05

 愛の所属する美術部の部室は、特別棟にある美術室の隣に存在しており、本来は美術準備室と呼ばれる場所だった。

 隣の教室から物音が聞こえてくる。どうやら今は授業が行われている最中のようだった。

 愛は美術室へと繋がる扉の前に座り込み、背中を預けた。

 まぶたを閉じ、隣の教室から聞こえてくる声に耳を傾ける。


「色は光を媒介にした感覚とも言われていて、人の心理に影響を与えるものなんだ」


(――優しくて穏やかな声が聞こえる)


「全てのものには必ず何らかの色が付いていて、僕達はそれらを目にした時、物体そのものに対する意識とは別に、無意識にその色から感情を引き出していて……」


(――この声を聞く度に、わたしは不思議な気持ちになる)


 遠い昔……どこかで聞いたことがあるような、とても懐かしい感覚。

 それは、愛がずっと追い求めてきたもののように感じられた。


「声にも色があるのなら、先生の声はどんな色なんだろ……」


 扉越しに、これから始める作業について説明している維伸の声が聞こえてくる。

 その声に聴き入り、まるで夢をみているような感覚に愛が見舞われているその時、

「具体的に何を描けと指導しないところが、いかにもファイン系出身の明治先生っぽいわよね」

「え?」

 不意に別の声が聞こえてきて、ハッと顔を上げた。

「あぁ、ファイン系っていうのはね。ファインアート……いわゆる純粋美術で、油絵や日本画、彫刻とかの――……」

「そうじゃなくて。あずき先輩、いつから居たんですか?」

「『あずき』じゃなくて、『あずさ』! 井村梓いむらあずさ! いい加減憶えてよ」

「すみません。わたし、人の名前とか憶えるの苦手で……」

「愛ちゃんの場合、憶える気が全くないからでしょ。男にしか興味がない女って、同性に嫌われるよ?」

「人聞きが悪い言い方しないでください! わたしは明治先生以外の男には興味ないんですから!」

「だから、それがダメだっていってるの」

「?」

 首を傾げてる愛を余所に、梓は自分の定位置らしき席に座った。

 机と体の間に画板を立てかけ、肩肘をつきながら鉛筆をシャカシャカと走らせ始める。

「そのデッサン、いつから描いてたんですか?」

「んー、朝からー」

「……ってことは、先輩も授業サボってんですか?」

「当たり前でしょ。もうすぐ受験なんだし、授業なんか出てる暇ないっての」

(美大を志望している先輩が、授業をサボることを見逃されているのは何となく分かる)

 梓が志望している大学の推薦入試は実技しかないことを愛は知っていた。

 よって、単位さえ足りれば通常の授業を受けなくていいことになっていることも理解できる。理解は出来るのだが……。

「特に進学するつもりがない自分が授業をサボることを許されていないこの状況に対し、理不尽さを感じているわたしなのであった」

 やはり不公平さは感じる。そしてその気持ちは図らずして声に出ていた。

「……へぇ、愛ちゃん進学する気ないんだ」

 愛の独り言を梓が拾う。

「ってことは就職希望?」

「え? 別に何も考えちゃいないですけど?」

「だったら愛ちゃんも美大目指してみたら? そしたら、ここで一日中まったりして過ごせるじゃん。それに愛しの明治先生に受験の指導もしてもらえるしね。愛ちゃんって、滅多に描かない癖に絵上手いし、わりと悪くない提案だと思うけど?」

「…………」

 梓の誘いは十分すぎるぐらい魅力的なものに思えた。

 実際、愛にとって絵を描くことは唯一の特技でもあったし、維伸から直接受験の指導を受けている梓のことを羨ましくも思っていた。

 が、簡単に「そうします」と口に出来ない理由が彼女にはある。

「美大ってすんごくお金かかるって聞いたんですけど」

「うん、かかるね」

「公立の場合、頭もいるって」

「そうそう。だから私は私立目指してんだけどね」

「一人暮らしで私立だと家が建つぐらいお金がかかるって、先生が言ってました」

「土地代とか考えなかったら建つかもねー」

「じゃあ無理です」

「そっかー。やっぱ無理かー。ウチの親も無理ーって言ってるし」

 元から期待してなかったのだろう。梓はそれ以上しつこく食いつくこともなく話はそこで終わった。

「――そういえばさ」

 終わったかと思えば再び話題を吹っ掛けてくる。

 梓という人物はどうにも黙っていられない性分らしい。

「一目惚れなんだっけ?」

「へ?」

「明治先生を好きになったきっかけ。違ったっけ?」

「別に一目惚れってわけでは……」

「でも、出会ったその日のうちに好きになったんでしょ?」

「え。な、なんで先輩が知ってるんですか!?」

 どうやらそこは図星だったらしく、愛の頬はみるみる赤らめてゆく。

「だって愛ちゃん、明治先生が赴任してきた初日に部活の見学に来てたよね?」

「あ、あれは先生に無理やり連れてこられただけで……」

「あの時の愛ちゃんときたら、部活なんかそっちのけで先生のことばかり気にしてる風だったもん」

「そ、それは……」

「ねぇねぇ、恋する気持ちってどんな感じなの? 頭がぼーっとしちゃう感じ?」

「ぬぬぬぅ……」

 ニヤニヤと人を小馬鹿にするような笑みを浮かべる梓を前にして、『悪魔』という単語が、ふと愛の頭に浮かんだ。

「先輩って確か、大学生の彼氏さんがいるんですよね?」

「いるけど、私は愛ちゃんみたいな感じにはならないかなぁ。ねー、参考がてら教えてよ」

「参考ってなんの……」

「いいじゃん、別に減るもんじゃないんだし。ね~、教えてよ~」

「…………」

 梓は持っていた鉛筆をぽいっと放り投げると、ずいっと愛の前に身を乗り出した。

 その姿を見た愛は、抵抗しても無駄なのだろう――と、観念する他なかった。

「う、上手く説明できないんですけど……」

「けど?」

「先生のことを考えていると、なんだかとっても落ち着かないんです」

「ほう」

「別に走ったりとかしたわけじゃないのに……急に心臓の鼓動が早くなって、胸がきゅーっと息苦しくなって……」


「ふぅん。心因性のものかしらね? おそらく、心臓自体に問題があるわけじゃないと思うけど……。心配なら、一度病院で調べてみてもらったら?」


「むっ。人の恋心を病気みたいに言わないでください! ――って、お姉さん!?」

 愛が声がした方に振り返ると、この学校の養護教諭――江崎緑子えざきみどりこが背後に立っていた。

「お姉さんじゃなくて、先生でしょ? 学校ではそう呼びなさいっていつも言ってるのに」

「なんでお姉さんがここに……?」

「なんでって……さっきノックして普通に入ってきたじゃない。返事がなかったから勝手に入らせてもらったけど」

「い、いつから居たんですか……?」

「アンタが走ってるわけでもないのに心臓が苦しいって言ってた辺りからよ」

(また自分の世界に入っていたのか……。先生のことを考えているといつも周りが見えなくなるんだよね……)

 ついでにいつの間にか梓の姿も見えなくなっていた。

「で、何の用ですか?」

「で、って……心当たりないの?」

「……?」

 首を傾げる愛に対して、緑子は壁に掛けてある時計を指差した。

「もうすぐ三限目が終わる頃なんだけど」

「そうですね」

「アンタ、無断で授業をすっぽかしたでしょ」

「それがなにか?」

「アンタねぇ……」

 愛の受け答えに緑子が頭を抱えていると、

「……なーんだ、緑子先生かぁ」

 机の下からスッと梓が姿を現した。

「ウチの担任が様子を見に来たのかと思って、びっくりしちゃった」

「井村さん。貴女もサボりなの?」

「サボりといえばサボりではあるんですけど。受験の為の、戦略的撤退といいますか」

「揃いもそろって、アンタ達は……」

 ちょうどその時、三限目の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

「…………その様子じゃ、次の授業も出る気はなさそうね」

 机の上に置かれている梓の描きかけのデッサンを見て、緑子は言った。

「ま、いいわ。午後からはちゃんと授業に出なさいよ」

 やる気のなさそうな声で梓が返事をすると、緑子の瞳は愛を捕らえた。

「愛さん、貴女もよ」

「え?」

「なによその顔。私が教室まで無理やり連れていくとでも思ったの?」

「しないんですか? 昔はよくやってたのに?」

「苦労して連れて行ってもアンタすぐ寝るし、体力と時間のムダだと思って」

「確かに」

「それじゃあ私は戻るけど。午後の授業も出る気が無いんだったら、せめて保健室に来なさい。何か不安なことでもあるなら相談に乗るし、愚痴ぐらいは聞いてあげるから。単位はあげられないけど、お茶ぐらいなら出してやるわよ」

 そう言い残し、緑子は部室から去っていった。

 どうやらここに来た目的は、無断で授業を欠席した愛の捜索だったらしい。

「緑子先生って……なんていうか恰好いいよね。美人なんだけど、ちょっとイケメン入ってるっていうか」

「そうですか?」

「いつも高そうな服着てるし、化粧も毎日手を抜いてないし、プロポーションの維持もばっちしだし。そのうえ、趣味は映画鑑賞とお酒なんて……なんか絵に描いたような大人の女って感じ」

「大人の女……ねぇ」

 何かを言いたげにしている愛だったが、特にそれ以上は口にしなかった。

「……それに引き換え」

 梓が美術室へと続く扉を見やると、ちょうど授業を終えたばかりの維伸が現れた。

「あれ? 森長さんも来てたんだ」

「はい、暇だから遊びに来ちゃいました」

「暇って……。駄目だよ、ちゃんと授業に出ないと」

「…………」

「い……井村さん? どうしたの?」

 冷めた目で睨んでくる梓の視線に気付き、維伸は一瞬怯んだ表情を浮かべる。

「明治先生って、緑子先生と同級生で幼馴染なんですよね?」

「そうだけど……。それがどうかしたの?」

「いやー、同じ大人なのにどうしてこうも違うのかなーって」

「違うって……?」

「これって、クレジットカードの督促状ですよね? 駄目じゃないですかちゃんと払わないと」

「いやぁ、先月は思ってた以上に使いすぎてたみたいで、引き落とし用の口座に入れてたお金じゃ足りなくて――……。って、なんで井村さんが持ってるの!?」

「そこの鞄からはみ出てましたよ。こんな大切なもの、ちゃんとしまっておかないと駄目じゃないですか」

 梓は、維伸の胸に押し付けるような形で督促状を押し付けた。

「いい歳した大の大人が、自分の遣ったお金の管理も出来ないなんて……情けない。大体、先生は――……」

 梓が言葉を続けようとすると同時に、授業開始のチャイムが鳴り始めた。

「えっと。じゃあ僕、次も授業だから」

 維伸はその音に助けられるかのように、そそくさと扉の向こうへと消えて行った。

「……ちぇっ、逃げられた」

「…………」

 ずっと黙って二人のやり取りを眺めていた愛が、梓を睨む。

「どしたの?」

「どうしたもこうしたもないですよ! なんでいつも先生を虐めるんですか!」

「別に虐めてるつもりじゃないけど……」

「先輩が虐めるせいで、先生が向こうに行っちゃったじゃないですか!」

「さっき授業だって言ってたよね? 話聞いてた?」

 二人の喚き声が扉を越え、美術室にも響きわたる。

 維伸がそのことで頭を抱えていることを二人は知る由もなかった。

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