第40話 均衡せず


 そこで北本が片手を上げた。誰も発言時の挙手なんか求めていないのに、律儀なんだなぁ。

「家庭科室に、歴代のゆかりのストックがたくさんある。家庭科部で梅干しは毎年漬けている。知ってのとおり、梅干しはマラソン大会のときに配るからなくなっちゃう。だけど、ゆかりは使わないからね。ただ、梅干しと違って、ダイレクトにシソだからより効くと思うんだ。

 使えない?」

 そりゃあ、使えないわけがない。でも……、なぁ。


「そりゃ、あればありがたいさ。だけど、家庭科室は同じ階とはいえ、バリケードの外だ。取りに行くのはリスクが高い。ってか、ここにあとどれくらいあるの、梅干し?」

 僕の質問に、北本は軽く首を横に振って答える。

「そんなにはない。梅干しって案外重いんだよ。だから、干しカゴ1つ分しか持ち込まなかった。だから、ここにある残りはせいぜい30個くらいかな」

「……罠を作るとしたら、ゆかりは絶対必要だしな。面で使える」

 鴻巣がそう言って、僕たちはその言葉を反芻した。

 電気トラップという罠は、極めて有効だった。なによりも、こちらに死人も怪我人も出ないのがいい。うん、罠で使えるならたしかに必要だ。



 そこへ……。

 1年生が避難している、自習室の方からただならぬ、いや、凄まじいまでの悲鳴が響いた。

 死を予想させる悲鳴に考える間なんかない。僕は弓を持ったまま駆け出して、1年生のバリケードの隙間をスライディングで通り抜けた。そして、通り抜けた瞬間に視界に飛び込んできた光景に凍りついた。


 どうやってここまで登ったのか、蒼貂熊アオクズリが非常口のガラスを叩き破り、片腕を突っ込んで廊下で振り回していた。非常階段を上がった踊り場があまりに狭いので、身体の半分は空に突き出ている。足場にしている鉄製の手すりは、蒼貂熊の体重に耐えきれず、ぐらぐらと揺れている。アルミサッシの非常口の扉は、軋み、撓み、いつ壊れてもおかしくないけど、一撃で吹き飛ばされずに済んでいるのは蒼貂熊の踏ん張りが利いていないからだ。

 あっ、そうか、北本がハンドソープを手すりに塗っておいたのが、ここに来て効いているんだ。


 僕、弓を放り出してバリケードに積み上げられていた机の足を掴むと、天板を蒼貂熊に向けて一気に走った。

 無我夢中だった。このアルミの扉が壊されたら、僕たちはおしまいだ。僕は、机ごと蒼貂熊の腕に体当りして、その動きを抑え込んだ。だけど、まったく対抗できていない。

 体当たりの一瞬だけ力は均衡したけれど、蒼貂熊の腰の入っていない手押しにすら僕の全力は敵わない。爪はかろうじて防げているものの、じりじりと机の天板の縁に向けて爪が動いていく。爪が天板の縁に掛かったらおしまいだ。今の押し合いから横へ薙ぎ払う力になって、僕は吹き飛ばされて終わる。


 なんで、どうして、こっち側から蒼貂熊の攻撃が来たのか理解できないまま、僕の人生は終わりに向けて残り数秒のカウントダウンを終えようとしていた。

 そこへ、後ろからなにか叫び声が聞こえ、1年生の男子3人が僕と同じように机を構え、蒼貂熊の腕に体当たりを敢行した。


 なんだ、この1年生なのに、僕より体格の良い3人は?

 だけど、合わせて4人で抑えても、蒼貂熊の腕は止まらなかった。巨大な筋肉の束が僕たちの渾身の力をあざ笑うように、机の天板の向こう側でアナコンダのように不気味にうごめいた。僕の人生の最後の数秒は20秒ほど延びたけど、どうやらそれだけのようだった。それでも、最期まで抵抗はやめるつもりはなかった。


 恐怖の中で渾身の力を出し続けるのには限界がある。

 僕の目はとっくに酸欠と恐怖で視野狭窄を起こしていて、ほとんど見えていなかった。そんな中、肩を叩かれたような気がしたけど、視線を向ける余裕もない。


 次の瞬間、ついに僕と3人の1年生は吹き飛ばされていた。



あとがき

第41話 蘇生

に続きます。

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