第50話 一難去ってまた一難


 蒼貂熊アオクズリにハメられた!?

 そんな動揺も許されないほど、あまりにいきなりだった。

 上原は打ち起こしの体勢から両手を降ろす間もなく、そのまま右手だけを引き下ろして、上に向けて矢を放った。狙いを付ける「会」なんて存在しない。火事場の馬鹿力で、引くなり射るという慌てぶりだ。

 で、それでもその弓を律儀にも廊下にいる僕に放りながら、一気に後ろ向きに空に向けて飛んだ。

 上原は、下で待っている蒼貂熊に喰われる決断を瞬時にしたに違いない。それで僕に武器を遺したんだ。


 見えている光景のすべてが、一気にスローモーションになった。

 僕は飛んできた弓を左手で受け止め、ほとんど意識することもなく上原から渡された乙矢をつがえた。そうしている間に上原の跳躍は重力に引かれ、落下に入った。

 突き出された教壇が上原に蹴られた衝撃で揺れ、抑えていた1年生たちも手を離した。そこへ、屋上から飛び降りた蒼貂熊が着地し、ごくごく僅かな時間、僕が人間として認識できる最少の時間、迷いを見せた。このまま上原を追うか、それとも教壇を蹴って窓の中に飛び込んで僕たちを襲うか、だ。そして、食欲が勝った。


 蒼貂熊は教壇を蹴り、1人でも多く喰おうと窓の中に飛び込む決断をした。そして、その蹴り足で蒼貂熊が窓の中に飛び込むことはなく、逆に固定されていない教壇が宙に蹴り出された。僕には蒼貂熊の表情なんかわからない。だけど、この瞬間に生じた頭部の歪みが、焦っているということを示す表情の変化なのかもしれなかった。


 教壇もろとも落ちながら、それでも爪を振り上げる蒼貂熊の姿が見えた。だけど、その爪はどこにも届くことはなく空しく振られ、凄まじく重いものが地に落ちる音が響いた。


 蒼貂熊は落ちた。

 その一方で、片足を命綱のベルトで留められた上原の身体は弧を描き、校舎の壁に叩きつけられていた。上原は頭を打たないよう身体を丸めていたし、抜け目なく自分の足に結ばれたベルトに手を伸ばして握りしめてもいた。けど、それでもその衝撃は大きく、肺の空気をすべて叩き出された挙げ句に空中で大の字に身体が伸びていた。

 上原の命綱は教室の入口の引き戸の枠に括りつけられていて、さらに廊下では落下を止めたときの衝撃を弱めるために、生体ショックアブソーバーとして4人がかりでベルトを握っていた。だけど、その4人全員が前につんのめっている。


 とはいえ、上原本人の努力とベルトを繋いだ北本、そしてその4人のお陰で命綱は切れず、上原の身体への衝撃も深刻なものにはならないで済んだようだ。

 問題は、来客玄関の階段下にいた蒼貂熊だ。

 落ちていく蒼貂熊と空中ですれ違うように一気に跳躍し、ぶら下がっている上原に襲いかかったんだ。


「急げ、引き上げろっ!」

 鴻巣の言わずもがなの叫びが響き、僕は上原に向けて跳んだ蒼貂熊に向けて矢を放っていた。脇腹に激痛が走ったけど、それをそうと意識する間もない。ただ、ワンテンポ射るのが遅れただけだ。いつの間にか僕の横にいた宮原は、一瞬早く射ている。


 時間の流れが、一気に元のスピードに戻った。

 宮原の矢は、空中で蒼貂熊に掴み取られていた。やはりもう、矢は通用しない。と思ったけど、僕の矢を咥え取ろうとした蒼貂熊の牙は空を切り、その顔に中たった。だけどその矢は、刺さることなく音高く跳ね返された。やはり、鏃が弱く、そしてピンポイントで鼻の頭にあたらなかったせいだ。

 だけど、それでも蒼貂熊のためらいを招くことはできた。上原を咥えることなく、壁を蹴って落ちていく。

 その間にも、上原は4人がかりで引き上げられていた。



あとがき

第51話 Aの音

に続きます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る