陰陽省
荒川 長石
陰陽省
J党のナンバー2である真垣仁之助は、党の総裁であり首相であり長年のライバルでもある川田春之信に案内され、首相官邸の地下にどこまでも伸びる細くて曲がり角だらけの廊下を奥へ奥へと歩きながら、増していく不安にかられていた。地中奥深くの密閉された場所にいるということが、特に閉所恐怖症でもなかったはずの真垣を怖気づかせているということもあった。だが真垣を特に不安にさせたのは、自分がいったいどこにいるのか分からないという感覚だった。廊下の曲がり角はどれも決して直角ではなく、ゆるい30度や、直角に少し足りない70度、またときには鋭角と中途半端で、気まぐれに折れ曲がる廊下を進むうちに、すっかり方向感覚を狂わされてしまったのだ。おまけに、このフロアに来るまでに乗り継いだ二つのエレベーター(最初は下り、次は上り)のせいで、いまどれぐらいの地下にいるのかも皆目見当がつかなくなっていた。
「さあ、これが最後のエレベーターだ」
川田がそう言って手で示した先には、一つの部屋ほどは優にある巨大なエレベーターがその大きな口を開けて待っていた。床はコンクリートで、パネルにボタンはなく、川田はポケットから取り出した鍵束の中の一つを手慣れた調子でパネルにある鍵穴に差し込んで右にひねると、大きな扉が閉まった。やがて、かすかなモーター音とともにエレベーターは下降を始めた。
「A」から始まる扉の上の表示が「Z」になったとき、エレベーターはようやく止まった。扉が開き、川田のあとに続いて廊下を進んでいくと、巨大な空間に出た。戸外かと思われるほど広く、天井には無数のランプがきらめいているがまるで星のように遠く、高さの見当がつかない。その空間の真ん中に、数本の丸い柱に支えられた神社の本殿らしきものがそびえ立っているのだが、目を引くのはその手前につながる巨大な階段だ。かつての出雲大社の復元模型をそのまま形にしたかのような、高さ50メートルはあろうかと思われるものすごい階段が、はるか上空に浮かんでいる本殿にまで続いている。
「なんですかこれは」と、真垣は思わず声を出した。
「陰陽省さ」メガネの奥で川田のつり上がり気味の目が笑っている。
「陰陽省? しかし……官房機密費の金庫へ案内するという話だったのでは?」
「そうだよ。これが、その金庫だ」と川田は得意げに言った。「官房機密費というのは、陰陽省につけられた予算のことなのさ」
「そんな省があるとは初耳ですが」
「そりゃあそうだろう、隠密にしておかなきゃならないからね」と川田は悪びれることもなく答える。「しかし、陰陽寮というものは昔から常に存在していたんだよ。戦後は宮内庁の内部に一時避難していたが、岸内閣のときに陰陽庁となり、2007年に防衛庁が省に昇格したのと同時に陰陽省となったんだ。ま、登りながら話そう」
「あの階段を登るのですか?」
「そうだよ」
そう言って川田はさっさと歩いていくので、真垣もあとについていかざるを得なかった。
「ここはね」と川田は階段を登りながら説明を続ける。「核シェルターになっているのさ。上の方のフロアーには統合作戦司令室もあるんだが、この社の存在を知っているのは、さらに限られた一部の人間だけでね。もちろん公明党には言ってませんよ」と川田は、いつものあの人懐っこい笑顔を真垣に向ける。
「しかし、陰陽省とはいったい何をするところなんですか?」
すると川田は階段の途中で急に立ち止まり、いたずらっぽい笑顔を真垣に向け、鋭い目つきで真垣の表情をうかがいながら言った。
「呪詛だよ」
「呪詛?」
「そう。国民の生命や財産、公共の福祉を脅かすものを呪詛し、それを排除したり、無力化したりしているのさ。領土を守るために遠隔結界を張ったりすることもある」
真垣は思わず鼻で笑いそうになったが、かろうじでこらえた。川田は真垣から目を離さず、笑みを浮かべながらも、鋭い目つきで真垣の反応をうかがっている。この人は本気なんだ。これは、対応を誤るとえらいことになる……真垣はそう思いながら、ふと川田から視線をそらして天井を見上げると、そこにナスカの地上絵のような模様がつけられているのが目に入った。
「天井のあの、魚の骨のような溝はなんです?」
「あれはアンテナだよ。霊的な力を世界中に届けるために、陰陽師たちが長い歳月をかけて開発したものだ」
彼らはようやく階段を登りきり、社へと到着した。
「これだけのものをこんな地下深くに作るには、相当な金がかかったでしょうね」
「防衛省の予算に比べれば微々たるものだよ」
「しかし、防衛は実際の役に立ちますが……」と言ってから、真垣はしまったという顔をした。
「陰陽は役に立たないって言うんだろ?」と、川田はすべてを受け入れる慈父のようなにこやかな顔をして真垣のあとを受けて続けた。「分かってないなあ。真実は、陰陽こそが実際で、防衛省なんて象徴的な意味しかないんだよ。陰陽があれば国を守るには十分なのさ」
「でも、訓練で自衛隊員が何人も命を落としてますが」
「そうやって真面目にやってますよと見せているだけさ。我が国の陰陽の呪詛は強力でね。特に我が国の近隣諸国はみんな無神論だから、我々にかないっこない。ちょろいものさ」
「しかしそんなに呪詛が強力なのなら、どうしてウクライナの戦争やガザの紛争を止めるために使わないんですか?」
「イスラエルは特殊でね。あそこには陰陽省に匹敵する部署がすでにある。どうやら結界を張られているみたいだ」と、川田は急に真面目な顔つきになって答えた。「ウクライナはね、できるが、やらないんだ」
「どうしてです? 罪のない人がたくさん死んでいるのに」
「簡単に言えば、日本は世界の警察じゃないってことだよ。呪詛の威力が明らかになれば、ロシアの注意を引くだろう。ロシアだけじゃない、世界中が、まるで日本に支配されているかのように感じ始めるだろう。実際、呪詛を使えば世界を支配しているも同然なんだからね。そうなれば日本は世界中から挑戦を受けることになる。そうはしたくないんだ」
長い階段を登りきると、二人は誰もいない社の中に並んで入っていった。社の中は暗く、左右に一つずつ灯明が灯っており、部屋のちょうど真ん中には段差と柵があってそれ以上奥には入れないようになっている。奥は暗くてよく見えないが、闇の中にじっと目を凝らすと、直径が一メートルほどもある巨大な丸い鏡のようなものが置かれているのが薄っすらと見えてくる。
段差の手前に横長の机があり、川田は背広の内ポケットから紙に包まれた申文のようなものの束を取り出すと、机の上に一つ置いた。すると、申文は闇に溶けるようにして消えてしまい、あとには漆塗りの机の艶やかな表面が見えるばかりだ。川田は次々に申文を置いていく。
「消えると、受け入れられたということなんだ」
「中にはなにが書いてあるんです?」
「ん? じゃあ、一つ見せてあげよう」
川田は申文の一つを広げて見せた。中央には副首相の名前があり、その周囲は禍々しい文字のような模様のようなもので埋めつくされている。
「副首相は、このことをご存知なんですか?」
「あの人は、ああ見えても合理主義者でね、政敵は自分の手でライフルで撃ち殺すから、呪詛などやりたくない、と言ったそうだ」
「だから自分の政権は長く続かなかったんですね」
「そういうこと」
川田は広げた申文をふたたび包むと、机の上に置いた。それはすぐに闇にかき消えるように消えた。
「分かったかね。これがいまマスコミがうるさく騒いでいる、官房機密費の私的目的への流用ってやつの正体さ。いくら説明責任とやらを求められても、こんなことを説明するわけにはいかんだろう」
「そうですね」
二人は社の周囲をとりまく板敷きに出た。清水の舞台のような板敷きの縁には欄干がめぐらされている。川田は欄干に腕をかけ、意味もなく薄笑いを浮かべながら暗くて巨大な空間を見つめている。
川田のうしろ姿を眺めながら真垣は思う。これはつまり、首相の意のままになる強力な暗殺部隊のようなものではないか。こんなことが許されてもいいのだろうか。この社を作るだけの資金があれば、どれだけの子供たちを虐待から救い出し、どれだけの欠食児童に十分な食事を与えられるだろう……
すると、川田が急に振り向いた。その、人を挑発するようなムカつく薄笑いを浮かべた顔を見た瞬間、真垣は川田を亡き者にすることを咄嗟に決断し、滑らかな足取りですばやく川田に近づくと、空手の蹴込みと蹴上げの連蹴りを川田の腹とあごにお見舞いした。川田は薄笑いを浮かべたままのけぞるようにして仰向けに欄干の上に倒れ、背面跳びの選手のように欄干を軸にしてクルンときれいに回転すると、なぜか欄干の外にいるのは川田ではなく自分の方で、真垣は薄暗い虚空に身を浮かべると、さてはおれの名前もあの中にあったんだなと気づくがあとの祭りで、自分が落ちていくのを川田が欄干の上から薄笑いを浮かべながら見下ろす姿が最期の視界に映った。
陰陽省 荒川 長石 @tmv
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