14

「ありがとうございましたー」

 鍵屋から出てきた愛の手には、二本の真新しい合鍵が握られていた。

 一本は部室の鍵、もう一本は――……。

 元となった鍵らを返却しに一旦学校に戻り、再び学校を後にする。


 ――そして数十分後。


 愛は維伸の自宅のすぐ近くまで来ていた。

 いつもならあまり立ち入ることはないアパートの敷地を跨ぎ、階段を昇る。

 彼の住まう部屋の扉の前で立ち止まり、先ほど複製してもらったばかりの合鍵を取り出し、それを差し込んだ。

 恐る恐る鍵を回すと、ガチャリという音と共に確かな手ごたえがあった。

 素早く中に侵入し、扉を閉める。

「これが先生の部屋……」

 いつかこの部屋に入りたいとずっと願っていたが、まさかこのような形で実現するとは思ってもみなかった。

 和室をメインにした二間続きのレトロな住居は、比較的新しめの住居でしか暮らしたことがない愛にとっては珍しく、まるで映画のセットを眺めているような気分だった。

 部屋の隅から隅までを見渡し、

(もっと荒れてる感じなのを想像してたけど、どっちかというと物が多すぎて溢れかえってる……って感じだね)

「よし! いっちょやりますか!」

 すぐさま部屋の掃除に取り掛かった。


 どうやら維伸が自宅に恋人を連れてくるまでの間に部屋を片付け、二人を一緒のベッドで寝させない――という、作戦のようだ。

 かなり周りくどすぎる気もするが、愛本人はこの作戦を、誰も傷つけることのない平和的な解決手段のように思っているらしかった。

 もっとも、家主の許可なく合鍵を複製し、不法侵入をしている時点で犯罪行為そのものなのだが……目的の為なら手段を厭わない性分なのか、愛はそのことをあまり気にしていない様子だった。

「……ふぅ、これでなんとか片付いたかな」

 大量の画材道具をあらかた押し入れに押し込み、なんとか来客用の布団を敷けるスペースを確保した。

 改めて綺麗になった部屋を見渡し、

「これが自分の部屋だったら全く片付ける気にならないのに……。やっぱり愛の力は偉大だね」

 などと満足げに言い、まだ家主が帰ってくるであろう時刻まで余裕があることに気付いた愛は、今度こそ彼の私物を漁り始めた。

「あれ? これってもしかして……」

 本棚に並ぶ書籍の中から、『成果高等学校』と銘打たれた卒業アルバムが目に留まり、それを開く。

 その中から今の自分とさして変わらない年齢の、若かれし頃の維伸の写真を見つけ出し、

「ふふっ、今と全然変わってない……」

 と、吹き出すように呟いた。




 空が茜色に染まる頃。

 愛はベッドの上に横たわって彼の卒業アルバムを眺めていた。

 時計の長針が二周した辺りでようやく満足したのか、アルバムを閉じ、今度はシーツの上に顔を埋める。

(先生の匂いがする……)

 普段彼が寝起きしている場所で、僅かに残る彼の存在を感じ取り、

 永遠に満たされることがないのだろうと思っていた心の隙間に、何か暖かなものが流れ込んでくるような……そんな感覚を覚えながら、愛はゆっくりとまぶたを閉じた。


 ――それからどれぐらい時間が経ったのだろうか。

 ガチャリという物音が聞こえ、愛はようやく目を覚ました。


「おかしいな。ちゃんと掛けてから出たはずなのに……」

 鍵を開けたつもりが逆に掛かってしまい、この部屋の家主は扉の前で困惑していた。

 そしてその隣には、

「お前なー……この辺は地元みたいなクソ田舎じゃねーんだから、家出るときにちゃんと確認してから出ろよな。空き巣にでも入られてたらどうするんだよ」

 維伸の不用心さに悪態を吐く男の姿があった。




 ――室内では、

(やばっ!? いつの間にか寝ちゃってた! は、早く何処かに隠れないと……!)

 予期せぬ事態を前にして、慌てふためく愛の姿があった。

(押し入れは……物で溢れかえっているし、浴室やトイレなんかは開けられたらすぐに見つかっちゃう……!)

 何処にも隠れる場所なんてないのでは――と、諦めかけた矢先、

 ベッドの下に小柄な自分ならば入り込めるだろうスペースがあることに気付き、愛は急いでそこに滑り込んだ。

 愛の姿が隠れるのとほぼ同時に玄関の扉は開かれ、

「……なんだ。散らかってるとか言ってたけど、結構片付いてるじゃねーか」

 家主よりも先に男の方が部屋に入ってきた。

「あれ……?」

 維伸は、部屋の状態が今朝とは違っていることに少し戸惑っている様子だったが、

「そう……みたいだね?」

 すぐに自分の記憶違いだろうと、納得したようだった。

「築年数は結構いってるみたいだけど、わりといい感じの趣味の部屋だな」

 男はゆっくりと見渡しながら部屋の奥へと進み、愛が隠れているベッドを椅子代わりにして座った。そして、

「まさか女を誑し込む為にこういう薄暗い照明にしてるんじゃないだろうな。間接照明――っていうんだっけか、こういうの。ラブホか飲み屋のインテリアでしか見たことがねーんだけど」

 と、下卑た笑みを浮かべながらそう言った。

「蛍光灯の光より、こっちの方が自然光に近くて作業に集中できるんだ。人によってはリラックス効果があるらしいから、あんまり作業時の照明には向いてないのかもしれないけど……」

 返って来た反応があまり面白くなかったのか、男は「ふーん」と興味なさげに返事をすると、

「……お、懐かしいな」

 愛が仕舞い忘れた卒業アルバムを手に取り、パラパラとめくり始めた。

「お前はほんと昔から変わらないよなぁー……。童顔っていうか、とてもじゃないがいい歳した男の顔には見えない。スーツを着てるからかろうじて教師だってわかるだけで、私服で通勤してたら学生と間違えられるんじゃないのか」

「そこまでじゃないと思うけど……」

 と言い、困った風に自分の頬を掻く。

 どうやら維伸は、自分の外見があまり年相応ではないことを気にしている様子だった。

「そういう潮だって、年齢に対して若く見える方だと思うよ」

「俺の場合は服装が若い頃と変わらないからそう思うんだろ」

「前に会った時よりも、更に若くなってるような気がするんだけど……」

「あー……そりゃ、髪染めたせいかもな」

 そう言い、男は自分の髪を摘まんだ。

「いつ染めたの? 最後に会った時はまだ黒髪だったよね?」

「仕事をクビになった時だから……確か、三年ぐらい前だな。せっかく無職になったんだしと思って、思い切って記念にやってみたんだ」

「それで赤っていうのが、何となく潮らしい色だよね。似合ってると思うよ」

 にこにこと人懐こい微笑みを向ける維伸に対し、

 男は、「そりゃどうも」と、そっけなく返すと、大きなあくびをしてベッドの上に倒れ込んだ。

「ここんとこずっと昼夜逆転の生活してたから、眠くてさ。一時間ぐらいしたら起こし――……」

 そう言いながら、つい先ほどまで愛が使っていた毛布を手繰り寄せ、男は怪訝な顔を浮かべる。

 そして何かを確認するかのように、シーツの上の感触を手のひらで確かめ始めた。

「どうしたの?」

「あ……いや。やっぱ仮眠はナシにしとく」

「え?」

 男は急にベッドから起き上がり、おもむろに腰ポケットから煙草を取り出した。

「……しまった。ライター忘れてきた」

「防災用に買ってるやつならあるけど……出そうか?」

「いや、今からコンビニ行ってくる。どうせ夕飯を買いに行こうと思ってたし……お前も行くよな? な?」

「え? 夕飯だったらさっき店で食べたじゃないか」

「そうだけど……あんまり腹に溜まんなかったし、食後のデザート的な何かが欲しいなーって。あー……、口にすると余計に甘い物が食べたくなってきた。ほら、さっさと行こうぜ」

「僕はいいよ。甘い物はそんなに好きじゃないし。潮一人で行ってきなよ」

「あ……いや、だけど……。俺、この辺はどこにコンビニがあるかとか……知らないし?」

 男はキョロキョロと辺りを気にしながら、そう続けた。

「さっき家に帰る途中に寄ったコンビニが最寄のコンビニだよ。家から徒歩十分ってところだから、あんまり近くじゃないんだけど」

 そう言いながら維伸は、箪笥から自分の分の着替えを取り出し、脱衣所の方へと向かった。

「おい待て、どこに行く気だ」

「どこって言われても……シャワーを浴びに行くだけだけど?」

「まだまだ夜はこれからなんだし、風呂入るの早くないか?」

「でも、もう夜の十一時を過ぎてるよ? 今日は潮も居るから、さっさと済ませておこうかなって……」

「玄関の鍵はどうすればいいんだよ。俺、これからコンビニに行くんだけど」

「別に盗まれて困るような物は置いてないから、そのままにしといていいよ」

 そう言うと維伸は、脱衣所の戸をぴしゃりと閉めた。

「チッ、不用心なやつ。そんなんだから――……」

 と、何かを言いかけたものの、その先は口にはしなかった。

 男はベッドから立ち上がり、玄関に置かれている靴をじっと注視しながら、再び自分の靴を履いた。

「俺は外で一服してから戻るから、お前は念入りに体でも洗ってろ」

 脱衣所にいる維伸に聞こえるよう声を張り上げて、男は部屋から去っていった。




 浴室からシャワーの流れる音が聞こえ始めるのと同時に、そーっとベッドの下から愛が這い出てきた。

(……なーんだ。先生が待ち合わせしてた人って、男の人だったんだ)

 ベッドの下からでは顔を確認することは出来なかったが、維伸の連れてきた客人は明らかに男の声をしていた。

 愛はほっと胸を撫でおろし、

(さて、今のうちに……っと)

 維伸がシャワーを浴びている隙にこの場を立ち去ろうと、玄関の扉の前へと移動した。

(げ)

 そこでようやく、自分の靴を隠し忘れていたことに気付く。

 維伸に気取られなかったから良いものの、一歩間違えれば大惨事に繋がりかねない失態だと反省しながら靴を履き、

 静かに玄関の扉を開け、そっと外へと出る。

 階段を下りている最中に、

 ふと、スマホで何処かに電話を掛けている男と目が合った。

(あれ? こんな見るからにガラの悪そうな男、このアパートに住んでたっけ?)

 真っ赤な髪の色はあまりに奇抜で、一度見たらなかなか忘れられなさそうな風貌をしている。

 まじまじと物珍しそうに眺めてしまったからなのだろうか、

 心なしか男はこちらを睨んでいるような気がした。

『事件ですか? 事故ですか?』

 男のスマホからオペレーターらしき声が漏れ聞こえてきた。

「あ、いや……すみません、掛け間違えました」

 そう言い、男は通話を切った。

(あれ? この声……)


 ――それで赤っていうのが、何となく潮らしいよね。似合ってると思うよ。


(髪も赤色だし。この人、もしかして……)

「…………」

 男はおもむろに煙草を取り出し、胸ポケットに入れていたライターを使って吸い始めた。

(ライターは忘れたんじゃなかったっけ? さっきも無理やり先生をコンビニに誘い出そうとしてたし……。いったい何がしたいんだ、この男は)

 男の言動に対し、拭いきれない不信感を感じつつも、

(やばい、そろそろ終電の時間だ。急がないと……)

 愛はそのまま帰路についた。




「……なぁ。同じ階に成果高校の生徒が住んでいるのか?」

 ゆっくりと時間をかけて煙草を吸い終え、

 赤髪の男――軽日潮かるびうしおは、部屋に戻るなり風呂上がりの家主にそう尋ねた。

「え? いや、多分住んでないと思うけど……?」

「そうか……」

 そして、足元に視線を落とし、先ほどまであったはずの女物の靴が無くなっていることを確認した。

「…………」

 何かを思案するかのような仕草をし、辺りを見渡す。

「……さっきから何してるの?」

「いや、エロ本の一冊や二冊でも隠してねーかなーって思って」

 と言い、潮は床に這いつくばってベッドの下を覗き込んでいた。

 そんなものあるわけないだろう――と、呆れながら二人分のコーヒーを淹れている維伸を背に、

「これは……」

 ベッドの下に真新しい合鍵が落ちてあるのを見つけ、こっそりと仕舞った。

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