15

「あれ? 愛ちゃん? 早退したんじゃなかったの?」

 駅のホームで電車の到着を待っていると、私服姿の梓が声を掛けてきた。

「先輩こそ、こんな時間にどうしたんですか?」

「……わ、私のことは別にいいでしょ」

 そう言い、梓は大きな鞄をそっと背後に隠した。

 普段はつけていない香水のような香りがふわっと辺りに広がる。

 少し照れている様子からして、おそらく彼氏の家に泊まりに行くところなのだろうな――と、愛は直感したが、口には出さなかった。

「てっきり先生の恋人を呪い殺す為に、丑の刻参りの準備でもしてる頃かと思ってたんだけど」

「丑の刻参りって……」

 自分に対し、一体どういうイメージを持っているのだろうと疑問に思いつつ、愛は維伸の自宅に泊まりに来ている人物が男であることを梓に伝えた。

 嬉々とした身振りで話す愛に対し、

 梓は段々と複雑そうな表情を浮かべ、終いには、

「あっちゃー……」

 と、声に出して頭を抱えた。

「?」

「もしかして――とは思ってたんだけど。やっぱり先生もあっちの世界の人だったんだ。なんとなく、怪しいとは思っていたんだよねー……」

「あっちの世界って、どっちの世界ですか?」

「もうっ! 先生も黒川先生と一緒で、ゲイだったってことだよ!」

 察しが悪い後輩に苛立ったのか、梓は声を荒げた。

(先生がゲイ? まさか、そんなわけ……)


 ――俺は外で一服してから戻るから、お前は念入りに体でも洗ってろ。


 先ほどの赤髪の男の声が、頭の中でこだました。

(念入りに洗ってろって……よく考えたら、完全にヤる気満々なんじゃ……!?)




「一体どうしちゃったんでしょう」

 夕食のホットケーキに一口も手を付けず、ぼーっと天井の照明を眺めている愛の姿を見て――麦芽は、そっと姉に耳打ちをした。

「別に、この子が変なのは今に始まったことじゃないでしょ」

「それはそうですけど……」

「そんなに気になるんだったら、直接聞いてみればいいじゃない」

「駄目ですよ。年頃の女の子にそんなこと……! デリケートな話題だったらどうするんですか」

「だからって毎回私を使わないでよ。一緒に暮らし始めて、結構経ってんのよ? なのにアンタときたら……」

「しょうがないじゃないですか。いままでずっと、仕事の関係ですれ違いの生活が続いていたんですから。愛ちゃんとはこれからゆっくりと時間をかけて打ち解けていきたいんです」

「だったらなおのこと、今行きなさいよ」

 そう言い、緑子は弟の背をぴしゃりと叩くと、

「私はもう寝るわ。おやすみ」

 さっさとリビングから退散してしまった。

「…………」

 愛と二人リビングに取り残され、

「あのー……愛ちゃん?」

 麦芽は恐る恐る話しかけた。

「今日は一段とお加減がよろしくなさそうな感じがするんですけど。大丈夫ですか?」

「…………」

「……あ、そうだ。一応血圧を測っておきましょうか。少し失礼しますね。えぇと、百十の七十四……うん、問題ありませんね」

「…………」

「体調のことだけでなく、生活面での心配ごとなどございましたら気軽におっしゃってください」

「…………」

「…………」

 二人の間に再び沈黙が走る。

 と、いっても元々麦芽しか喋っていなかったのだが。

 やや他人行儀な話しかけ方だったのだろうかと、麦芽が反省していると、

「あの……」

 ようやく愛が口を開いた。

「確か、お医者さんや看護師さんには守秘義務っていうやつがあるんですよね」

「えぇ、よくご存じで。業務上知り得たことだけになりますが、医療従事者には厳格な守秘義務が課せられているんですよ。犯罪や虐待に関わるものに関しては例外があるんですけどね」

「業務上……」

 そう呟くと、愛は再び押し黙ってしまった。

 どことなく、表情に覇気がないような気がする。

「……もしかして何か悩んでいることがあるのですか」

「えっ?」

「もし、貴女が何か人に言いづらい悩みを抱えているのであれば……。ぜひ話を聞かせて下さい。絶対に他の誰にも話さないと、約束しますから」

 麦芽の言葉に、愛は躊躇いがちに目を伏せ、

「本当に……誰にも話さないって約束してくれますか?」

 絞り出すような声でそう言った。

「……え……えぇ、もちろんです!」

 まさか本当に相談してもらえるとは思っていなかったのだろう。

 麦芽は、やや前のめりの姿勢で身を乗り出した。

「あの、この話……絶対に、お姉さんには内緒にして欲しいんですけど……」

「はい。絶対に喋りません」

「…………」

 愛は真摯な眼差しを向けてくる麦芽の瞳を見つめ、

「わたし、好きな人がいるんです」

 そう告げた。

「……好きな人……。えぇぇぇ!?」

 予想していた内容と大きく違ったのだろう、麦芽の素っ頓狂な声がリビングに響き渡る。

(あぁ……だから最近……)

 帰宅するのが遅かったのだろう――と、麦芽は一人納得し始めた。

 おそらく愛は誰かと交際をしているんだろう。帰宅時間が日に日に遅くなっていた理由は分かったとはいえ、一番気になるのは……もちろん相手の男のことだった。

(まさか愛ちゃんに恋人ができるなんて……)

 本来であれば真っ先に姉に相談しなくてはいけない話題だが、愛に秘密にすると約束した手前そういうわけにはいかない。

 自分は一体どうすればよいのだろう――と、麦芽が考えていると、

「それでですね。その人のことでちょっと悩んでいることがありまして……」

「悩んでること……ですか?」

 年頃の女の子が異性との交際で悩むことといえば、きっとあの行為についてに違いない。相手の男が想像以上に酷い男で、全く避妊してくれなくて困ってる……とか言われたら、どう答えればいいのだろう。

 そう考え、麦芽が息を呑んだ瞬間、

「その人、もしかするとゲイかもしれないんです」

「……え、ええええ!? げ、げげげゲイですか!?」

 またしても思いがけない単語が飛び出て、思わず麦芽は動揺してしまった。

「……」

 愛はというと、予想以上のリアクションの良さにぽかんと面食らっている様子だった。

「――――」

 麦芽は「ごほん」と咳ばらいをし、

「『かもしれない』……ということは、本人がカミングアウトしたとか――そういう話ではないってことですよね。……なのに、どうしてその人が同性愛者だと?」

 と、真っすぐに愛の目を見て尋ねた。

「えっと、その……」

 その推論に至るまでの経緯を一体どう説明すればいいのだろうと、愛は考えを巡らせていた。

(男友達がいないはずの先生の所に、急に男の人が泊まりに来て……っていうのは何となく、説得力に欠ける気がする。そもそも、わたしはまだ半信半疑で、先輩がゲイだって言ったから疑ってる――ってだけの段階だし)

 その結果、

「なんとなく? といいますか、雰囲気的にそうなのかなって」

 と、お茶を濁すことにした。

「雰囲気……といいますと?」

「え? えぇと……。男らしくない――っていうと、悪口みたいに聞こえるかもしれないんですけど、そういうつもりじゃなくて。だからといって女みたい……というほどでもないんですけど、あんまり……こう、女性に対してがっついてる感じではないといいますか。身長も高くて、顔もすっごくかっこいいのに、全然そういうのを鼻につけていないというか――むしろ内気で自分にあまり自信がなさそうな感じのタイプの人で、でもそこがいいっていうか。ちょっと周りの人に対して気を遣いすぎるところが玉に傷なんですけど。それは優しすぎるあまり、周りに対して敏感になっているといいますか……そういう繊細な一面を見ていると、なんだか守ってあげたくなるような……」

「……?」

 ぽかんとしている麦芽を見て、愛は途中から単に維伸の好きなところを羅列しているだけなのだと気付いた。

「…………」

 思わず頬が赤らんでしまい、咄嗟に顔を下に向ける。

「……あの、つかぬ事をお聞きしますが……。もしかして、その男性とはまだお付き合いをしているような段階ではない感じ……なのでしょうか?」

「あ、はい。単にわたしが一方的に慕ってるだけで……付き合うとか、そんなことは全然。向こうはそもそも、わたしの気持ちなんて少しも気付いてないと思いますし」

「――あ、あの。さらにつかぬことをお聞きしますが……」

「?」

「もしかしてその男性は、愛ちゃんのすぐ近くにいる男性……だったりしますか?」

「近く……ですか?」

 そう言われて愛は思案する。

(学校がある日は毎日顔を合わせて、昼食も一緒にとってるし、休みの日も先生の家の近くの公園に行って監視してるから――……)

「……近くといえば、近くですね」

「そ、そうですか……」

 麦芽は何かを勘違いしてしまったのか、困った風な表情を浮かべ黙り込んでしまった。心なしか頬が紅潮しているようにも見える。

「…………」

 愛の方はというと、麦芽が動揺していることにも気づかず、すっかり冷えてしまったホットケーキにようやくフォークを突き刺し、物思いに耽り始めた。




「……どうすればいいのかな」

 飼い鳥のヒヨコに向かって、愛は話しかけていた。もちろんヒヨコはぴよぴよと鳴くだけで答えなど授けてくれない。

「…………」

 どうせ叶わぬ恋なのだ。

 教師である彼が自分の気持ちに応えてくれるはずなどない。

(だったらいっそ――……)

 本当に同性愛者であった方が諦めがつくのではないのか――と、思いながら、愛はヒヨコが餌をついばむ様を眺めていた。

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