青翡翠は二度割れる

@hibariyakumo

短編

 幼馴染の鶴木桜が死んだという知らせが稲泉青葉のもとへ届いたのは、もう半年以上前のことだった。


 上京してから今年で七年。社会人になって三年。故郷を顧みることなどほとんど無かった青葉。彼にとってそれこそお互いに床を這いずり回っていた年ごろからの付き合いである幼馴染の死は、どこか現実味のない話に感じられた。


 だが、十一月十三日、火曜日。こうやって故郷へと向かう新幹線に座って外を見ていると、一秒一秒、がたんごとんと車体が揺れて行くたびに、事実が強烈に現実味を帯びてきていた。訃報を聞いてから半年、墓参りにも行かなかった。忙しさを理由に目を背けていたそれが、勢いづいて青葉の胸中をかき乱している。


 車窓の丸まった四角から見える、すっかり秋めいた田んぼの穂が後ろに吹っ飛んでいく。


 ため息が出た。


 口に溜まった唾液を飲み込む。


 新幹線に乗り込んで、すでに二時間近くが経とうとしていた。喫煙者の青葉にとっては、口元が寂しくなる頃合い。だんだんと重苦しく沈んでいく胸中のもやもやとした感情を、煙と一緒に吐き出したかった。


 青葉は隣の席に置いていたリュックサックの脇のポケットをまさぐって、革で出来た小さな巾着袋を取り出した。固く袋の口を縛っていた紐を緩めて逆さにする。手のひらにコロンと転がり出てきたのは、百円玉ほどの大きさの楕円形の石。


 石といってもその辺りで拾えるような石ころではなく、翡翠の収集が趣味であった桜からもらった、薄く雲のかかったような色合いをした青い翡翠。

 七年前、大学進学を機に上京しようとする青葉に桜が『これ、お守りだから』と渡してくれたものだ。

 机の引き出しに長らく仕舞いっぱなしになっていたものだが、矯めつ眇めつ眺めていると、今にも涙が溢れそうな眼を必死に見開いて我慢していた幼馴染の顔が、つい昨日のことのように浮かんできた。

「なんだったっけな」と青葉は首をかしげる。

 どうにも、なぜ桜がお守りと言って翡翠を渡してきたのかが思い出せなかった。

 まあ、効果はないのだろう。桜の死因は事故死と聞いた。

 深夜、車で出掛けた際に電柱に衝突したらしい。急ハンドルを切った痕跡が残っていたこと、野良猫が多い地域だったことから、事件性は薄く、飛び出した猫を避けようとしての事故だという結論が出た、と青葉の母親が言っていた。

 翡翠がお守りになるのなら、小学生のころから翡翠の収集を趣味としていた桜がそんな死に方をするわけない。今日何度目かもわからぬため息をついて、青葉は指先でころがしていた青翡翠を袋に戻し、リュックサックに仕舞いなおした。

 効果はなくとも、その青翡翠は綺麗だ。せめて桜の墓前に供えてやろう、と青葉は思った。

 新幹線の速度がだんだんと緩やかになっていくのがわかった。

 青葉はリュックサックを右肩にかけて、左手を秋物のコートのポケットに手を突っ込んだ。マルボロの箱の感触を確かめて、席を立つ。

 今すぐにでも、重い煙を胸いっぱいに吸い込みたい気分だった。



 2


 すぅ、と青葉が息を吸い込むと、咥えた煙草の先が赤く灯る。煙が肺を満たした後、吐き出される息とともに空中に白く漂った。

 時刻は十五時を少し回った頃。太陽も首をもたげ始めていた。

 夏が終わり、初秋に差し掛かろうかというこの時期だが、煙草を挟んでいる指が少し寒いかなという温度だった。例年よりも今年は、寒くなるのが少し早い。

 青葉はため息をついて、「かわらない」とひとりごちた。

 上京したのは七年前だが、最後に帰省したのはいつだったか、と思い返す。社会人になってからは戻っていない。最後に来たのは大学三年の盆だったか。とすると、実に五年ぶりの故郷である。

 今度は、ぷはっとちょっとおどけたように煙を一息に吐き出すと、視界に薄く霧がかかったように白くなる。しかし、そんなことをしても町の様子は何も変わっていない。駅とそのロータリーが少し立派になったくらいだろうか。周囲に背の高い建物は無いのも、風に潮の香りが混ざっているのも、急いでいる人が見当たらないのも、何もかもが変わっていない。

 携帯を取り出して、実家へと電話をかける。

『もしもし?』

 電話を取ったのは母親だった。

「もしもし、母さん。いま駅についたところ」

『あら! 早かったわね。迎えに行こうか?』

 迎えに行こうか、の部分が少し笑い交じりなのは、数年の間、一度も帰省してなかった青葉への皮肉だろう。

「いや、いいよ。携帯もあるし大丈夫。最悪タクシー使うし」

『えっ、あんたちょっと本当に忘れたんじゃないでしょうね』

「大丈夫だって。それより、先に桜に会いに行きたいんだけど、どこだっけ」

 実家に荷物を置くより先に、自分がしなくてはいけないことだと思った。何せ、もう半年も待たせている。青葉の声色から心中を察してくれたのか、母親も『家から一番近いところよ。ひいおじいちゃんのお墓があるところ。覚えてる?』と幾分真面目な声で答えてくれた。

「覚えてる。じゃあ、また後で」

『あんた、青葉。半年も待たせたんだから、ちゃんと謝りなさいね』

 わかった、と返事をしてから通話を切って、そういえば子どものころ、母親は俺より桜を可愛がっている節があったな、と少し懐かしくなった。

 もうフィルター近くまで燃え尽きた煙草をブーツの裏でもみ消して、吸い殻を携帯灰皿に入れる。

 待ってろよ、桜、と歩き出して一分。

「……こっちじゃないな」

 どうやら五年の空白は、土地勘を狂わせるのに十分な時間であるようだった。



 3


 こんがらがった記憶を紐解く作業と並行して、桜の墓への道を歩く。

 一部が崩れた塀、大きな柿の木、外壁のベニヤが錆びてしまっている家、などどれも昔から変わっていない。と思えば屋根に太陽光発電のパネルがくっついていたりなど、故郷の街並みが青葉を、懐かしさの奔流に飲み込ませていた。しかし本当に変わらない街並みのはずが、どことなく寂しさを感じさせるのは、桜の不在のせいだろうか。今にも、「あっ、青葉!」と曲がり角のその先から、懐かしい声が聞こえてくる気がする。

 こと、仲の良さと街中での遭遇率においては青葉と桜は他の追随を許さないくらいの間柄だった。

 遊ぶ約束もしていないのに町を歩けば桜に出会う。青葉も歩けば桜に当たる、と親からかわれたのは一度や二度ではない。そのまま遊びに連れていかれることがほとんどで、おかげで青葉は「おとなしい」と呼ばれる部類の子供だという自負があるのに、周囲に悪ガキ扱いされていたのは完全に桜のふるまいのせいであった。

 普通のサラリーマン家庭である青葉の稲泉家と違って、桜の鶴木家は、『鶴木屋』という旅館を営んでいる。つまり桜は、将来は旅館の若女将というわけだった。

 連絡を取り合っていなかった青葉は、桜が上京することなくそのまま故郷に残ったということしか知らなかったが、亡くなる前の桜はきちんと若女将をしていたのだろうか。


 鶴木のおじさんおばさんに会ったら聞こう。と心に決めたところで、やっと寺に着いた。

 普通の平屋くらいの大きさの、それほど大きくない本堂が一つだけある、と言うと失礼か。青葉はそこを素通りして、奥の墓地へと足を進めた。

 墓石の掃除は明日にでもしようと掃除用具には目もくれず、きょろきょろと鶴木の文字を探すと、さほど時間もかからずに見つけることができた。

 背負っていたリュックサックを足元に下ろして、ふうと一息。

 目の前にあるのが鶴木家の墓石だ。その横にある墓誌の名前の羅列に視線を向ける。戒名と俗名、没年月日が彫られていた。一人目、二人目、三人目、と目で文字を追って、とある部分に視線がくぎ付けになる。


 『鶴木桜』の文字が、墓誌に刻まれていた。


「本当に、死んだのか」

 青葉は呟いた。

 没年月日は四月十一日。桜の誕生日の前日だった。

 今の今まで青葉は心のどこかで、幼馴染の死を信じていなかったのだ、とそこで自覚した。現実味がないのも当然だ。青葉は桜が死んだと、人伝てに聞いただけなのだから。

 だが今、墓誌に刻まれた彼女の名前を見て全てが現実なのだと思い知らされる。

 ここまで歩いてきた道に感じた懐かしさが、すべて薄っぺらなものに変わってしまった気がした。昔から変わらない街並み。変わらない海の香り。変わらない空の色。だがどうだ。そこに『鶴木桜』はいない。

 それだけで、変わらないはずだった故郷が、がらりと色を変えたような気がしてくるじゃないか。

「……桜。さくら」

 『お前が死んでから半年。もっと言うなら、学生の頃に帰省して以来だから五年ぶりの再会。なのに石の下なんかに隠れやがって。そんな性格じゃないだろ』などと、言いたいことはある。それらどんどん浮かんでは、喉の外に出る前に、青葉の胸に沈んでいった。

 青葉の家族は、父親、母親、それと兄が一人。祖父や祖母も健在だ。

 良く見知った人間が死ぬことに、青葉は慣れていなかった。


 しばらく、茫然とそこで立ち尽くしていた青葉だったが、ふとリュックサックのポケットのことを思い出した。青翡翠を取り出し、墓石の前に置こうしゃがみこんで、思いとどまった。ついさっきまで翡翠を入れていた巾着袋の上に乗せるようにして、今度こそきちんと墓石に供える。

 それから青葉は深呼吸をして「これ、ありがとうな」と言葉を絞り出した。

 頭に思い浮かぶ言葉全てが陳腐な台詞にしか思えなかったし、五年も会うことのなかった幼馴染に今更何が言えるのか、という思いが青葉の喉に蓋をしているようだった。

 今更何を言っても自己満足だ。自分のための言葉だ。

 でも、いくら蓋をしても、漏れ出てくるものがある。

「会いたいよ、桜。もう一度」

 青葉の、心からの言葉。自分の人生を振り返っても、これほど何かを願ったことはなかっただろう。

 自分でも驚くくらい落ち着いた声で、青葉は願いを口にした。


 ――きぃん、と小さな音がした。


 金属を打ち合わせたような軽い音。何の音だ、と探すまでもなかった。

 青葉の目の前にある青翡翠が、真っ二つに割れていた。

「な、なん――」

 驚きの声を上げる間もなく、空の色がひっくり返る。

 ぎょっとして頭上を見上げると空の色、つまり昼と夜が、凄まじい速さで入れ替わっていた。太陽など子供が振り回す玩具のごとく昇って沈んでを繰り返している。

 目が回る、とはこのことだと青葉は思った。しゃがみこんですらいられず、地面に寝っ転がって上を見る。

 (なんだ、これ)

 ぐらぐらと、視界が揺れていく。三半規管が直接揺すられているような気がする。

 ぷつり、と何かが切れた気がした。瞬間、青葉の意識は暗闇の底へと落ちていく。


 4


 目を開けると、頭上に満天の星空が広がっていた。石畳の冷たさが、背中越しによく分かった。

 気を失った、のだろうか。青葉は立ち上がって、携帯を取り出して時間を確認する。すっかりと夜の帳が落ちた中、眩しく光るディスプレイには『一八:二三』と表示されていた。気を失っていたのは、三時間近くもか。

 にしても、と青葉は本堂の横にある寺の住職が住んでいるはずの平屋に、苦々しい視線をやった。いくら平日だとしても、誰かが墓参りに来るか、住職が見回りに来てもいいのではないだろうか。人が一人寝ていても気付かれないのは、さすが田舎だというべきか。

 うーん、と伸びをして体の凝りをほぐす。固い石畳の上で寝っ転がっていたにしては、青葉の身体は好調であった。仕事で疲れているときなどよりも、よっぽどいい。墓地で寝っ転がるなんて罰当たりなことをしでかしたことに少し罪悪感を覚えないでもないが、桜の目の前だ。幼馴染の無礼くらい許してくれるはずだ、と思った。

 ショックを受けて気絶する、なんてことがあるのか。

 青葉は今までの人生で初めての経験だ、とどこか他人事のようにその事実を受け止めていた。

 そろそろ実家に帰らねば、親も心配するだろう。

「連絡いれとくか」と通話履歴からもう一度かけようとすると、つながらない。規則的な電子音が、携帯電話の不調を訴えていた。

 携帯ディスプレイの左上を見ると、圏外と表示されていた。

 そんなに田舎だったか、と眉間に皺を寄せて、それなら懐中電灯代わりに使ってやろうとライト機能をオンにする。ディスプレイの光とは比較にならないくらいの光量が、墓地を照らし出した。

 照らされた桜の墓に、もう一度言葉をかけて立ち去ろうとしたところで、青葉の目に墓前に供えた翡翠が見えた。

「割れてない? あれ、さっき、確かに」

 その青翡翠は、記憶では確かにおかしな音を立てて二つに割れたはずの青翡翠は、あたかも一度も割れたことなどありませんとでも言いたげな顔をして、そこにあった。摘まみ上げて、ライトで照らしてまじまじと観察する。

 割れた痕どころか、傷一つ見当たらない。

 さっきのことは、白昼夢か何かだったのだろうか。そんなことを考えながら、手に持っていた青翡翠を拾い上げた巾着袋に放り込み、コートのポケットに収めた。

 持っていけ、という桜からのメッセージかもしれない、と考えたからだった。

「じゃあ、またな」

 近くに転がっていたリュックサックを拾い上げ、片側の肩に背負って、寺を後にした。

 しばらく歩いてから、煙草を咥えて火を点ける。

 夜の闇の中で、青葉が持つ煙草の赤い灯りと大して明るくもない街灯の光だけが、淡く光っていた。

 青葉はそれにしても、と先ほどの白昼夢を思い返して、首を傾げた。

(太陽が何回も昇ったり沈んだりしてたけど、東と西、逆じゃなかったかな……)

 土地勘どころか、十八年間見続けてきたはずの朝日と夕日の方向まで、勘違いするようになってしまった。まいったな、というため息は、煙と一緒に空中に吐き出され、薄れていった。


 墓地のある寺から、十数分も歩けば青葉の実家に着く。二階建ての一軒家だ。

「ただいまー」

 インターホンを押してそう声をかけると、どたばたと家の中から音がして、扉が開いた。顔を出したのは、青葉の母親である稲泉香織だ。五年ぶりに顔を見たが、目じりの皺が増えている気がした。

「青葉、あんたどうしたの!」とドアを開けて青葉の顔を見るや否や、香織は驚いたように言った。

 この年になって帰宅時間について母親と玄関先で揉める元気も、墓場で気絶していなんて話もする気はなかったので、ドアの隙間に身体をねじ込んで、

「遅くなった。ただいま」

 と簡潔に済ませる。

「遅くなった、って、あんた」

 香織は青葉の態度に釈然としないような顔をしていたが、続く言葉を飲み込んだようだった。言い争うよりは受け入れてしまえ、というのがモットーの人なので、母親が他人と争っているところを青葉は見たことがない。そんな母親が青葉は嫌いではなかった。

「父さんはもう帰ってるの?」

「当たり前でしょう。今何時だと思ってるの」

 香織の言葉に靴を脱いでいた青葉は「へえ」と本気で驚いた声を出した。

 青葉の父親、稲泉正則は普通のサラリーマンだ。仕事熱心な人で、帰りはいつも二十時を回っていた記憶がある。

「いきなり帰ってきたと思ったら、変な子ねえ。会社はお休み取れたの?」

「有休が溜まってて人事から文句言われたから、この機会にまとめて長期休暇とってきた」

「ふうん。ちょうどそんな時期かしらねえ。部屋はちゃんと掃除してあるから、そのまま使いなさい」

「ありがとう」

 青葉の部屋は二階にある。とりあえずリュックサックを下ろそうと思った。玄関からすぐの階段を上がろうとする青葉の背中に、香織が声をかけた。

「青葉、お腹すいてる? 何か用意しようか」

「え? うん、頼むよ。母さんたちは食べたの?」

「食べたわよ。じゃあ荷物置いたら降りてらっしゃい」

 返事をしながら、青葉が携帯で時間を確認すると、まだ十九時にもなっていなかった。父親、正則の帰宅が遅かった昔はいつも二十時を過ぎてからの食事だったので、早い時間に食事を済ませている両親の姿はどうにもおかしな感じだった。


 部屋のドアをあけると、懐かしい匂いがした。古い本の、少しかび臭い匂い。

 勉強机とクローゼット以外の壁は本棚で埋め尽くされているのが青葉の部屋だ。小遣いのほとんどを本の収集に使っていた青葉の学生時代の結晶ともいえる光景である。

 本当に掃除をしてくれていたらしく、本に埃がかぶさっているということもなかったのは少し嬉しい。

 リュックサックをベッドに投げるようにして置いて、青葉は換気をするために部屋の窓を開けた。本に湿気は大敵である。ほとんど日課のように帰宅すると毎日行っていた習慣は、どれだけ久しぶりでも体に染みついているようだ。

 東向きの部屋を与えられた青葉は、徹夜をするたびに差し込んでくる朝日を眩しいと思ったものだ。

 本の背表紙を目で追ったり、クローゼットを開けたりしてひとしきり懐かしんでから、飯でも食うか、とコートを脱いで、青葉はリビングへと降りていく。



 5


「おおー青葉! 立派になったじゃないか」

 リビングのドアを開けた青葉に、正則が父親らしい歓声を投げつけた。卓上にはビールの五百ミリ缶が二本ほど置いてあって、正則の手元にあるのが三本目である。すでに出来上がっているようだった。

 今まで見ていたのか、無駄に大きい液晶テレビからは、春くらいからずっと人気の外国映画の特集が流れていた。

「父さん、久しぶり。元気してた?」

「元気も元気よ。最近健康にも良い新しい趣味、とか言って山登り始めたんだから」

「すごいな」

「山はいいぞ、青葉! 今度連れて行ってやろうか」

 テーブルについて、いただきます、と手を合わせる。

 香織が用意したのは、ご飯とみそ汁に、豚バラの入っている野菜炒めだった。

「俺はいいよ。仕事忙しいから滅多にいけないし」

「なんだぁ、つれないな。せっかくの再会だって言うのに」


 それから、仕事の調子やら、最近の取引先やら、久しぶりの親子の会話につまらない話を続けていたが、ふと青葉は時計に目をやって、瞬きをした。リビングの壁にかかっている丸時計の長針が二十二時を示している。

「時計狂ってない?」

「あら? そんなことないわよ」

 母親は自分の携帯と時計を見比べて、首を振った。

 そんな馬鹿なと青葉は自分の携帯を取り出して時刻を見る。

 十九時四十五分。

「携帯、壊れたかな……」

 よくよく見れば、まだ圏外のままだった。いくら地方と言えど、青葉が契約している携帯会社は大手キャリアのひとつだ。山奥でもない限り圏外にはならない。

 つまりは故障、ということになる。ずいぶんと長い間、あの墓場で気を失っていたのか。

「参ったな。母さん、明日ちょっと携帯会社の代理店に連れてってほしいんだけど」

 まとまった休みを取った、とは言え、取引先から緊急の要件で連絡がこないとも限らない。早めに直しておいた方がいいだろう。

「いいわよ。ちょうどそろそろ夏物買いに行きたかったところだし」

「……夏物?」

 テレビの映画特集がそろそろ締めに入ったようだった。『えー、ここまで紹介してまいりました、衝撃の話題作。五月上旬公開!』などと、この前不倫騒動で干されている俳優が爽やかに紹介している。

 壁にかかっているカレンダーを見つけた。三月と四月、二月分の日付が書かれている。

 そういえば、と香織が言った。

「青葉、こんな時間まで何をしていたの?」

 頭の奥がぴりぴりと痺れる。さっき食べた野菜炒めが喉奥までせりあがってきた。頭がおかしくなったのかと思った。言い知れぬ、シャツのボタンを掛け違えてしまった時のような、休みの日に会社に出社してしようとして、駅のホームの人の少なさに首を傾げた時のような、違和感。

 周囲と青葉の間にあるどうしようもない齟齬が、強烈に存在感を発している。

 母さん、と青葉は香織に問う。自分の部屋に大量に置いてある小説の主人公の何人が、この台詞を言っただろうか。彼らは皆、こんな気持ちだったのだろうか。

「今日って、何月の、何日?」

 香織は、おかしなことを聞く息子にたっぷりと眉をひそめてから、こう答えた。

「……四月の四日よ」

 ぞくり、と背筋を何かが駆け上っていく気がした。頭の痺れが増して、口の中に増えた唾液を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

 自分の頭がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか。青葉はそれを確かめるための質問をした。長ったらしい言葉ではない。万感の思いを込めた一言だ。

「桜は?」

 香織は眉間の間隔をさらに狭くして「何馬鹿なこと言ってるのよ。元気に決まってるでしょ」と答えた。

 がたん! と椅子が倒れる音がリビングに響く。

「ど、どうした青葉」

「ちょっと出かけてくる!」

 自分の置かれている状況に、感情は歓喜の声を上げ、理性は混乱の警笛を盛大に響かせていた。親はこんないたずらをするような人ではないし、何より墓誌にはきちんと桜の名前が刻まれていた。桜は確かに死んでいたはずだった。

 鶴木家の墓誌に刻まれていた桜の没年月日が脳裏によぎる。

 『四月十一日』


 幼馴染の鶴木桜が死ぬ一週間前に、いる。


 駆け上がるように自室に戻ってコートと財布を引っ掴んで、半ば滑り落ちるように階段を駆け下りて、靴のかかとを踏みつぶしながら、青葉は外に飛び出した。

 目指すは桜の家、旅館『鶴木屋』。

 社会人になってから初めての全力疾走だった。煙草で蝕まれた肺が悲鳴を上げる。抗議するかのようにぎりぎりと痛みを発していた。

 知るか、と思った。今は、そんなことを気にしている場合じゃない。

 青葉の自分への気遣いが行われたのは、鶴木屋の門を照らす灯りが目に入ったときだった。

 数分間と言えど、全力疾走を続けた肺は満足に空気を吸い込めず、足は棒のようでぷるぷると震えている。

 五年ぶりの、二度とあり得ないはずだった再会にこんな姿を晒すのはないな、と青葉は可笑しくなって笑いを浮かべた。顔を手で覆うと、指にしみ込んだ煙草の匂いが青葉に少しの冷静さを取り戻させる。

「……一本吸ってからにしよう」

 と、コートのポケットから取り出した煙草に火を点けたその時だった。

 門が開いて、着物姿をした一人の女性が外に出てきた。灯篭のような形をしたランプのスイッチを切りにきたようで、かち、と音がしたと思うと片方の明かりが消える。

 もう一つを消そうとしたところで、道路を挟んで反対側にいた青葉に気が付いた。

「……」

「……」

 お互いにだんまりだ。

 青葉はとっさのことに吸い込んだ煙を吐くのを忘れ、そして盛大にむせた。

「……大丈夫ですか?」

 女性は少し警戒しながら青葉に声をかける。

 げほげほと咳き込む青葉は、自分を心配するその声に聞き覚えがあった。というか、出てきたときからなんとなく、心当たりはあった。小さい旅館だ、従業員もそれほどいない。

「よう、久しぶりだな、桜」

 最初に話しかける言葉を考えている時間はなかったし、世界は月9のドラマじゃない。とはいえ青葉にとって、もう一度、彼女に会えたこと自体がドラマ以上に劇的なことだ。

「……え、青葉? アオちゃん?」

「その呼び方、やめろってずっと言ってるだろ」

 門の外に出てきた女性こそ、青葉の幼馴染、鶴木桜だった。

「飲みに行こうぜ、桜」

 青葉はとりあえず東京で覚えたコミュニケーション手段を使うことにする。すると、着替えてくるから裏口でちょっと待ってて、と言い残して、桜は旅館の中に引っ込んでいった。

 立派な正門を迂回したところにある、いわゆる勝手口の横で、壁に背を預けながらゆらゆらと煙草をくゆらせつつ、青葉はどうしようかと考えていた。

 何がって、携帯が使えないことが大きかった。青葉が上京したのはまだ未成年のころだったから、この辺りの飲み屋など詳しくない。

 うーん、と考え込んでいると、桜が門から出てきた。先ほどまでの無地の着物姿はどこへやら、ジーパンに薄手の黒いパーカーというシンプルな組み合わせだった。結いあげていた髪はポニーテールへと変わっている。

 お待たせ、と短く言って、桜は青葉の右手に視線をやった。

「たばこ、吸うんだ」

「あー、まあな。喫煙所の付き合いみたいなのもあってさ」

 どことなく気まずさを感じて、言い訳じみたことを言ってしまう。ふぅん、と何か言いたげに相槌を打って、

「で、飲みに行くって、どこにいくつもり?」

「あー、誘った側がこんなこと言うのもアレなんだけど、今ちょっと携帯使えなくてさ。調べられないんだよな。どこかいいとこ知らない?」

「知ってる。じゃあ、青葉のおごりね?」

 やっぱり、といたずらっぽく笑った桜の表情が懐かしかった。



 6


「高くないかこれ」

「こういうとこにお酒飲みに来る観光客向けだもの。高め高め」

「えー、まあいいや、とりあえず生二つお願いしまーす」

 店員に声をかけて、メニューを眺める。駅前から少し離れた居酒屋に来た二人だったが、観光地価格なのだろうか、地酒の価格が異様に高い。同じ銘柄でも東京のほうが半分くらいの価格なのではなかろうか。

 それで、とテーブルの上で肘をついて手を組みながら、桜は青葉をじっと見つめた。

「なんでこんな時間に会いにきたわけ? 来るにしても、もっと前に連絡入れられるでしょ」

「あー、なんか急に休みがとれてさ」

 嘘をついた。お前の墓参りに来たらタイムスリップに来た、なんて荒唐無稽な話をしていいのかわからなかったからだ。

「じゃあ、今まで帰ってこなかったのは?」

「忙しくてさ」

 これは本当。大学三年に入ってからの就活や、内定が決まってからも入社前研修とやらでやることが多く、わざわざ帰省する暇がなかったのだ。社会人になってからは言うべくもない。そもそも桜の葬式の当日でさえ、青葉は間近に迫っていたプレゼン資料の準備に奔走していた。

「うー。わかったけど、納得はできないかも。五年だよ? ご、ね、ん」

「ごめんごめん」

「ダジャレ言ってる状況じゃない」

 桜はかなり怒っているようだった。これはもう一方的に青葉が悪いので、甘んじて怒られることにする。

 「あーたせしやしたー」と気の抜けた店員がビールを運んできて、小皿を何品とほっけ焼きを頼んでから、乾杯。ビールのほうは店員とは違って、ちゃんとした美味しさだった。グラスもよく冷えている。

 桜はずいぶんと酔いが回るのが早いタイプのようだった。ほっけ焼きが骨だけになるころには、ジョッキ三杯で顔がずいぶんと上気していた。

「あのねえ、あほば! わかってるぅ?」

「悪口が小学生みたいになってるぞ桜」

 まあ、何を言われても甘んじて受けよう、と青葉は半分ほどしか開いていない目で自分を睨んでくる桜に笑いかけた。

「あーにわらってんのよぉ」

「こうやって桜と飲めるのが嬉しいからさあ」

「……あほばのあほ」

 結局その日は、二時間ほど他愛のない話をして解散になった。帰り際、家まで送っていった桜が「明日も飲む。こんどは九時にきなさい」と据わった目で宣言したので、明日も飲むことになった。

 青葉も疲れのせいか意外と酔っていたようで、家に帰るなり部屋に戻って泥のように眠りについた。


 翌朝。目覚めた瞬間、青葉は飛び起きた。

 転げ落ちるように階段を下りてリビングへ向かう。

「あら、青葉、おはよう」

「おはよう青葉、父さんもう会社行ってくるからな。今日もいられるんだろう? どうだ、夜一緒に飲みに」

「おはよう父さん母さん、ごめんちょっと今忙しい。あと今夜は先約があるから無理だ」

 両親が声をかけてくるが、青葉はそれどころではない。視線をテレビにくぎ付けにする。

 時刻は朝の八時。テレビの中ではニュースキャスターがタイミングよく「本日、四月五日のニュースをお伝えします」と物知り顔で喋っていた。

 夢ではない。

 チャンネルを変えていくつかのニュース番組を見て、それから父親が読んでいた経済新聞の日付を見る。四月五日だ。新聞の内容も、テレビでキャスターが話していることも、すべて既視感を覚えるようなことばかり。タイムスリップしてから二日目。

 そこまで確かめてから、香織の「朝ごはん魚でいい?」という言葉に頷いて応え部屋へと戻る。

 窓を全開にすると、涼しい風が吹き込んできた。部屋で吸っていいものか、一瞬悩むが、煙草に火を点けて一服する。青葉の部屋に置いてある本は大体古本なので、多少の匂いがついたところで気にしない。

 一本吸いきって、もう一本に火を点けたところでようやく頭に血が巡ってきた。

「タイムスリップ、だよな」

 今の自分の身に起こっている現象が、いまだに信じられない。夢でも見ている気分だが、手の甲をつねっても醒めないところを見るに、どうやらこれは現実らしい。

 となると、腑に落ちることがいくつか、気になることもいくつか。

 まず前者だが、桜の墓の前で見た、西から昇る太陽。これは青葉の方向感覚が狂っていたわけではなく、時間が逆流していたということだろうか。東から昇って西へと沈む太陽が逆行すれば、そういう風に見えるだろう。

 それと、圏外の携帯だ。これはおそらく、壊れているわけではない。夏頃、携帯を買い替える際にキャリアを変更したのでまだこの世界に回線が存在しないのだ。時計は今の時刻に合わせたが、今の状態では持ち運びできるカメラくらいにしか使えないだろう。

 次に後者の、腑に落ちないこと――というか気になることだが、とりあえず一つ確認してみることにした。

 青葉はリビングの香織に煙草を買ってくる、と声をかけ、家の近くの公衆電話を探す。コートは着なくても平気なくらいの気温だった。

 しばらくして公衆電話を見つけて、中に入った。百円玉を突っ込んで受話器を持ち上げ、馴染みのある十一桁をプッシュした。

『……はい。稲泉です』

 無言で、受話器をフックに叩きつけるようにして電話を切った。十円玉が九つ、返却口に落ちてきた。それをつまみ出し、財布の小銭入れの中に戻しながら、青葉はため息をついた。電話越しに聞こえてきたのは恐ろしく聞き覚えのある声だ。青葉が二十五年間、聞いてきたものと同じそれだ。

 一つ判明。この世界に、稲泉青葉は二人いる。


 気になることはもう一つ。

 タイムスリップした原因だ。青葉は自分にタイムスリップできる力があるとは考えなかった。あってたまるか、と思った。そんな力があれば人生もっと楽に生きられるし、今のところ未来の青葉を名乗る人物からの接触も心当たりも皆無なので、いきなり力が目覚めたということもないはずだ。

 となると、

「これか……?」

 タイムスリップする直前の心当たりと言えば一つしかなかった。

 ズボンのポケットから青翡翠を取り出して、じーっと眺める。世界がぐるぐると回る直前、この石が割れたのは確かなはずだった。それが、割れた痕跡もなくなっている。

 青葉が身に着けていた服や、携帯や財布などの小物と同じくリュックサックもタイムスリップしてきているので、青葉の持ち物として一緒に――

「それにしたって、割れたのが元に戻る理由にはならないよな……」

 どうにもわからない。割れるのがきっかけでタイムスリップするのだろうか。

 今、青葉が不安に感じていることは、果たして未来に帰れるのか、ということと、それがいつなのか、ということだ。

 桜の事故死を止めればいいのか。タイムスリップ物の小説や映画なんかでは、過去の人間の生き死にに干渉してはいけない、とよく言われるが桜の死に比べればそんなもの、危ぶむものでもない。

 だが現状、先行きが全くわからない。一寸先は闇だ。まっくらだ。

 煙草の自販機に小銭を突っ込んでマルボロをひと箱買って、家へと戻る。

「ご飯できたよー」と呼ばれてリビングへ。青葉が朝飯を食べていると、香織が上機嫌に話しかけてくる。

 息子と久々に買い物に行けるのが嬉しいようだ。仕方ない。もう一人の稲泉青葉の代わりに親孝行でもしてやろうと思った。

 そうして時は過ぎ、二十一時。鶴木屋の前に向かった青葉を、桜は裏口の前で待っていた。

 二日連続の外食だが、そもそも遠出するから、と財布には居酒屋に何回か行く分には平気なくらいの額は入っていた。

 昨日と同じ居酒屋へと向かい、今度はアルコールのペースを落として話をする。昔の思い出話がほとんどで、桜は青葉が東京で何をしているかあまり聞きたがらなかった。なので、青葉も自然と聞かないようにしていた。

「桜がさ、佐々木のじいさんとこの犬からかってたらリードが外れて死ぬほどおっかけられてたの覚えてる? あれ俺も一緒に逃げてたけど正直桜だけでよかったよな。一杯奢れな」

「中三の夏休みの宿題やってなくて半泣きになってのを、私に助けてもらったの誰だっけ? 二杯奢ってよね」

「いやいやいやあの時はほら風邪で寝込んでたせいだから仕方ないだろ。妙なこと覚えてるな」

「そっちこそでしょー」

 わはは、と笑いあう。「んじゃあまた明日な」「同じ時間ね」と約束をして別れ家路につくと夢から覚めたような気分になる。この楽しさがいつ終わるのかという不安が常に付きまとっていた。



 7

 

 桜と再会して三日目。タイムスリップしてからも三日目。

 例によっていつも居酒屋、青葉がトイレから帰ってくると、

「おう鶴木の阿婆擦れ。こんなところで酒なんか飲んでねえで、宿の客の相手してろや」

 と、下卑た声が聞こえてきた。

 桜のいるテーブルだ。スーツを着た男が桜に絡んでいるようだった。銀縁の眼鏡とその目つきがいやらしい印象を与える男だった。桜はそっぽを向きながら、頬杖をついて目を閉じている。

「なあ、連れに何か用?」

「あぁ? 誰だよお前。この阿婆擦れの客かあ?」

「友達だけど。お前こそ誰だよ」

 青葉は男の肩をつかんで押しやってから、桜の間を遮るように男の前を通って椅子に座った。

「友達ぃ? 付き合う人間は選んだ方がいいぜ。こいつ、宿に泊まりにきた客と片っ端から寝てんだよ。節操ねえ阿婆擦れだ。あぁ、お前ももうこいつを抱いた口か?」

 人の喋る言葉とは思えなかったし、桜がそんなことをするわけがないというのは幼馴染の青葉にはよくわかっていた。

「そんなことは聞いてないし、それよりお前は誰なんだよ。桜にフラれた逆恨みでもしてるのか?」

 嘲ったように言うと、どうやら図星だったらしい。周りの客がくすくすと笑いだして、男は顔を真っ赤にして「てめえ」と低い声で青葉を睨みつける。が、成績が悪かった時の青葉の上司のほうがよっぽど怖い。それに比べれば男の脅しなど大したことはなかった。

 じっと、目を見返す青葉にいら立ったのか、舌打ちをすると男は店から出て行った。一分ほど待って、男が戻ってこないのを確認してから青葉がふー、と息を吐くと、桜が視線を落としながら、ごめん、と言った。

「んー。話せることか?」と青葉が聞くと、今まで見たことがないほど暗い顔をしながら、桜はぽつりぽつりと話し出した。


 銀縁の眼鏡の男は、桜の見合い相手だったのだと言う。二十四にもなって男の影がなかった桜を心配した親が、勝手に組んだお見合い。地元の名士の三男坊で、不動産屋を経営してる金持ちらしい。

 どうにも自分を物色するような視線が気に入らず、断ったところ、

「変な噂を立てられるようになった、と。なるほど」

 地元は小さな町だ。噂が広がるのも早い。

「なんでだろうね。別に角が立つような断り方をしたつもりはなかったんだけど。断られたのがそんなにいやだったのかな」

 諦観したような表情で疲れたように笑みを浮かべる桜は、テーブルの上に置いてあった青葉のマルボロの箱を手に取って、「ねえ、私も吸ってみていい?」と聞いた。青葉は無言で頷いて、ライターを差し出して火を点けてやる。

 すると案の定、げほげほと盛大にむせる。

「だめだ、わたしこれ、無理」

 涙目でそう言って、あげる、と桜は煙草を青葉に渡した。煙が目に沁みたのか、涙目になっていた。

 




 四日目。

「そういえばさ、私が青葉にあげたお守り、捨ててないよね」

 青葉が煙草を片手に二杯目のビールを頼んでいると、桜が言った。持ってるよ、とポケットから取り出して見せてやる。

「持ち歩いてるんだ」と、意外そうに言う桜に「まあね」と曖昧に返事をする。桜の墓前に供えるために持ってきただの、そいつのおかげでタイムスリップしたからだのと言える気はしなかった。

 青翡翠を眺めながら、「一番硬い宝石って何か知ってる?」と桜。

「ダイヤ?」

「うん。でも、翡翠はダイヤより割れにくい宝石なんだ。知ってた?」

「へーえ、意外だな」

 でしょう、と言って、桜は笑った。

「すごく傷がつきやすいけど、割れない。傷も味だって言う人もいる。それが翡翠。それを知った時にすごく感動しちゃって、それから翡翠を集めるようになったんだよね」

 はい、と青翡翠を青葉に手渡した。割れない宝石、と聞いて青葉は「あのさ、翡翠って何もしてなくても割れることってある?」と聞いた。墓石に供えたときのことを思い出したのだ。いきなり真っ二つに割れた翡翠が、割れにくい?

「翡翠が割れるのには意味があるんだよ。有名なのは、そうだね、持ち主の不幸を肩代わりするとか。あとは持ち主の願いを叶える時かな」

 それを聞いて青葉は、あぁ、と少し納得できた気がした。桜の言葉にも、割れた理由にも。

 四日目はそこで解散となった。

 自室のベッドに寝転がりながら青翡翠を眺めて、「もう一度会いたい、って願ったから、こんなことになってんのか?」と話しかけてみるが、当然答えはどこからも返ってこない。



 五日目。

 昨日は「また明日」と約束をしたわけではなかったが、二十一時に裏口の前に行くと、当然のように桜がいた。今日は、ビニール袋を両手に一つずつ提げていた。

「なにそれ」と青葉が聞くと、

「お酒とおつまみ」と簡潔に答えが返ってくる。

 海辺で飲もう、という提案らしい。断る理由もなかった青葉はビニール袋の片方を引き受け、どちらともなく歩き出した。一分間ほどの沈黙があって、桜が「しりとり」と言った。「りんご」と青葉はあくび交じりに返した。

 海に着くまでそれほどかからなかったが、しりとりは青葉が勝った。桜はむくれた。

 海辺についた。漁港だから砂浜はない。コンクリートで補強されている。

 堤防の隙間から海側へ出て、適当な位置に座る。砂の代わりにテトラポッドがうんざりするほど並んでいた。

「人間普通に生きてればそれなりに言葉は覚えると思うんだけど、なんでしりとりであんなに早く決着がつくと思う?」

「なんでだろうわかんない」

「私わかる。青葉がいやらしい『る』攻めしてくるから」

「いやらしいって言うな」

 どう考えてもいやらしいでしょ、と言い捨て、桜は缶ビールの蓋をあけた。小気味のいい空気の抜ける音がする。青葉も桜に倣ってさっさと蓋を開けた。同じ音がした。

 かんぱーい、と缶を打ち合わせてからしばらく、中身が半分ほどに減った頃合い。青葉が、つまみの二袋めを開けた時だった。

「青葉さ、アオちゃんさ、いつまでこっちにいるの?」

 どきりとした。立てた片膝に頬をつけながらこちらを見る上目遣いにもそうだが、何より青葉自身もわからないことを聞かれたことに。

「うーん、いつまでだろうな。長期休暇として来てるから、もうしばらくはいられると思うけど。仕事で呼びだされたら行かなきゃいけない」

 海を眺めるふりをして視線を逸らしながら答えると、

「そっか。ずっといるわけじゃないよね。やっぱり」

 幼馴染のことを青葉は、いつも元気はつらつで、落ち込んでもすぐに立ち直る性格だと思っていた。少なくとも、そう思うくらいには桜は彼の前ではいつも明るかった。

 青葉がちらりと横を見ると、桜も海を眺めていた。横顔が、はっとするくらい美しかった。同時に、どこか危うげな印象を、幼馴染に初めて抱いた。

「なんだよ。俺がいなくなると寂しいのか」

 少しからかうような言葉を選んだ。見たことのない表情をする桜から、いつもの彼女の顔に戻れとばかりに。だが、

「寂しいよ」

 と言葉少なに桜は言う。何も言い返せずに、青葉は缶ビールをぐいと煽って空にした。

「私さ。翡翠みたいな人になりたかったんだよ」

 空の缶をビニール袋に放り込んで、青葉は次の缶の蓋を開けた。海辺に三度めの快音が響くが、漣の音にすぐ飲み込まれていった。桜は、唇を湿らせるようにちびちびと飲んでいる。

「傷ついても、傷ついても、割れない石。割れるときは、願いを叶えて、自分から割れる石。格好いいなぁって思うんだよね」

 でも、と言ってから立ち上がり

「――なれなかったーっ!」

 腰に片手を当てて、温泉の後に飲むフルーツ牛乳のような恰好でビールを飲む桜。

 「まったく、人間は人間だね。宝石にはなれない」と、桜は青葉にというか自分に言い聞かせるような声量で、ぽそりと呟いた。

「いつ帰るのかわかったら教えてよ。あ、私の誕生日もうすぐだからね。覚えてた?」

 すとんと座り込んで青葉の方を見た桜の顔は、その時にはすでに元に戻っていた。

「覚えてるよ。十二日だろ」

「そうそう、えらいえらい。あ、誕生日プレゼントとか、気使わなくていいからね。お酒奢ってくれたらそれでいいや」

 高校生までは毎年プレゼントを要求していたのにな、と思ったが口には出さない。

 誕生日の前日に、お前は死ぬんだ、なんてことを言えば、本当になってしまうような予感がして、青葉は短く「わかった」と返事をした。


 その日も解散する時、次の日の約束はしなかった。



 六日目。

 朝から雨が降っていた。青葉は雨粒が窓を叩いている音で目が覚めた。

 朝食を取ってから、部屋に戻って、タイムスリップ物の小説を何冊か抜き出して読んだ。だが、現状を解決してくれるような話は無かった。

 何もする気が起きないが、四月十一日は明日だ。あまりにもそういう兆候がないため全然考えていなかったが、桜の死について、記憶の引き出しを手当たり次第に開けてみる。

 桜が死んだとき、青葉は他社とのコンペ形式のプレゼンの用意をしていて常に睡眠不足だった。そのせいか、事故死の詳細について思い出せたことは少なかった。確か、夜――それも深夜の出来事だったような気がする。思い出せたことはその程度。

 夕方に差し掛かると、雨はさらに勢いを増して、盛大に家の窓や屋根を叩いていた。

 少し窓を開けただけで雨風が吹き込んでくるので、青葉は煙草を吸うのを諦めた。


「事故死。事故死か」

 青翡翠を手のひらで転がす。ひんやりとした感触と、青と白の色合いが、昨晩の海を連想させた。

 ふと、一冊の小説のことを思い出した。

 事故死に見せかけて自殺をしようとする主人公の話だ。

「いやまさか」と首を振るが、「誕生日プレゼントはいらない」「なれなかった」という桜の言葉が、妙な意味合いを持っている風に思えてきた。

 一度その可能性を考えてしまうと、もう止まらない。

 桜の言葉のすべてが、死を希うそれに思えて仕方がない。


 二十一時。雨の勢いも弱まってきた夜。

 気になって仕方がなかった青葉は、開口一番に桜に聞いてみることにした。

「なあ、自殺しようとか、考えてる?」

 ここ数日の習慣通り待っていた桜は青葉を見て笑顔を浮かべ、しかしその青葉の言葉を受けて、笑顔をひび割れさせてから、俯いた。

 青葉にとっては、それが返事も同然。

 俯いた桜の表情は読めない。少し経って「なんで」と小さな声で彼女は言った。

「そんな気がしたんだ」

 根拠は、言えそうもなかった。タイムスリップをしてきました、ということを、おそらく青葉は誰にも言えないだろうなとその時思った。雨に濡れた地面が俯く桜の表情を映してくれやしないかと、一抹の希望を持って視線を下に逸らしてその途中、固く握られた桜の拳を見てしまったからだ。

 自分も、頭がおかしくなったと思ったのだ。

 そんな話をしても、きっと桜は理解しようとしない。

 桜が顔を上げた。いつか見たことのある表情だった。いっぱいに溜めた涙がこぼれないように、瞳を大きく開いている。

「もう帰って。何、いまさら、なんなの」

 くるりと青葉に背を向けて、桜は裏口の扉をくぐった。ばたん、と乱暴に戸は締められる。

 だが、まだそこにいるのはわかった。押し殺した泣き声が聞こえていた。

 事故死ではなく、自殺。それが桜の死の真実だと知って、青葉も少なからず動揺していた。ただ、このまま何もせずにいれば、桜はそのまま自分を殺してしまうのだと、なんとなくわかった。昔から、やると決めたことをやり通すのが彼女だったから。

 しかし、どうするべきか、青葉にはわからなかった。事故死であれば、桜が望まない形で生を終えるというのであれば助け出そうと決めていた。だが己の意思で死ぬと決めた人間を、本来ここにいるはずのない自分が関わって止めてしまうのは、無責任ではないかと思うのだ。

 そもそも未来から来た、なんて同じ世界に生きていると言えるのだろうか。タイムスリップ以前、青葉の父親である正則は「五年ぶりの再会だ」と言っていた。それはつまり、この青葉の過ごす日常は、青葉のいた未来にはつながらないことを意味している。

 青葉のいた世界とこの世界は、同じ世界のように見えてそうではない。

 と、そこで青葉は考えるのをやめた。別に、難しい解ではなかった。青葉が、タイムスリップをしてきた意味。

「桜」

 名前を呼んだ。まだ、扉を隔てた向こうに彼女はいる。会う必要はない。未来から来たここにいる青葉に、桜を引き留める資格はないからだ。

「明日の同じ時間。迎えに来るから、ここにいてくれ」

 無責任極まりない言葉を吐く。この青葉に、明日があるかどうかもわからないのに。

「絶対だ。いなかったら絶交だからな」

 言い残して、踵を返した。

 走る。一日目、桜のもとへ走った時のように、走る。

 行く先は決まっていた。


 公衆電話ボックスで、青葉は息を切らしながら小銭を入れていた。

 十一桁の番号をプッシュする。

『もしもし、稲泉ですが』

 繋がった――現在の青葉自身に。

 青葉が思いついたのは、現在の〈自分〉に、桜を任せればいい、という答えだった。未来から来た青葉はいつか未来に帰ってしまうかもしれないとしても、現在の青葉ならその心配は皆無なのだから。

「おい。よく聞け。桜が自殺しようとしている。今すぐこっちに帰ってこい」

 電話の向こうにいる自分が、戸惑ったのがわかった。

『えーと、どちら様?』

「稲泉青葉だ。あぁ、敬語なんか抜きで話そうぜ。自分自身だ。面倒くさいことは抜きにしよう」

『……いたずらか? いい加減にしろよ』

 〈自分〉が苛々しているのが伝わってきた。確か、プレゼン資料作成で三日は寝ていなかった時だ。それもそうだ、と青葉は〈自分〉に同情した。そんな時におかしな電話がかかってきたら、悪戯だと思うにきまっている。

 だから青葉は、簡潔に自分が〈自分〉であることを証明した。

 すなわち、銀行の暗証番号、SNSアカウントのパスワード、初恋の人の名前、大学での彼女の名前、初めて煙草を吸ったときに格好つけて肺に煙を入れて嘔吐したことなど、「誰にも話したことのない事実」を並べ立てたのだ。

『待って、待ってくれって、わかった。わかったよ。いや、納得はできないけど信じなきゃいけないのはわかった。で、桜が自殺するってどういうことだ』

 物分かりが良くて助かる。さすが自分同士、話が伝わるのが早い、と感心しながら青葉はここ六日間の話を〈自分〉に伝えた。

『でもなぁ……桜が本当に自殺なんかするのか?』

 前言撤回だった。物分かりが良くない〈自分〉だ。

「ごちゃごちゃ言ってないで今すぐこっちに来いって言ってるんだ。ちゃんと薔薇の花束と婚姻届けを忘れるなよ」

『おい、なんでそうなるんだよ』

「好きだろ? 桜のこと。馬鹿、いや、〈自分〉のことをそんな風に言うのもなんか釈然としないが、俺に隠し事できると思うなよ。お前自身だ」

 付け加えるなら、現在の〈自分〉が決して知らないことを、未来の〈自分〉は知っている。

 つまるところ、それに尽きる。

 青葉は気付くのが遅かった。東京へ出てこれたのも、仕事を頑張ってこれたのも、故郷に居場所があるという安心感のおかげだということを。居場所、とはもちろん実家のこともあるが、その中に確かに桜も入っている。

 気付けなかったことに気付いた青葉がやるべきことは、気付いてない〈自分〉にそれを教えることだと確信した。


 「――桜がいない世界の景色の寂しさを、お前は知らないんだ。俺は桜が死んで初めて気付いたぞ。あいつのことが好きだって」


 そう、伝えた直後のことだった。

 瞬間、夜の帳は引き上げられ、眩しい太陽が頭上を照らした。かと思えば、再び夜の闇が訪れる。その感覚は、だんだんと狭まっていく。

 うわ、またこれかと思った。視界が揺れる。一度目よりも、なぜか遥かに酔いが激しい気がした。気持ちが悪い。

 ぐるんぐるんと世界が回る。回る。


 そして、暗転。



 8

 きぃん、と小さな音が聞こえた気がした。

 気が付くと、青葉は墓地にいた。実家の部屋に置きっぱなしにしていたはずのコートを着て。足元にはリュックサックが置いてある。

「えぇ、夢か? 嘘だろ疲れてんのかな……」

 何度か瞬きをして、ゆっくりと状況を把握していく。

 携帯のディスプレイをつけると、『十一月十三日』『十五:三二』と表示されていた。

 そんな彼の後ろに近づく人影が一つ。

「青葉、どうしたの?」

 ジーパンに薄手のパーカー、ポニーテール。旧姓鶴木。鶴木屋の元若女将、現バリバリの専業主婦の彼女は、青葉の最愛の妻である稲泉桜だ。

「なんか、夢を見てた」

「夢?」

 そう、と青葉は頷いた。

 桜が、死んでしまっている世界の夢だった。

「まあ気にしなくていいよ。現実の方が、ずっと夢みたいに幸せだ」

 そう言って笑う。苦労して入社した会社が恐ろしくブラックで、早いうちに転職を決めてよかった。おかげで、こうやって妻と故郷へ帰省する時間も取れるのだから。

「じゃあ、そろそろ帰るか。久々にお義父さんの料理が食べられるの楽しみだ」

 そう言ってからふと気になって、ズボンのポケットに手をいれると革の巾着袋の感触があった。取り出して、手のひらの上で逆さにする。

 中から出てきた翡翠は真っ二つに割れていた。

「……お守り、割れてる」

 さっきの音はこれかと青葉が項垂れていると、桜は彼の手からその片割れをつまんで、自分の胸元に押し当てた。

「私、これを青葉にあげたとき、一個お願いしたんだよね」

「なんて願ったの?」


 桜は悪戯っぽく笑って、「内緒」と言った。

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青翡翠は二度割れる @hibariyakumo

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