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「まったく。早退するんだったら、早退するって言えばいいのに」

 そう言い、荒々しく冷蔵庫からハイボール缶を取り出す姉を見て、やはり年頃の少女の扱いは難しいのだな――と、麦芽は思った。

「でも体調が悪いのは本当みたいですよ? 家に帰ってからずっと自室に籠ってますし」

「……そう」

 姉は素っ気なく返事をし、それっきり押し黙ってしまった。

 いつもならテレビ番組の録画を消化しながら食事を採るのだが、今日はそれをしようとしない。

 きっと職場で何かあったのだろうと、麦芽は思い切って尋ねてみた。

「今日、教員の一人がね……授業中に過呼吸を起こしてしまったのよ。それも結構激しめのやつを。前から授業中に息苦しくなることがあるとは聞いてはいたんだけど……」

 事前に相談を受けていながら防げなかったことに対し、姉はきっと責任を感じているのだろう。緑子の怒りの矛先が愛に向けたものではないのだと知り、麦芽はほっと一安心した。

 そして次に、その教員のことが気になった。

 過呼吸で死に至ることはないとはいえ、本人にとっては相当な苦痛だ。

 しかもそれが自分の教える生徒達の前で起きてしまったというのなら、精神的な苦痛も相当なものだろう。

「その教員の方……大丈夫だったんですか?」

「たまたま維伸が通りかかって、すぐに処置したみたいだからそんなには……。これが生徒たちだけだったらもっと酷くなっていたかもしれないわね。周囲が慌てることで余計に不安になって、症状が悪化してしまうし……まぁ、高校生を相手に驚くなっていうのも無理な話だと思うけど……」

 『処置』という単語を聞いて、反射的にペーパーバック呼吸法がなされたのではないのかと麦芽は心配になった。

 以前ならよく使われていた有名な手法だが、現在の医療においては否定的な見解が持たれている。その旨を姉に伝えると、落ち着かせるように相手に声掛けをし、ゆっくり息を吐かせることに意識を向けさせる――という正しい対応がなされたと知って、安心した。

「維伸さん、よくご存じでしたね」

「なんかちょうどその手の対処法が載ってる本を読んでたとかで、偶然知ってたみたいよ。本当は乗り物恐怖症とかそういうのを調べたかったみたいだけど」

「乗り物恐怖症……ですか?」

 麦芽はその言葉に引っかかりを覚えた。

「『乗り物恐怖症』というのは正式な診断名ではないと思うのですが。もし当てはまるのだとしたら、パニック症、広場恐怖症、もしくは――……」

「アンタはほんと、いちいち細かいわねー……」

 そう言って本日何本目か分からないハイボール缶を飲み干す姉を横目に、麦芽はこの場にいない少女のことを考えていた。




「うー……頭が痛い」

 鳥籠から聞こえてくるヒヨコの鳴き声で、愛はようやく目を覚ました。

 時間を確認しようとスマホに手を伸ばすものの、充電が切れているらしく画面が点かない。次に目覚まし時計を捜索したものの、壊れていたので役に立たなかった。

 のそのそと身を起こし、自室から出る。


 同居人達は既に就寝しているらしく、リビングの明かりは落とされていた。

 愛は薄っすらとカーテンの隙間から差し込む月明かりを頼りに歩みを進め、今の時刻を確認する。

(もうすぐ夜の十一時か……)

 家に帰り着いたのが午前中の十一時前だったので、十二時間近くぶっ通しで昼寝をしていたことになる。それでは頭痛もするはずだと思い、汗で湿った頭を掻いた。

(いつもなら、まだ先生の自宅の近くの公園にいる時間だけど……)

 そう思い、保健室での光景を思い返す。

「…………」

 ――今までは先生のことを考えているだけで、幸せな気持ちで満たされていた。

 なのに、彼が他のひとに優しくしていたことを思い出すだけで、胸が掻きむしられるような思いがする。

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