~空砲~(『夢時代』より)

天川裕司

~空砲~(『夢時代』より)

~空砲~

 私はついに夢の中で夢を書いて居た。かなりの長文を唯ひたすら、ひた走りに書いている。その夢で見た切れ端、切れ端、を紡ぎ合わせる様にして大学ノートに写し、きちんと意味を成す様に取り計らう。確かに現実で私がいつもやっている事だった。しかし現実での私は最近、見た夢をよく忘れる。夢の途中で目覚めて起きて、もう一度眠りたいのを我慢して〝早くこれを書かねば、忘れぬ内に書かねば〟と思って居る内に焦りの様なものが体内に芽生えるのか、余計に拍車を掛けた様に忘れる。あの長文は出鱈目で意味を成さなかったものかも知れない、でも夢の内ではかなりの出来栄えで書けた、これは、ちと整頓して書けば結構面白いものが仕上がるぞ、等と思えた代物であったが、いざ今に成るとその書いた内容が出て来ない。私は昔、物書きをしている内に、段々と〝長文を書かねば気が済まない〟という一種の癖の様なものに捕われて居た事が在り、今又、その悪い癖が出て居るのかも知れない、そう思った。一、二、三段と夢を見て、三段目はかろうじて覚えちゃ居るが、二段目は半分位に靄(もや)の様なものが掛って居り、一段目は全く綺麗に引き出しに仕舞われて、又もう一度眺めて確認したいのに、尾鰭(おひれ)まで綺麗に箱の中に消えてしまって全く見えない。やはり、妙な義務感が芽生えて実力を発揮出来ぬのか、等つくづく考えたりもした。

 夢は一~三段位に及んだが、覚えて居るのは二の後半から三段目であり、それにしても〝斑(まだら)だろうな〟という思いが抜けない。

 私は羽織袴を着て、しかし誰か主に仕えるでもなく、戦国か江戸時代に見る様な村に居た。その村には少数の村人が居て、殆ど皆家族同然の様にして育って居た為、他人の幸・不幸に敏感で、誰かが幸福に成れば共に喜び、誰かが不幸に成れば共に悲しみ何とかしてやろう、と厚い友情を見せて居た。私が居た時、その内の不幸が起きた。私の二軒隣りに住む商人の様な一家族が生活についに困窮し、明日には路頭に迷う、といった状態に成って居り、我々は持ち前のボランティア精神を発揮して〝何とかしてやろう〟と思った。その〝ボランティア精神〟とは愛情の様でもあった。日々の生活の内では、他の者達も苦しいが、何とかやりくりして食物や金を分け与えた。だが、いつまでもそうすると自分達まで破産してしまう為、何とか又その困った一家が以前の様に儲かる様に(生活が出来る位に)してやりたいと応援した。しかし一向に良く成らなかった。ついに村人は何かこの貧乏には原因が在るんじゃないのか?と考え出した。この村では沢山の者がこの店へやって来て自分達の生活用具を買って行く。だから周りの者達にしても、その心底には〝潰れては困る〟という思いが漂って居たのかも知れない。他にも似た様な店は数軒在ったが村人達は、今目に見えて困って居る人を助けようと躍起に成って居た。

 私は夢を見ながら、よく咳き込んで居た。途中、咳の所為で何度か起きたので覚えて居る。何かが、喋ろうとする際に喉に痞える感じがして咳をせずには居れなかった。コンコン、としたくない嫌な咳をしていた。その所為かこれを書いている今でも喉と、多少胸も、その感覚を覚えて居り、又、物凄い胃酸が湧き上がって来て居りげっぷすると食道の辺りがゴゴゴゴ…、ぐわんやか!わんわんわん…と酷く痺れ、吐きそうにも成った。これ程の身体状況だったのに、私はその夢の内の村では元気に走り回り、咳一つしたのを憶えて居ない。見える物は現実の物であり、仲間意識を大切に出来る程私は元気だった。

夢と現実は別物なのか、夢で憶えた実際は現実では何かに淵当って通用しないものなのか、今ベランダへ出る窓からはこんなに陽が差して居るのに夢の中までその陽が届かない。現実では他人が気に成るが夢の中では時として他人を忘れ、自分の主観に夢中に成る。「夢中」とは良い言葉で、正に今私が欲しがって居る活気の様なものを備えている。私はこの地球上で多くの物を見過ぎたのか。多くの不純な物を見過ぎて要らぬ算段が付いてしまったのだろうか。人の身体はこの現実に於いては衰える一方であるのに、夢の中では大抵自分は若い。年を取っても若く、詰まり、この現実の〝一方通行性〟を自由に支配出来て、今自分に必要なものだけを掴む事が出来るのだ。男も女も環境も成り行きも選べて、まるで自分の奥底に光る本能の様なものがどこかへ仕舞って忘れて居た箱の中から取り出されて目前にそれとなく差し出され、「忘れて居ただろう?」と何かに優しく窘められる様な自由と感覚を夢は私に教える様だ。

一度、フロイトの〝夢心理学〟でも読んでみようかと思う。何か、発見が在るやも知れぬ。でも不思議なものだ。現実に於いて夢の事を研究しているなぞ、夢を現実の歯車の内に引き込む一つの手段にも見え兼ねない。かの、川端康成氏も、よく夢を題材にして居た。夢とは一人の世界をひけらかすもの故、見知らぬ他人からは疎まれ、嫌われる習性が在る。しかし、その夢こそその人の本性で在り、オリジナリティを発揮する処で在り、神からの贈り物と言われ、貴重なものだと私は思う。夢を軽んじるべきではない。深く追究して見る価値が在るとする。

私はこれまで幾多の夢を見て来た。しかし、その殆どを追憶でも見ない程に忘れてしまって居る。今まで見た夢を全て鮮明に書き出したデータを、現実に於いて目前に並べて見たらどんな感想が湧くだろうか?密かに、この世のものとは思えぬ程の、荘厳で稀有な感想が湧き出て、そこから新しい思想なりが芽生える事を私は願って居る。もしかすると又、詰まらぬものかも知れないが、興味を覚えた題材に例えば科学者が臨む姿勢を考える時、この理想に立ち向かって居る自分の姿勢も似た様なものだ、と案じてしまう。

現実に於いて眠って居る際に夢は見るものだから、と論理的に積み上げ、夢も現実の物として、他の現実の物と夢は何も変わらない物とする人も在る。しかしその夢の中での事は文学以上にこの現実では役に立たない余興の様なものとして、見た後はいずれゴミ箱にほかしてしまい、敢えてか自然にか、そういった夢の事を話すのを億劫がる人も在る。又、夢で見たものを私がしている様に紙に書き出し自分の分析を以て現実から足を浮かせ楽しむ人も在ろうが、夢、夢に纏わるもの、を直接現実での生業にしている人はどれ位居るだろうか。フロイトも〝夢心理学〟をしながらサイドビジネス、或いは本業で、違う生業に没頭していたんじゃないだろうか、等の疑問さえ湧く。夢とは人が司るこの現実にとって弱い存在(もの)で在り、生業としては何の役にも立たない、等と早合点しそうな位に、私の経験に於いて見た後、冷めるもので在る。

夢は何の計算もない様に見えて、実は奥底で計り知れない計算をしているのかも知れない。忘れて居る程の出来事、対象を脳裏から持ち出して来て今思う対象に結び付け、その夢を見て居る当人を強く影響させる程に感動を覚えさせる事が在る。この「感動」とは並大抵のものではない。得てして人は夢を軽んじるがその軽んじた夢は人をその世界に引きずり込んだ上で、その世界の支配者、犠牲者、に仕立て上げる程の効力を持って居る。これは例えば興味を持ったインターネット・サイトの広告に手続きを踏まえて夢を実現させる事よりも、見方によっては偉大・貴重な事である、とも思える。夢を以て、現実の物を動かすのは人である。こうした一人の世界で見る夢から、世界の名だたる偉大な事業は今に成立しているのではないだろうか、なんて胡散臭いと思いながらも個人故に捨てられない思惑が在る。その「思惑」とは夢を叶える事への希望である。

夢には現実の論理を超えた強みが在り、論理的ではない脆弱(よわ)さが在る。そこで又人は躊躇した上で、夢を捨てる様にも見える。人にとって夢とは何なのか。現実の歯車と噛み合わなくてはやはり夢は役立たないものか。夢の前に共存する為の道徳が在る。この「道徳」がもしかすると先述した「現実に於いて淵当たるもの」なのかも知れない。夢は純朴な姿のままでは人との共存に融合する様にして在り続ける事は出来ないのか。

現実の話から夢の話へと戻したい。私は、現実ではこんなに幾多の事で悩み苦しんで居るのに夢の中ではまるで関係ない様に、幾多の物を見て、はしゃぎ回っている。私は誰か友人と、〝もしかしたらこの一家が貧乏に成っているのには、我々が見て居る処より他に原因が在るのかも知れない〟と考えた。

友人「もしかしたらこの店から地代を巻き上げて居る地主が余計多目に取って居るのかも知れんなぁ」

私「その地主ってのは誰なん?」

友人「あそこに居る代官様じゃ」(一つ二つ家並みを挟んだ向こうに見える、黒い瓦と白い塀で建てられた屋敷を指差して当たり前の様に言う。)

私「ピンはねか。でもそんな事どうやって出来る?地代を渡すのはその店の主で、受け取る代官も他の者の公認の内で為すのだろう?ピンはねなんか出来る余裕があるのか?地代の渡し方は?」

友人「ああ、お前は知らんかも知れんが、地主はこの店に勝手に上がり込んで地代を取って良い事になってるんじゃ。だから余計目に取っても誰も気付かん….」

私「成程な。そりゃ気付かんわ…」(この国、その当時、特有の時代のしきたりかと思わせる程の、身分差別による不条理な特権の為せる業が流石に効いてやがる、等と私はその時思って居た。)

私「したら、そこでちびちびといつも多目に地代を?」

友人「うん、それは考えられる。行ってみるか?」

等と私は友人と語り続け、新事実の発見と成り行きで、そのお偉い代官の様な地主の陰謀を暴く事に賛同して居た。しかし同時に、幾ら時代の身分差別とは言え、よくもこんな無茶な規定がまかり通って〝良し〟として居るものだ、と半ば呆れて居た。

 私はその友人と共にお偉いさんの家に行って居た。途端に場面が変わって現代の様に成り、私の元職場の様でもあり、その家は一~三階まで在ってエレベーターで上がれる様に成って居た。一階にも三階にも私達が会おうとして居たお偉いさんは居た様で、私達は先ず一階に居る代官様に会おうとして居た。ここまで来る途中に、私は一人に成って居り、道を平行移動するエレベーターに乗って居た。エレベーターの箱だけが電動か何かで動いて居り、道の上を少し浮いて移動して居る様なのだ。私と丁度乗り合わせた人に、私が一番初めに社会に出て働いた施設での先輩の女が居た。年は私が上で在り、又、そのエレベーター内はその女と私だけだった。

 私は慌てて駆け込み始めは気付かず、後方から自分の名を呼ぶ声がした。私はそう成る事を薄々気付きながらそっと振り返ると、本当に懐かしく、又綺麗な顔がそこに在った。その綺麗な女がそこに居る事、後方からでも、自分から私に声を掛けてくれた事、等が私はとても嬉しく、満面の笑みを以て〝え?あのUさん?UTさん?!いやぁー懐かしいなぁ、どうしてるかと思ってたわー、元気なん?〟としゃかり気になって応対し、Uも持ち前の可愛い笑顔を以て色々私に話してくれ、私はこの人を、この場では大切にしたい、と思って居た。私達は今の事を色々喋り合った。

 私達はエレベーターを降りて、私がよく通った教会の辺りに在る白い塀横の道、又二つ目の職場まで辿り着く途中に在る田圃の中の畦道の様な場所、を少々早足で歩いて居た。そこでも〝今の話〟をして居た。彼女には又別の用事が在ったのか、私にも用事が在り、私達は道を歩き終えた後で別々の道に別れて、又私は当の任務に戻って居た。この順序は逆に成って居るかも知れない、一~三階建ての建物に着く前に在った展開にも思える。私はその三階建ての建物の一階に入る際、一緒に来て居たその友人とそこの秘書の様な門衛から、〝この館内は靴を履いては入れません〟と聞かされ、ここに着く前、友人も〝中は靴では入れないよ〟と言って居たのを思い出す。私は落胆し、体良く見せる算段をしなければならぬ、と焦った。私は常に自分の背丈を高く他人に見せる様に厚底の靴を履いて居り、それを脱いで入ると成れば、背丈は当然低く成り、周りの者に知られて体裁・格好が悪く成り、又、地主を説得しに来てるのにその説得に於いても調子が出ず、私の底を見られて私は説得出来ないかも知れない、等と有る事無い事妄想し、小さく成って居た。そこの門前には下駄箱が三つ程並べられて在り、かなりの量の靴が置いて在った。成程来客なのか、人も沢山私の周り、この建物の内外に居る。〝置き忘れの靴〟はその下駄箱の上にビニール袋に包んで置かれて在った。その人混みの内には今まで現実に於いて出会った私の友人、又、二つ目の職場で一緒だったFやTT等も居た。私は一度算段している内に何を思ったのか、その時、避暑地の様に見えた狭い一室に飛び込んだ。そこにもエレベーターが奥に在った様で、なかなかの人数がエレベーター待ちして居た。その人数の内にFが居り、私は苦しくも人に知られたくない恥ずかしい算段中で在った為か、Fを見付けると仲間意識が芽生えて〝お――っ!?Fやん!〟と大き目の掛け声を発しFに近付いた。Fはそんな私を見て楽しそうに笑い、ふざけて私の腰辺りを蹴る真似をして来た。その時の私には少々嬉しい戯れだったがしかし、私の真の目的はそこにはない様で、私は又順路の様な表口に出てさっきまで友人と居た一階玄関に戻った。人が増えて来たのか、その玄関口にも、又中を覗いた矢先にも、代官に会う順番待ちをして居る人の列が背中を向けて並んで居る。わいわいがやがや五月蠅く、活気が在った。私はその活気に紛れて、何とかこの館内でも履ける少しでも厚底のスリッパの様な物を入館する前に獲得しようと思い、さっきの下駄箱を順々に、大雑把に、探し回った。なかなか見付からず諦めようかともして居たが、それでも〝それでは行かぬ〟とやはり探し、なかなか探すのを止められなかった。どの棚を見てもまとも(「まとも」は点付け)な靴しか見当たらず、スリッパも普通のスリッパで厚底が無い。確かにどんな靴を見付けても、ここの館内では履けないかも知れぬ。しかし持ち前の習性が祟ってそれでも探すのを止められず、私は〝あわよくば〟に賭けて居た。あわよくば、ぬすんで靴を履いたまま、この館内に入れるのではないかと。している内にましと思える踝少し上辺りまでのブーツの様な物を見付けた。ほんの少し、他の物より厚底である。私はそれを下駄箱のてっぺんから取り、来客用のスリッパではない、と知りながらも懐に忍ばせ、人目を掻い潜って、うろうろして居た一階の入り口は避けて三階から入ろうと、三階入り口まで行くエレベーターの前に並ぼうとした。その時の私は長めのオーバーオールの様な物を着て居り、丁度その靴をオーバーの内にすっぽり隠して小走りに成って居た。その靴は良く見ると女性ものの様だった。足を入れる所の淵にフー(Fur:毛皮)が付いて居り、サイズ、外見、を以て女性の物のそれと思えたのだ。同時に持ち主が居る事を容易く予測出来、その持ち主が女性なら又厄介な事に成るな、等と一抹の不安をも感じた。

 その辺りで目が覚めた。結局、代官(地主)に会えず、三階行きのエレベーターを見る事も叶わなかった。又あの村の困った店の行く末も知らない。私はそれよりも、その前に見た恐らく二段目の夢の内で長々と書いて居たあの文句達の方が気に成る。一文、一文、きち、きち、と端正に首尾良く纏め、後から見て少々嬉しく成る程の物の様だった。見知らぬ内に自分で仕舞い込み、敢えて忘れさせて居る様だ。やはり一度目の、あの文句を呟いて目覚めた時に、少しでも覚えた内容を紙に書き取って置くべきだった、と今に成って少々後悔して居る。怠け者の私には、どうしても思い出せぬのだ。

 私は夢を見終えた後で、ふと考えた。今までに見た夢の数々を自分は一体どれ程見逃す様にして忘れ去ってしまって居るのだろうと。これ迄に夢で見た自分の言動と他人の透き通る様にして解る内心を全て憶えたままで、現実に於ける他人に接すれば、もしかしたらもう少し違う展開が自分を取り巻いて居たのではなかろうかと、又少し思うのだ。

「天を仰ぎ自分を省みよ。天に放った自分の分身の内に他人が潜んで居るのだ。この世を窮屈と見るな、命の先を打て。お前の光はそこに在る」

この夢を見ながら私はこの言葉を聞いて居た。



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~空砲~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji

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