怖い。

でも……。


「学校が……人が怖くて」


笑われる。そう思った。

困らせる。そう思った。

どうして、初対面の人に言ってしまったのだろう。

雨が後悔という色を付けて、無音の心に降ってくる。

天音さんは、綺麗な顔立ちでスタイルも良い。

他人に好かれる雰囲気と素敵な声も持っている。

そのような人には、きっとわからない。

私の気持ちなんて。

天音さんの生き様を知ってもいないのに、随分と自分勝手に決めつけていると思う。

それは、私が『雨女』と決めつけられたことに似ている。

私だって身勝手な人間。


「そっか……そうなんだね」

天音さんを一瞥すると、優しく微笑んでいる。

間近で見る綺麗な黒髪。

雨のせいで濡れているのか、水分の含みで纏まりがあって艷やかで輝いている。

「今まで……辛かったね」と、微笑みを絶やさない天音さんが言った。

誰かに肯定してほしいわけじゃないけど、今の状況を知ってほしかった。

親、先生、同級生。

話したところで、表面上の心配と立場上の言葉しかくれないと思う。

信頼できる人なんていない。

だから、誰にも言えなかったのに。


 でも……私は、誰かに聞いてほしかったんだ。


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