第51話 Aの音


 ようやく上原の右足が窓枠に届き、我先と手が伸びて上原を窓枠から掬い上げる。だけど、同時に着地した蒼貂熊アオクズリは走りだしていた。

 来客用の階段を駆け上り、再度跳躍したんだ。地面からの跳躍では届かないからと、高低差を埋めてから跳んだ。これなら3階まで余裕で届くという判断だろう。最初から階段の上にいたわけではないのに、論理思考ができる辺り、さすがに賢い。


 ああ、感心して褒めている場合じゃない。

 蒼貂熊の爪が窓枠に掛かったらおしまいだ。蒼貂熊は、その鉤爪一つでも自分の身体を支えられるんだ。

 とはいえ、できることがもうない。上原の矢を足しても残りは8本。それをすべて射尽くしても、蒼貂熊が止まることはない。


 僕の横で、悲鳴が高く響いた。

 死を察知した女子たちの悲鳴なんだろうけど、それは凄まじいまでの音量で、戦いに向かう雄叫びのようにも聞こえた。僕は、もう今日何回目かわからない死の覚悟をした。

 

 だけど、迫ってきていた蒼貂熊の鉤爪はなぜか方向を変えた。蒼貂熊は壁を蹴り、空中で身を翻して来客玄関の踊り場に着地していた。そして、そのままこちらをじっくりと観察している。

 くそっ、肉食獣のしなやかさと草食獣の用心深さを併せ持っていやがる。


「窓をすべて開けろ!

 次に飛んだら、カウンターで鉄アレイ、椅子、あるものすべてをぶつけろ。もうにおいを気にしている場合じゃない!」

 鴻巣の叫びに、3年生も1年生も一斉に動いた。


「くそっ、お湯が沸かせれば、熱湯をぶっかけてやるのにっ!」

 おい、北本、今までひたすらに家庭的ないい人だったのに、なんでいきなり荒々しくなっているんだよ?

 ひょっとして、そっちが本性か?

 北本に視線を向けた僕は、そこでようやく合唱部の面々が西山莉愛りあを真ん中にして並んでいることに気がついた。


「なにがあったんだ?」

 僕の質問に答えたのは、なぜか西山ではなく物理部の行田だ。

 行田は恐ろしいほどの早口で話し始めた。下で蒼貂熊が攻撃の機会を窺っているんだから、当然のことだけどな。

「蒼貂熊、仲間と密接に情報交換している。岡部は同じ手は2度通用しないと言っていたが、他個体にもそれが言えるのはそのせいなんだろう。

 ならば、その方法はなにかということなんだが、蒼貂熊には鼓膜を始めとする耳というシステムは見つかっていないと、これも岡部が言っていた。かといって、フェロモンみたいな臭いでは細かい情報のやり取りはできない。となると、俺には低周波しか思いつかなかった。恐ろしく低い、人間の可聴域以下の声で会話しているんだ。

 低い音は高い音より遠くまで届く。だから、面と向き合っていない個体とも会話ができる。で、耳ではなく、皮膚の圧覚で聞いている。それが俺の仮説だ。

 ならば、低い音を出せば撹乱できるかもしれない。だから、合唱部に協力を求めた」


 マジか?

 まさか、本当に合唱部に出番が来るとは考えていなかったな。


「そうは言うけど、行田、今声を出したのは女子だろ?」

 いつの間にか、僕の横で話を聞いていた陸上部の吹上がそう突っ込む。たしかにそのとおりだ。今の、全然低い声じゃなかったぞ。

「無茶振りされたけど、やってのけたわよっ!

 周りの音を聞かないで、イヤホンから聞こえる音だけを発声するって、こんなの合唱じゃないっ」

 西山がそう言いながら複雑な顔しているけど、なんなんだ、いったい?


「Aの音を、通常のピッチとあまり使わない落としたピッチでハモれって、無茶苦茶言われたのよ」

 ……まただ。また、ちょっとなに言っているかわからない。今回、いちいち説明してもらわないと本当にわかんないことばっかりだ。無事帰れたら、もっと勉強しなきゃだな、僕。




あとがき

第52話 兵法三十六計

に続きます。

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