眠れぬ夜は Vol2

「ふぅ。偶にはこう云うのも悪くないねぇ」


 褥は独り言を呟く。

 居間のローテーブルには二合徳利と猪口、それに漬物が載る。

 時間は日付が変わる少し前。

 深夜に一人、熱めにつけたぬる燗をっている。

 家人は皆寝静まり猪口を置く音も響く静けさの中、昂った神経を解すように酒を煽る姿が在った。


 事の顛末はこんな感じだ。

 晩の後片付けを済ませ風呂に入り浴衣に着替え床に就き暫く瞼を閉じて居たが、どうにも寝付ける気がしなく静かに床を出て居間でり始めたのだった。

 一心不乱に木と向き合い彫り物をすると、終いにした後でも神経が疲労して眠れなくなる時が在る。

 大概は浴槽に浸かり身体を解せば疲れに乗じて治まるのだが、今夜ばかりはそう上手く行かなかったようだ。

 そこで思い付いたのが酒の力を借りて紛らわすと云う方法であった。


 弥生が帰った翌日から観音像を彫り始め、幾分形になり始めたといった進捗状況だがペース的には相当な速さで彫り進んでいる。


『確かに時間も限られちゃぁいるが、それより気が逸っていけないねぇ』


 まるで師匠に付いて修行の毎日だった頃のように、我武者羅と云って良いほどの速さだ。

 動かす指先の感覚を研ぎ澄まし一彫一鑿ひとのみに全神経を集中して進める作業は、少しでも気が緩めば何もかも台無しになるのだから始末に負えない。

 まだあたしが一弟子の小娘だった頃にゃぁ、幾つなんて数えたらキリが無い程の素材を焚き木にした事やら。


 そんな昔を振り返ると懐かしいような気恥しいような、何とも複雑な気分だよ。全く。

 いまだったらなんて『たられば話』なんかしても無駄な事と解かっちゃいるが『もしもあの時』なんて考えが過ぎってしまうのはいつもの事さね。

 これまでに幾つも失敗を積み重ねたからこそ、視えて来る事も在るってのが道理なのも知っちゃ居るのに何てこったい。

 


「あら。お義母さんも眠れないの? 私もご相伴に与かろうかしらね」


「ぬる燗で良いなら勝手にしな」


「それで構わないわよ。どうせ酔えないのだし。ふふふ」


「そうだったねぇ。お前さんは蟒蛇うわばみだから始末に負えないよ」


「はい。お義母さん、どうぞ。私は手酌で良いからね」


「あの娘達は眠ってるのかい?」


「ぐっすり眠ってるから朝まで起きないわよ」


「そうかい。それで彩華は何でこんな時間に起きてるんだい?」


「さっきまでウトウトしてたのよ。でも眼が覚めちゃって暫く眠れそうに無いから、朝の仕込みでもと思ってたらお義母さんが居るんだもの。そりゃぁ、お付き合いしなくちゃねって」


「何でも物は云いようだよ。あたしゃ構いはしないがね」



 ポツリポツリとひと言ふた言と言葉を交わしては途切れ、暫くの間は静寂に戻りそしてまたひと言ふた言と。

 そんな感じの会話が弾まない居心地の悪さは全く無く、この深夜の時間帯にあっては寧ろ好ましい静けさと云える。

 心地好い気怠さにゆっくり時間は流れ、時計の奏でる秒針の音だけが規則的に刻んでいく。



「根詰めてお仕事してるけど、身体は労って貰わないと駄目よ」


「なぁに。戴した事じゃ無いよ。あたしが若い時分には毎日朝まで修行に明け暮れたもんさね」


「だからぁ。もう若くないのだから無理も効かなくなるでしょ? それを心配してるのよ。もう、照れ屋さんなのも使い処を間違うと心配されるだけよぉ」


「そりゃ悪かったねぇ。しかしどうにも落ち着かないんだよ。こう……逸ってしまうんだ。まさか小娘でもあるまいしって困ったもんだよ」


「やっぱりお義母さんも弥生ちゃんの事で? 実は私もなのよ」


「心配はしてないさ。只な。歳甲斐も無く何か面白くなるんじゃないかってねぇ。愉しみなんだよ」


「そうね。私もそれは感じてるわよ。まだ何日も経って無いけど、この家が何処か暗く感じるって云うか何かが彩褪せてしまったような感覚になる事が在るの」


「何にせよ、じきだよ。果報は寝て待てって云うけどねぇ。何ともいけない。こう、気持ちの塩梅が上手くないんだよ」


「物足りなさ? そんな風に感じてるのは私だけじゃ無いみたいね。お義母さんもだけど紫音と綾音もなのよ。毎日のようにお姉ちゃんはいつ来るんだって聞いて来るもの」


「あの娘達は滅多に物怖じしないけど、あんな風にべったり懐くのも璃央くらいのものだったんだけどねぇ」


「そうよね。そこは私も少し驚いてるの。でも子供って良くも悪くも正直だから、直感的に何かを感じたのかも知れないわね。歓迎すべき事だから良いのだけど」



 どちらからとも無く流れの中で弥生に水が向けられて行く。

 それは決して堰を切るのではなく、溢れ出したひと雫みたいなもの。


 『これは彩華との内々の話しだ。弥生も居ないのだし、このくらいは慎之介あの人も大目に視てくれる筈さね』


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