第一章 梅雨

第一章 梅雨 1

 身体が重い。

目覚めたばかりの聴覚は、今日も雨ということを寂しく脳内に告げていた。

淡い桃色のカーテンに手をかけて、外の世界を覗いてみれば、曇天から無数の涙が落ちていて、次から次へと地面に吸われていく。

私もそうだった。

泣いてばかりいたけれど、いつからか涙が落ちることはなくなっていた。

それは、諦めからくる一つの真実だったのかもしれない。


 階段を降りていくと、薄暗い中を人間の挙動から発せられる忙しない音が響いている。

一番下の踏み板を自身の居場所にしていると、目の前を急ぎ足で過ぎようとした母が私の存在に気付いた。

娘である私に対して、眉間に皺を寄せた顔を向けている。


「明夏、今日は学校に行くの?」


「え……うん。行けたら……行く」


「行けたら行くってね……飲み会とかのていのいい断り方じゃないんだから。

それに、行けたら行くって言う人は、絶対に来ない」


「うん……」


「はあ……学校だって、無料じゃないんだからね。

高校は学費を払ってるんだから、行かないなら、さっさと辞めたら?」


「ご……ごめん……なさい」


「はあ……」と、母は侮蔑を含んだ長い溜め息をついた。

艶を失ったパンプスに足を流し込んで、自動車までの距離で濡れてしまわないように、足早に出ていく母の背中と揺れる髪の毛を私は見つめていた。


 キッチンのテーブルに座ると、身体を温める料理や蒸し暑さで乾いた喉を潤す用意はない。

それに関して、恨む気持ちなど少しもなかった。

母も大変なのだから。

母は懸命に仕事をしてくれていると思う反面、少しだけでもいいから、私のことを見てほしいという思いもある。

私が小学生の時に、父と母は離婚した。

住むところもなくて、金銭的なことを考慮した上で、母方の祖母の家に引っ越してきて、名字も変わった。

六歳の時、この家に一人で預けられたことがある。

お祖母ちゃんにもらった筍のチョコレート菓子を友達と分け合って、真夏の風が気持ちよかった記憶。そこに本格的に住むことになるとは、当時の私は少しも思っていなかった。


 一人分の朝食と昼食用のお弁当を作っていると、テーブルの端に置かれた卓上カレンダーが目に入る。

今日が月曜日であることを再度認識すると、憂鬱な気分が窓を叩く雨音と共に訪れた。

別に月曜日に限ったことではないけど、どうしても考えてしまう。

一週間の始まりは、学校へと向かう五日間の合図になっていることを。


 黄色と黒色に飾られた白米を口に運んでいても、味は少しも感じられない。

食事の楽しみを感じられずに、喉元に引っかかる重さもあって、私の気持ちは深海に沈んでいくように圧迫される。


 洗い物を済ませて、玄関の扉を開けてみると、ゆっくりと怠けた風と曇天から生まれた雨の一粒一粒から発せられる音色が、私を絶え間ない苦悩へといざなう。

通学にバスを利用していて、透明のビニール傘が雨を弾き返しながら、重い足取りでバス停へと向かった。

田舎町のバスの本数は、都会と比べると驚くほどに少ない。

私が利用しているバス停は一日に五本だけで、朝は一本しか走っていないのだから、登校するためには遅れるわけにはいかない。

時間に余裕をもって家を出ているし、バス停への道程で時間的な不安に潰されることはなかった。


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