ワン スモール ステップ フロム ゼロ Vol5

 あの日を境に褥は作業場にしている庵に籠る事が多くなっていた。

 一日の大半をこの庵で過ごすのも近年ではそれ程多くは無かった。

 職人と自称してるが、作品へのイメージと心身共の健やかさが揃わないとコンセントレーションが保てない為、本業の彫刻は決してしない芸術家そのものなのである。


 コンセントレーションを得られない場合でも仕事道具で在るノミを研いだり、腕や感覚が鈍らない様に試し彫りに近い事はしているが作品は創ろうとはしない。

 拘りと云えばそれまでなのだが、創作物に己の持ち得る技術からプラスアルファを求める為にメンタルコントロールは必要不可欠な要素で、この気難しさ故に気に入った仕事しかしないと評されるのは本人も知っていて甘んじても居る。


 叩きノミは勿論の事、突きノミや彫刻刀の様な小さなノミまで様々な刃物を、永年使い込み飴色になった檜の浅い箱に用途別に分けられ整然と並べられている。

 彫刻を知らぬ者が視たらその種類の多さに驚くであろうが、褥の手元に並べて在る刃物は所有している道具の半数程度でしかない。


 この庵に褥が籠って居る間は家人だけでなく、用事等で来訪した弟子でさえ不用意に近付かない。

 そんな時は褥が庵から出て来るまで待つしか無いと知っている。

 集中力を削がれ些細なミスを冒すと長い時間を掛け彫り込み、完成間近の物で在っても躊躇なく薪にしてしまうのが褥で在り、膨大な時間が水泡に帰すからで在る。



「今日はここまでとするかねぇ」


 手に持ったノミを静かに置き褥が呟いた。

 長時間に及ぶ作業で凝り固まった肩や首筋に手を充て解す姿が在った。

 幾分疲れた表情で在るが完成に近づく観音像を眺め恍惚を浮かべる。

 その表情はここまで満足のいく仕事をしている証でも在った。


 時間を忘れ己自身の世界に没頭していた為、日常に戻るにはこうしたクールダウンの時間が必要になるのは常で在った。

 一頻ひとしきり観音像を眺めると使った道具の刃先を確認し始めた。

 そして研ぐ必要の在る物を取り出し無造作に空の木箱に放り込む。

 道具の手入れでも在る研ぎは集中力を必要とする為、いまの褥にその気力は残ってなく出来ないのだが、明日の仕事前に研ぐ事にした。


『こっちは着々と進んじゃぁいるよ。弥生。お前さんの方はどうなってるのかねぇ』


 褥の彫っている観音像はある目的の為でそれは自身の胸の内に収め、口外はして無いが彩華と慎之介は察してる事だろう。

 言い換えれば住居を共にしない璃央と息子で在る透真の二人は気付いていない。


 璃央はあの日からここに顔を出して無いので致し方ないと思うが、我が息子ながら透真の察しの悪さにも程が在るってもんさね。

 褥の想いは複雑で悔しいやら呆れるやらと忸怩じくじたるモノが在るようだった。

 

 考え事をしながらノミの選別を終えると箒で大鋸屑おがくずの様な切粉を集めて土嚢袋に詰め引き戸を開け庵を出た。

 時計を見ていないので正確な時刻は分からないが、お陽様の傾きで凡その見当は着く。


「もう夕刻になっちまったねぇ。晩の支度は彩華が拵えてる筈だが手伝ってやるとするかい」


 褥は独り言のように呟くと母屋の裏手に在る納屋まで行き、そこに置いて在る廃材を入れるドラム缶に土嚢袋に詰めた木屑を空ける。

 慎之介の生業で在る宮大工の仕事柄も在って、木の廃材を纏めて置くドラム缶は頃合い視て廃棄したり何かの焚き付け使ったりしている。

 夫婦で木材を扱う仕事に従事してるのも何かの縁で在ろうと常々褥は考えていた。



「彩華や。お前さん何をやってるんだい?」


「お義母さん、お仕事は終わったの?」


「なんだいなんだい。そんなに突っ伏して具合でも悪いのかい?」


「あっ。ごめんなさい。具合は悪くないわよ。ちょっとねぇ――上手く行かなくてぇ」


「上手く行かないって何をしてんだい」


「今晩はハンバーグなのだけど、紫音と綾音がクマのポーさんにして欲しいって云うからチャレンジしてるの。でもね、耳の部分が上手く形にならないの。後からくっつけると焼いてる時のポロって取れちゃうじゃない? だからねぇ」


「平たくしてから形にしようってのが無理な話しで順序が逆なんだ。ちょっとあたしがやってみるから」


「そうなの? 割れちゃうから何回もやり直してるのだけどお義母さんなら出来そうね。ご教授お願いします」


「こんなのはミートボールを拵える時と一緒でその応用だよ。こうしてタネを丸めるだろ――それでここを――ボールみたく丸く絞るんだよ。それでな――こうして――こうやってゆっくり平たくすれば――ほら。出来ただろ?」


「本当だわ。お義母さんは何でも出来る本当に天才肌よね」


「世辞は要らないよ。それよりやってみな」


「やってみるわね。お義母さんの指摘通りで私は逆の手順でしてたのね。先ずは――丸めて――ここを絞って――それから――こうして平たく――――あーん、少し割れちゃったけど何回かやれば出来そうだわ。お義母さん。ありがとう」


「まぁ、焼く前なら粘土細工と同じ様なもんだ。納得するまでやれば良いさね」


「そうね。何回もチャレンジしてみるわ。でも弥生ちゃんなら最初から出来そうな気がするわ。ちょっと悔しいけど、お義母さん同様に天才肌なんだもの」


「そうさねぇ。弥生なら教えないでもこのくらいは出来るかも知れないねぇ。あたしゃぁ、彩華と弥生が切磋琢磨してくれると楽になるんだがねぇ。それで他に拵えるのは在るのかい?」


「もう、このハンバーグだけよ。盛付けは焼きながらすれば良いから大丈夫。お仕事で神経使って疲れてるでしょ? お義母さんはゆっくりしてて」


「そう云う事なら少しゆっくりしようかねぇ。何か在ったら居間に居るから呼んどくれな」


「了解。ごめんなさい。いま私、手がアレだからお茶の支度出来ないわ。お任せして良いかな?」


「構わんさ。自分の茶くらい煎れるさね。それじゃ頼んだよ」


「あいあいさー」



 彩華の云う通り神経を使った仕事で疲れていた褥は居間で寛ぐ事にした。

 晩の支度は滞りなく彩華がやってくれる。

 本当に良く出来た嫁で透真にして最大の功績だよ。


 と――心の中で褒めちぎった矢先に彩華がやらかした。

 それは晩ご飯の配膳をした時に発覚したので、全ては後の祭りだったのだ。


 満面の笑顔で家族の反応が楽しみで仕方ないと云ったとオーラを纏い、嬉々として配膳する彩華は実に愉快だったに違いない。

 彩華の用意したメインディッシュは慎之介を始めとした大人用も含め、全てクマのポーさんの形をしたハンバーグなのだ。


 更に追い打ちをかけるようにソースで目と口まで描く徹底ぶりは、彩華にしてみれば渾身の力作で、まるで作品を披露するような気分なのだろう。

 それを視て大喜びしながらはしゃぐのは紫音と綾音だけで、彩華を除く大人は自分が何を見てるのか半信半疑に、お互いの顔と眼の前に置かれた料理を交互に見比べ状況把握を図っている。

 褥も多分に漏れずに居たが、状況に思考が追い付いて来ると今度は眩暈が起きてるので無いかと疑ってしまう程に頭を抱えたくなる衝動を堪え、苦虫を噛み潰したような顔でこうなった要因に思い当たる節が在るのを悔やんだ。


 良く出来た嫁でも彩華にはこれが在ったんだったよ。

 こんな風にやり過ぎるのは油断すると顔を覗かせるいつもの悪癖だ。


 『あたしゃぁ、何であの時に釘を刺して置かなかったんだい。はぁ――』

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