第52話 兵法三十六計
なにも理解していないげな僕の顔を見て、行田が説明してくれた。
「ピアノの真ん中のラの音は440Hz。だけど、昔は432Hzに合わせることもあった。その2つの音を同時に出すと……」
「聞き分けができないだろ、そりゃ」
「違うっ。黙れ、吹上。
その2つの音を同時に出すと、差の8Hzの唸りが生じるんだ。
えっ、そういうものなのか。それで、僕の耳には、戦いに向かううわんうわんとした雄叫びにも聞こえたのか……。
「蒼貂熊が、そんな低い声での会話が当たり前な生き物だとすると、僕たちに咆哮したのは?」
僕の質問に、行田が答える。
「ああ、俺たちにわかりやすい形で威嚇してくれたんだろうな」
くそ、なんてこった。
「嬉しくないけど、それもまた気遣いなんだろうな」
「黙れ、吹上。あのな……」
僕がそう声を上げると、鴻巣が鉄アレイを吹上に持たせた。
「もう砲丸はない。コレでも投げられるようにしておいてくれ」
そう言われて吹上、鉄アレイをぶんぶんと振り回しながら去っていく。
お前の本性はそっちか。
……静かで場をわきまえていて、頼りになるヤツだと思っていたのに。でも、めげない空気を読めない性格ってのも、それはそれでここでは救いだ。
「まぁ、ともかく、コレ、まだまだ使い道があるぞ。合唱部の面々がチューニングのソフトを持っているから、さらに442Hz以外も使えて、割りと好きな周波数の唸りができそうだ。これで蒼貂熊を撹乱できる」
「私たちは拡声器じゃないけどね」
西山にツッコまれながらも興奮気味の行田に、僕は再び感動を覚えていた。
人間ってすごい。
よくもまぁ、なにもないところから、ここまで蒼貂熊に対抗できているもんだ。今日は奇跡の連続だけど、その奇跡は自分たちで招き寄せたものだ。
今だって、行田と合唱部の面々がいなかったら、間違いなくここは血の海だったんだ。
窓の下では相変わらず蒼貂熊が、首をゆらゆらと揺らしながらこちらを窺っている。
もしかしたら、こちらが窓を開け、大人数で睨んでいるのも効果があるのかもしれない。
ただ、こうも襲いかかってこないのはかえって恐ろしい。もしかして、低周波にそれだけの効き目があったということなんだろうか?
「期せずして『空城の計』か」
そうつぶやいたのは井野だ。えっ、言われてみて初めて気がついたぞ。井野って、そういう本を読んでいたんだ。
脇腹を押さえつつ「そのとおり」とうなずく僕に、「……なに?」と聞いたのは鴻巣だ。
「籠城に追い込まれてどうにもならないとき、あえてこちらから城門を開ける。すると、相手は罠を疑って攻め入ってこない。兵法三十六計のうちの1つ、『空城の計』だ」
井野に代わって僕が答える。僕だって、武芸十八般筆頭の弓道を学ぶ以上、そのくらいの知識は持とうと思っていた。
「……なるほど」
「三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄の軍に対してこれをやって生き延びている」
そう井野が付け加え、鴻巣の顔が驚嘆に変わる。
「そうか。
もうにおいを出さないようになんて用心はできなくて、なりふり構わず戦おうってのが実態だけど……」
「蒼貂熊が賢いからこそ疑ったんだな。だって、現に俺たちは蒼貂熊の死体を5つも積み上げて、ヤツラの会話にも介入している。疑わない方がおかしい」
「なるほど」
そう言われてみればそうだ。僕たちは徳川家康と同じことをしていて、敵がとんでもなく強いってのも同じだ。でもって、僕たちの方が実績がある。そりゃあ、入ってこないかも。で、5頭も倒したってのが、改めてショックだよな。
あとがき
第53話 職員室崩壊
に続きます。
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