03
電柱の後ろに隠れながらコソコソと移動する愛の姿を、すれ違った通行人が怪訝な目で見る。
そんな視線を向けられているとは露ほどにも思っていないのか、愛はひたすら男の背だけを見つめ、尾行を続けていた。
(いつものおいしい牛乳に、サンドイッチ……あ、今日は卵サンドか。エナジードリンクも買うんだ。最近、毎日買ってるなぁ……)
道すがら、男がコンビニに立ち寄ったので愛も当然のごとく入店していた。
愛は商品棚の陰に隠れ、男が買い物カゴに入れた商品を次々と何かに書き留めている。
(ここのところ、バランスの悪い食事が続いてるなぁ……。たまにはちゃんと野菜も食べてもらわないと……。あ、そうだ!)
愛はチルドコーナーに陳列されている商品の中から、ひときわ鮮やかな色のサラダを一品選び取り、それをレジ待ちをしている男の買い物カゴの中にそっと忍ばせ、足早に店の外へと出た。
そして、そのまま立ち去るのかと思いきや、
踵を返し、
会計を済ませて出て来た男の前に堂々と姿を現した。
「おはようございます、明治先生」
「――あ、森長さん。おはよう、今日もいい天気だね」
突如現れた愛に対し、男は別段驚くようなそぶりも見せず柔らかな笑顔を向けた。
横断歩道の信号が青に変わるまでの間、愛は隣に立つ男の横顔をじっと盗み見ていた。
愛が『先生』と慕うこの男の名は、
彼は半年程前に愛の通う成果高等学校に赴任してきた教師で、愛が密かに想いを寄せている人物でもあった。
「毎朝、大変だね」
「え?」
「君の通学の話だよ。電車の人混みが苦手だから、人が少ない時間帯に合わせて早起きしてるんでしょ? それって結構、大変なことなんだろうなって」
「え、えーと……」
維伸の言葉に、愛は一瞬だけ目を泳がせる。
愛がどう返答すべきか迷っていると、ふと別の疑問が頭によぎり、そのことを彼に尋ねてみることにした。
「というか、なんで先生がその話を知ってるんですか?」
「緑子から聞いたんだ」
「……だと思いました」
「結構早い時間には出てるって聞いてはいるんだけど、いつも何時ぐらいに家を出ているの?」
「えーっと、だいたい……五時半ぐらいですかね」
「えっ、そんなに早く?」
「はい! 毎朝始発に乗って登校してるんで」
「始発に?」
いくらなんでも早すぎやしないか――と、でも言いたげな表情を浮かべている維伸に向かって、
「昔はもうちょっと遅めの電車でも平気だったんですけど、ここのところ調子が悪くて……。なるべく人が少ない時間がいいなーって思って、頑張って早起きしているうちに気が付いたら始発になっちゃったんです」
そう話して見せた。
(本当は一刻も早く先生の姿を見たいから、早起きしてるだけなんだけど)
愛はそっと舌を出してみたりするのだが、そのことに維伸は気付かなかった。
「そう……だったんだ」
そこで二人の会話は途切れ、信号は青に変わった。
「?」
それっきり維伸はずっと押し黙ったままだった。
学校へ向かう道を歩き進めながら、何か変なことでも言ったのだろうかと愛が考えていると、
「ごめん」
「へ?」
「君の辛さを本当の意味で理解することが出来ない僕が、気安く『大変だ』――なんて言って……無神経だったよね。本当にごめん」
「……?」
唐突に投げかけられた謝罪の意味が分からず、愛は目をぱちくりさせる。
一体、先生は何のことを謝ってるのだろう――と、思い。愛は先ほど、維伸と交わした会話を思い返す。
(あ。もしかして先生、わたしが人の多い電車に乗れないことを気にして……)
そう思い、維伸の顔を見つめる。
心から申し訳なく思っているのであろう彼の表情を見て、愛はちくりと胸が痛んだ。
「ぜ、全然そんなこと気にしてないですよ……! それにわたし、野鳥観察が趣味なんです! だから全然早起きが苦じゃないっていうか、むしろ好き好んでやってる感じなんで! ほんと気にしないでください!」
「野鳥観察?」
維伸は初耳だという風に驚き、愛に聞き返す。
「学校がある場所とは違う方向になるんですけど、駅から十五分くらい歩いた所に鳥が沢山いるお気に入りのスポットがあるんです。その場所でぼーっとしながら鳥を観察するのが好きで、毎朝通っていまして」
そう言って、愛は鞄から双眼鏡を出して見せる。
その双眼鏡は主に維伸を観察する用途に使われているのだが、そんなことは維伸に分かるはずもなかった。
「へぇ、なんだか渋い趣味だね。鳥って、何の鳥?」
「鳩です」
「鳩かぁ……」
そう呟いて、維伸は複雑そうな表情を浮かべる。
「あれ? 先生、鳩苦手なんですか?」
「あ。いや、別に鳩自体が苦手ってわけじゃないんだけどね。僕が住んでるアパートの隣に公園があるんだけど、そこで誰かが鳩に餌をやっているみたいで困ってるんだ。鳩がベランダで巣を作ったり、卵を産んだり……大家さんが公園に張り紙をしたらしいんだけど、全然効果がないらしくて」
「………………」
「どうしたの?」
「あ、いえ。今時、そんな非常識なことをする人がいるんだなぁ……と思いまして」
そう言って愛は目を逸らした。
「それじゃあ僕はここで。またお昼休みにね」
「はい! お仕事頑張って下さい」
愛が手を振ると、維伸も小さく手を振り返した。
維伸が職員用の通用口に消えていくのを見届けてから、愛は自分の教室へと向かった。
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