Day25 カラカラ

 岬のコテージの一室で、リヒトは熱心に書き物をしていた。

 今回得た研究成果を、忘れないうちに全て書き留めておかねばならない。メモした情報を駆使して、時には記憶を頼りにして、手帳に文字や図形の羅列を書き込んでいく。

 額から汗が一滴したたり落ちて、紙の上に染みをつくる。それにも気づかず、彼は手を動かし続けた。遠くに聞こえる波音も、カモメの鳴く声も、リヒトの耳には聞こえていない。


 見かねたヴェルデは、リヒトの作業机へと飲み物のグラスを差し入れた。

「主様、こちらを」

 それは澄んだ黄色をしたレモネードだった。リヒトはやっと机から顔を上げると、レモネードを見てぱっと顔を輝かせた。

「うわぁ、きれいだね! 美味しそう」

 ヴェルデに声を掛けられて、リヒトは喉がカラカラであることに気が付いた。たまらずグラスを手に取ると、レモネードをごくごくと飲み干していく。爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、甘さと酸味が口いっぱいにひろがった。

 空のグラスを机に置くと、リヒトは嬉しそうに、

「ありがとうヴェルさん、気が利くね」

と、隣の友人に伝えた。あくまで従者としてふるまうヴェルデは「滅相もございません」と返す。「相変わらず固いなぁ」と、リヒトは笑う。


「それにしても」

 ヴェルデはふと呟いた。

「この村はずいぶんと亜人に寛容なのですね。近くの農家にうかがった際も、快くレモンを分けてくださった」

 そのお蔭で、こうしてレモネードをお出しできたのです。ヴェルデはそう言いつつも、戸惑いを隠しきれない様子だ。以前、街で差別を受けたことを思い出しているのだろう。リヒトは彼を安心させるように、こんな話をした。

「大丈夫だよヴェルさん。だってこの辺りには人魚の言い伝えがあるからね」

「人魚、ですか」

「うん。村の長老から聞いたんだ」

 リヒトの言うところによれば、この村落では人魚の存在が信じられてきた。人魚は豊漁の守り神として祀られており、実際に人魚を見たという者も時折現れるという。彼らの出現は吉兆である。その実在はともかくとして、人魚は善きもの、有難きものと考えられていた。

 しかし、言い伝えを語り継ぐものは年々少なくなっており、今ではわずかに村の老人たちが伝え聞いているのみである。

 リヒトの話を聞いて、ヴェルデは成る程、と頷いた。確かにレモンを分けてくれた農家は気のいい老人だった。村の若者たちは物陰から遠巻きにヴェルデを見つめていて、その視線の不穏さを彼は感じ取っていた。そのため、レモンを受け取ると老人に感謝を告げ、足早に農園を後にしたのだった。

「……という訳なんだ。ねえ、本当に人魚はいるのかな。もしいるなら会ってみたいな」

「はい、会えると良いですね」

 リヒトはひとしきり話し終えると、再び書き物へと戻った。ヴェルデは空のグラスを洗いながら、人魚の存在に思いを馳せていた。今も、遠くの海を泳いでいるのだろうか。窓の外を見やると、青く澄んだ空が広がっている。

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