10


 学校の廊下を歩いていると見知った人物の後ろ姿が目に入った。

 数学教師の古帆絵里ふるぼえりである。

「風邪はもう大丈夫なんですか」

 愛がそう話しかけると、絵里はビクッと背中を震わせた。

「え、えぇ……。皆には新学期早々迷惑をかけてしまったけれど、しばらく休んだらすっかり良くなったわ」

「ふーん、そうですか」

「…………」

 愛から話しかけられたことが意外だったのか、絵里はまじまじと愛の顔を見る。

「もしかして森長さん……私のこと、心配してくれていたの?」

「まぁ、多少は。ここんとこずっと自習が続いてるなって思って、気にはなっていました」

「ごめんなさい。ただでさえ私の授業は進みが遅いって言われているのに……」

 責めたつもりはなかったのだが、どうにも絵里には自分が責められているのだと聞こえるらしい。

「どうせ授業中は寝てるだけなんで、気にしてないですよ。自習の方が気兼ねなく眠れるからかえって楽ですし」

 そう言ってフォローしたつもりだったのだが、絵里の表情が陰る。

「?」

「あっ、えっと……その……森長さんは良くても、他の皆はきっと困ってるだろうなって思って」

 不安げにしている絵里を前にして、愛は昨日教室で聞いたクラスメイト達の会話を思い起こす。

「別に、皆そんなに気にしてないと思いますよ。むしろわたしみたいに、自習が続いてラッキーだって思ってる子の方が多いと思いますし」

「そ、そう……?」

 愛にしては気を遣った発言だったのだが、どうにも絵里には逆効果だったらしい。

(この顔だと、どうせ自分の授業なんてなくても一緒なんだ……とか思ってるんだろうなぁ)

 相変わらずこの手のタイプの人間は扱いが面倒だと、愛が考えていると、一限目の授業の終了を告げるチャイムが聞こえてきた。

「次の授業は森長さんのクラスの授業だから、よかったら一緒に教室まで行きましょう?」

 絵里の提案に対し、愛はしばしの間悩み、

「すみません。今日はちょっと体調が悪いんで、これから保健室に行こうと思ってたところなんです」

 もっともらしい言い訳を盾にして申し出を断った。

「まぁ、それは大変。一人で保健室まで行ける?」

「あー……ただの生理痛なんで、おかまいなく」

「そ、そう?」

「先生も、まだ本調子でないのならあんまり無理をしない方がいいと思いますよ」

 愛はそう言い残し、その場を後にした。




「生理痛ねぇ……。アンタって一ヵ月に何回も生理が来るのね」

 緑子はそれ以上は追求することはなく、愛を保健室に招き入れた。

 そして愛に使用していないベッドの内の一つをあてがい、仮眠を取るように促す。

「別に眠くないんですけど……」

「眠い眠くない以前に、そもそもの睡眠時間が足りてないでしょ。そんな調子だから授業中に居眠りばっかしてるのよ」

「でも本当に眠くないんです。ただでさえ日中は眠くてしょうがないんですから、眠くない時ぐらいは好きにさせてください」

「だ、か、ら! 睡眠時間が足りないから授業中に眠くなるっていってんの! 今起きてても、後で授業中にぐーすかこいてたらなんの意味もないでしょ」

「…………」

 口では勝てないと思ったのか、愛はそっぽを向いて制服のリボンを弄り始めた。

「維伸も貴方のことを心配してたわよ」

「えっ……!?」

 唐突に出された名前に思わず愛は振り返る。

「アンタがあんまりにも学校で寝てるもんだから、調子が悪いんじゃないかって心配してたわ」

(先生が……)

 維伸の名前が出てきたことが功を成したのか、愛は先ほどまでの態度を一転させ大人しくベッドの上に横たわった。

 緑子はやれやれと言った風な表情を浮かべながら愛が脱ぎ散らかした上履きを揃え直し、

「……アンタって本当に分かりやすいわね」

 溜息交じりにそう呟いた。

「え? 分かりやすいって?」

 愛がすぐに聞き返すものの、緑子からは何の返事も返ってこない。

 もう一度聞き直そうか愛が迷っていると、

「すみませーん、体育の授業中に突き指したんですけどー」

「はーい、今行くわ」

 緑子は入口から聞こえてきた男子生徒の声に振り返り、ベッドのカーテンを閉め切った。

「…………」

 視界に広がるカーテンが波打つ様を眺めながら、愛は緑子が言った言葉の意味を考えていた。

(分かりやすいってなんのことだったんだろ……?)

 気にはなるものの、すぐに愛の興味は別の物へと移り変わった。

 今朝コンビニで買ったファッション雑誌である。

「うわ、もう浴衣の特集とかしてる。まだ五月だって言うのに、気が早いなぁ……」

 そう呟き雑誌をぺらぺらとめくる。

「…………」

(そういえば、先生と初めて会ったのは秋だったっけ………)

 ひんやりとしたシーツの感触を肌で確かめながら、愛は初めて維伸と出会った日のことを思い返した。




「君、絵に興味があるの?」

 愛が階段の踊り場に飾られている一枚の絵画を見上げていた時、

 その日赴任してきたばかりの維伸が愛に話しかけた。

「さっきからこの絵をずっと見てたよね? だから絵に興味があるのかなぁって」

 依然として沈黙を貫き通そうとしている愛に対し、維伸は今朝から何度も愛との接触を試みていた。

 きっと自分が不登校児だからだろう。

 そう思い、愛は維伸を無視することに決めていた。このまま知らんぷりを続けていればその内諦めるだろうと愛が考えていると、

「この絵は、僕が描いた絵なんだ」

「え……?」

 思いがけない言葉に、つい反応してしまった。

 しまったと愛が思った時には既に遅く、維伸は朗らかな笑みを浮かべると共に話を続けた。

「僕がこの学校の卒業生だってこと、さっき保健室でも話したよね。この絵は僕がまだこの学校に通っていた頃に描いたものなんだ」

「…………」

 愛は壁に飾られている絵をもう一度見上げた。

 在学していた頃に描いたというのなら、自分とさして変わらない年齢でこの絵を描いたのだということなのだろう。

 それは純粋に凄いことだと、愛は感心していた。

 そして、特技はおろか……何の趣味すら持ち合わせていない自分とは対照的だと思えた。

 そんな愛の心情を察してなのか、

「……絵を描いてるとさ、なんだか心が落ち着くんだ。思い通りにいかなくて苦労することも、まるで自分の命を削って描いてるような気分になることもあるんだけど。完成した瞬間は本当に嬉しくて……」

 何が言いたいのだろう。

 そう愛が思い、彼の顔を見上げると、

「だからさ。もし、君さえよければ――……」

 ――と、維伸が何かを言いかけた瞬間、


「わ、私……、また皆の前で……なんてことを……」


 何処からか声が聞こえてきて、愛は弾かれるように夢から現実へと引き戻された。

「?」

 隣のベッドから、女のすすり泣く声が聞こえてくる。

 そして、慰めの言葉を掛ける男の声も。

「大丈夫ですよ。皆、少しびっくりしただけで、先生を悪く思ってる人なんていません」

 愛はその声にハッとして、音を立てないようにゆっくりと床へ降り立ち、隣のベッドと仕切られているカーテンをそっと捲った。

 ――そこには、二人の姿があった。

 俯いた状態で座っている絵里と、それに寄り添うように座っている維伸の姿が。

「……古帆先生。何の医療知識も持ち合わせていない僕がこんなことを言うのは、見当違いなのかもしれませんが……。僕は、先生が定期的に起こす発作は……身体的な不調から来ているものではないと思っています。病院では軽い喘息の疑いがあると言われたそうですが、僕にはそういう風には思えなかった。きちんと症状を医師に伝えられていますか?」

 愛は思わず息を呑んだ。

 維伸の言葉は、この学校で絵里の授業を受けている者の誰もが思っていて――それでいて誰も本人に指摘することが出来ない事柄であった。

「…………」

 そのことはおそらく本人にも見当がついていたのだろう。

 絵里はずっと俯いたままの状態で眉一つ動かさず維伸の話を聞いていた。

「先生が精神科の受診をためらう気持ちはよく分かります。たとえ相手が医師であろうとも、自分の辛さを他人に打ち明けることは……とても勇気がいることだと思います。でも、このままでは……」

しばしの沈黙の後、維伸は絵里に向き合い――彼女の手を握った。

「一人で行くのが辛いのなら僕が付き添います。先生さえ良ければ、先ほどの教室での出来事を僕が代わりに説明してもいい」

「…………」

 突然の維伸の申し出に、絵里は驚いているようだった。

「でも……そんなの、先生にご迷惑じゃないですか……。だって、助けていただいた上に……そんなことまで……」

「そんな、迷惑なわけないじゃないですか。先生はなんでも自分一人で抱え込もうとし過ぎなんです」

「…………」

 維伸の言葉を聞き、絵里は再び涙を流し始めた。


 愛は二人がいる保健室から抜け出し、あてもなく廊下を歩いていた。

 途中、緑子と廊下ですれ違い、どこに行くのかと声を掛けられたのだが、愛の耳には届いていない様子だった。

(先生は優しい。だから好きになったんだけど……)

 別に自分だけが特別というわけではないのだと思い、胸がぎゅっと締め付けられるような心地がした。

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