07
「…………」
「どうした?」
「あ……いや。森長のやつ、帰ったわけじゃなかったんだなって」
「ほんとだ。しかも起きてるなんて珍しいな」
さすがに立て続けに授業を欠席するのは気が引けたのか、昼食を採り終えた愛は自分の教室に戻ってきていた。
片手で頬杖をつきながら窓の外に広がる空を眺めていると、
「
ふと、良く知る教員の名前が耳に入って来た。
「えぇ……ってことは今日も数学は自習? さすがにもうすることないんだけど」
「いくら何でも休みすぎじゃない? 他の先生達は風邪だって言ってるけど、あれ絶対嘘だよね」
「いわゆる五月病ってやつなんじゃない? ちょうど連休が終わったあたりぐらいから休みがちになってたし」
話題は美術部の副顧問、
(そういえば……最近は心を病む教師が増えてるって、前にテレビの特集でやってたっけ)
長時間労働がどうとか、非正規雇用問題がどうとか小難しいことをコメンテーターの人が話していたような気がする。
明治先生は大丈夫だろうか、最近忙しいみたいだし、過労で倒れたりしないといいんだけど――と、愛が考えていると。
「あの、森長さん? 今朝言ってた、連絡先の交換のことなんだけど……」
いつの間にか倉華が愛の前にいた。
「そういや、今朝もコンビニでエナジードリンク買ってたっけ……先生ってば、ただでさえ一日中コーヒーを飲んでるのに。その上、翼なんか授けられちゃったらカフェインの過剰摂取になっちゃうんじゃ……」
「……森長さん?」
目の前で自分の存在に気付かずぶつぶつと独り言を呟く愛を前にして、倉華は困惑する他なかった。
放課後になって再び愛が部室を訪れると、そこには誰の姿も無かった。
部屋の照明を点けて辺りを見回す。
(先生はともかく、先輩が先に来てないのは珍しいや。いや、本当に居ないのかな? またどこかに隠れてるんじゃ……)
時折梓はどこかに身を潜ませ、愛を脅かそうとしてくることがあった。
本人はただの遊びのつもりでやっているらしいのだが、気を抜いている時にやられるとどうにも寿命が縮みそうになる。
「この間なんて、掃除用のロッカーに隠れてたし……」
そう言ってゴミ箱の蓋を開ける。
部屋中くまなく確認して周ったものの、梓の姿はどこにもなかった。
「なんだ本当にいないんだ」
肩透かしを食らってしまい、落胆に似た気持ちすらした。
「…………」
改めてこの部屋には自分以外に誰も居ないのだと確信した愛は、維伸が普段過ごしている席に向かい、おそるおそる彼の椅子に座った。
(先生がいつも座ってる椅子……)
そして想い人の姿を頭に思い浮かべながら、愛おしそうに彼の机に頬を寄せる。
「……――んじゃ私、先に帰るんで」
「お疲れさま。もうすぐ暗くなるから、気を付けて帰ってね」
「はーい」
戸がピシャリと閉まる音に反応し、愛はゆっくりとまぶたを開く。
視界には、愛の席に座って読書をしている維伸の姿が目に入った。
よほど興味深い内容なのだろうか。維伸は愛が起きていることにも気づかず、黙々と本を読み進めている。
「…………」
愛がじっとその様子を見つめていると、
不意に維伸の瞳が自分を捉え、どきりと心臓が跳ね上げる。
「あ、やっと起きた。おはよう、森長さん」
「……お、おはようございます」
維伸から向けられる暖かな微笑みを前に、今が夕方でよかった……と、紅潮しているであろう自分の頬に手を当てた。
「起きたばかりで申し訳ないんだけど。そろそろ施錠したいから、帰る支度をしてもらってもいいかな?」
「え? でも、さっき来たばっかで……」
「もうすぐ完全下校時刻だよ」
そう言って維伸は、壁に掛けてある時計を指差した。
時刻は午後の六時五十三分。
愛がこの部屋を訪れてから既に三時間ほど経過している。
「い、いつの間に……!?」
「あんまり遅くなるとお家の人も心配するだろうし、早く帰った方がいいよ」
その言葉に急かされ、愛は急いで帰り支度をはじめる。
「…………」
「どうしたの?」
ふと、愛の手が止まっていることに気が付いた維伸が声を掛ける。
「あの……もしかして、わたしの為に残ってくれていたんですか?」
「え? もちろんそうだけど?」
「…………」
この部屋の管理をしている維伸が、生徒を一人残したまま帰ることが出来ないのは当たり前のこと。そんなことは愛も十分理解していたが、自分の為に残ってくれていたという事実がただ純粋に嬉しく思えた。
「それじゃあ、気を付けて帰ってね」
「はい! また明日!」
廊下で職員室に向かう維伸と別れ、愛は階段を駆け下りる。
下駄箱の前で靴を履き替え、そのまま下校する、
……ことはなく、
愛は校門の近くにある植木の影に身を潜めながら、職員用の通用口の様子を伺っていた。
「先生、まだかなぁ……」
どうやら、維伸が出てくるのを待ち構えているらしい。
「…………………………あ」
目的の人物の姿を見つけ、思わず声が漏れる。
愛はゆっくりと立ち上がり、帰宅する維伸の後を追った。
――太陽は沈み、茜色だった空は蒼色を経て深い闇夜へと染まる。
星の輝きがまた一つ、また一つと、姿を表している頃。
愛は再び維伸の自宅近くの公園を訪れ、彼が住まう部屋をじっと見つめていた。
維伸の部屋にパッと明かりが灯る。
窓はカーテンで遮られており、今朝のように外から室内の様子を窺うことは叶わない。それでも愛は、隙間から漏れ出る明かりをいつまでも愛おしそうに眺めていた。
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